日本から南へ5000km

オーストラリアの北に位置し、本州の倍以上の広さを持つジャングルに覆われた未開の島「ニューギニア島」


 太平洋戦争中、この未開の島ニューギニア島の東半分の地域に、15万人以上の将兵が投入され、昭和17年のポートモレスビー作戦から終戦までの3年間で11万人以上の将兵が死亡しました。

しかも、死亡した将兵の多くが餓死あるいは病死というものでした。


標高4100mの山脈を越えラエからキアリまで転進(撤退)し、2000名以上の死者を出したサラワケット越え。


キアリからガリまで移動し、その後フィニステル山系の最高峰ヨカバ山(3900m)を越え、3700名以上の死者を出しながらもマダンまで移動したガリ転進。


マダンからウエワクへ転進中、泥の中で動けなくなり多くの将兵が死んでいった、ラム河・セピック河の大湿地帯の行軍。


軍参謀長、その下にいる若い参謀、兵器部長・経理部長・軍医部長、軍司令部と師団司令部、将校の誰もが「この作戦はやるべきではない」「これは死ぬだけだ。なんの意味も無い」と反対したにもかかわらず、1人の指揮官の決断によって実行された「口減らし作戦」とも言われているアイタペ作戦


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本書14ページより


食料も薬品も弾薬も絶たれたまま転進をし、フラフラの状態で連合国軍相手に戦うという無謀な作戦を何度も繰り返し、大きな犠牲を出した東部ニューギニア戦。


なぜ、この地獄の島へ3年もの間大量の将兵を送り続け、多くの日本兵が戦闘によってでは無く栄養失調やマラリア、脳症、赤痢など病気で死ななければならなかったのか。


当時、補給担当将校として東部ニューギニアで糧秣(食料)の手配に当たっていた、陸軍主計大尉 岩田重雄さん、将校・下士官になるための教育を受ける幹部候補生となり、予備士官学校への分遣の為に死を逃れた陸軍上等兵 池澤嘉夫さんの二人の証言と、東部ニューギニアへ派遣され、死亡率95%にも及んだ第41師団歩兵第239連隊所属の陸軍軍曹 太田広球(おおた・ひろき)さんが残した詳細な手記を基に作家の久山 忍 さんがまとめた1冊。





東部ニューギニア戦線 鬼哭の戦場―生き残った将兵が語る最後の証言/久山 忍



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本書のタイトルにある「鬼哭」とは、「浮かばれない霊魂が恨めしさのあまりに泣くこと。また、その泣き声。」と言う意味