1932年(昭和7年)満州国が成立。

満州国が成立すると、関東軍は満州国と中国の間の内蒙古と呼ばれる地域に緩衝地帯を作る方針を決定。

具体的には、内蒙古に親日・新満州的な自治政府を作るというもので、1941年(昭和16年)関東軍の支援で内蒙古に「蒙古自治連邦府」が成立し、首都・張家口には約4万人の邦人が生活していました。


昭和20年8月9日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍は日本領であった千島列島や南樺太、満州に侵攻を開始し、内蒙古にもソ連軍機甲部隊と外蒙(モンゴル)騎兵の混成部隊が国境を突破し、戦車・装甲車400輌、各種口径砲・追撃砲610門、兵員約4万2千という大部隊がなだれ込んできました。


昭和17年頃の駐蒙日本軍は、戦車第3師団・第26師団・独立混成第2旅団(響兵団)など4万5千の兵力でしたが、昭和19年から兵員・装備を南方や中国戦線に引き抜かれ、ソ連参戦時には張家口方面を守備する響兵団の一部と、急遽新編成され大同に司令部を置く第4独立警備隊のみとなり、兵力はわずかに5千名となっていました。


ソ連の本質を見抜き、ソ連軍相手に絶対に武装解除をしない事を決意していた内蒙古駐留軍司令官・根本博中将は、昭和20年8月15日玉音放送の直後に「日本は戦争に敗れ降伏しました。みなさんは今後の事を心配していると思いますが、私の部下将兵はみな健在であります。私の命令のない限り、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄する者は一人もおりません私は上司の命令と国際法規によって行動します。皆さんには軍の指導を信頼し、その指示に従って行動されるよう強く切望します。」

と放送し、在留邦人の命を守るため、駐蒙軍全軍には

「全軍は別命あるまで依然その任務を続行すべし。もし命令に依らず勝手にその任務を放棄したり、守備陣地を離れたり、あるいは武装解除の要求を承諾した者は軍律によって厳重に処断する。」と命令し、特にソ蒙軍主力と激突することになる張家口北方の丸一陣地の守備隊に対しては、「理由の如何を問わず陣地に侵入するソ軍は断固撃滅すべし、これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」と命令を下し、在留邦人の引揚げ完了まで激戦を繰り広げました。


張家口の在留邦人の引揚げは8月20日午後から本格化し、翌21日夕方には4万人の引揚げが完了。

ソ蒙軍と戦っていた響兵団も撤退作戦に移りますが、途中で力尽きて斃れてしまう兵士も大勢いました。


戦争が終わり本国から武装解除命令が出ているにもかかわらず、戦犯となる事を覚悟し命令を拒否した根本博司令官と、停戦交渉に向かった日本軍軍使の射殺や、武器・糧秣、邦人財産の略奪を行うなど軍紀など全くないソ蒙軍に対し防衛戦を行い、在留邦人を北京や天津へ脱出させた響兵団。


ボロボロになりながらも我が身を顧みず、邦人保護に全力を尽くした日本軍部隊の本当の姿を知る事ができます。


内容(「BOOK」データベースより)

邦人のタテとなりソ連機甲部隊の侵攻を阻止したわずか一個旅団の戦争。敗戦を迎えてなお、ソ連・外蒙軍から同胞を守るために軍・官・民一体となって力を合わせた人々の真摯なる戦いを描く感動作。

昭和20年8月20日―内蒙古・邦人四万奇跡の脱出/稲垣武/PHP研究所/1981年


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新装版

昭和20年8月20日 日本人を守る最後の戦い―四万人の内蒙古引揚者を脱出させた軍旗なき兵団/稲垣武 /光人社/2011年