フィリピンの南端、ミンダナオ島とボルネオを結ぶ線上に位置するスールー諸島のホロ島。


戦時中、この島には米軍の飛行基地がありましたが、開戦後の緒戦に於いて日本軍が上陸占領し、飛行基地として海軍部隊が警備していました。


やがて米軍の反攻が始まると、フィリピン奪還の気配が濃厚となり、最初に手を掛けるとすれば南端の島で飛行場もあるホロ島になる可能性が大きいと判断され、日本軍は米軍の侵攻阻止のために、急遽陸軍部隊を送りホロ島の戦力を強化しました。


日本軍は陸海軍部隊の他に、航空通信隊、付近で撃沈された船舶の船員など約6000名で米軍を向かえ討つ事になります。


ホロ島守備隊はアッツ島・サイパン島・硫黄島・ペリリュー島など他の孤立した島同様、武器不足や食糧不足による飢餓、物量豊富な米軍の攻撃により玉砕の道を辿り、6000名のうち生還したのは僅か80名というものでした。


物資不足や米軍との圧倒的な戦力差は他の島と同じでしたが、この島は他の玉砕地とは違う特徴がありました。

それは他の種族から非常に恐れられている、モロの王国という事です。


この島から生還した著者の藤岡氏はホロ島のモロについて次のように語っています。


彼等の最も凶悪なる所似は、其の背信性にある。

之は他の未開種族には、あまり見受けられない特性であろう。

この島に来て、数十年モロの中に入り込み、モロの女と結婚している一ビサヤ人は、

最後まで我々に好意ある忠告を惜しまなかったが、彼は常に「モロには油断を見せるな」と言った。

「モロはどんな人をも平気で殺す。モロと道で行き違ったら、必ず後ろを振向け」とも言った。

モロが道行き違った時には、其れが隣近所や親戚の者同士でも、互いに後ろを振り返りあっている光景をよく見受けた。

彼らは蛮刀の抜討が得意であり、行き違いざま、ばっさりやると言う習癖が、女子供に至るまでこんな慣習を与えてしまったものであろうか。

彼は「モロに物を買う際には、彼等を地面に座らせて交渉しろ」と言った。

モロは値段の交渉中、着物や装具に仕込んだ刀で、相手を殺害する事があるからである。


モロは怨恨や兵器欲、貴金属欲、排他性の他に、単に、殺人自身に興味を持っているのである。


我々がこの島に上陸して一ヶ月と経たない内に、百名に近い兵隊がモロに殺されてしまった。

いずれも「コムパニー、コムパニー」(友達の意)と近寄り、油断を見て蕃刀の抜討にあったのである。

一番多くやられたのは歩哨であった。


以上本文より



モロは付近の島々にも住んでいますが、ホロ島のモロは熱烈な回教徒で、排他・背信・精悍・獰猛・残忍性の全てを備えており、米軍でさえも手を焼いていました。

当初、モロは敗残米比軍から奪った武器を使い日本軍を襲撃していましたが、後には日本軍から武器を奪いその武器で日本兵を襲いました。

体力が落ち部隊から落伍した兵は首を落とされ、埋葬された兵は掘り起こされ金歯や褌まで剥がされたそうです。


日本兵は武器も無く、飢餓で苦しみながらモロに追われジャングルの中を彷徨います。

自分が生き延びるために仲間を見捨てるしかなく、死んだ指揮官や戦友を埋葬する事も出来ず、何のために生きているのか分からない。

そんな状況の中、著者は米軍が撒いた戦争終結のビラを見て投降を決意し、仲間数名と共に部隊から離脱をします。


離脱後は友軍に発見されれば逃亡兵としての処罰、そしてモロの襲撃に怯えながらも米軍が指定をした投降場所へ向かい、途中、道に迷ったりモロに発見されそうになりますが、無事に指定場所へ着くことができました。



飢餓で苦しみながらモロに追われ、多くの日本軍兵士が殺された。
日本ではあまり知られていないホロ島玉砕の記録です。



モロ ・・・フィリピンのスールー諸島・パラワン島・ミンダナオ島などの島に分布するムスリム(イスラム教徒)の総称





内容(「BOOK」データベースより)


日本軍将兵六千のうち生還した者わずかに八十人。アメリカ軍との戦いに三分の一が死し、三分の一がマラリアに斃れ、残り三分の一が恐るべきモロ族に殺害される―。フィリピン南部の玉砕地ホロ島での凄惨な記録が伝える戦争の真実。


敗残の記―玉砕地ホロ島の記録/藤岡 明義/創林社

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