終戦を知らずに現地人も足を踏み入れないニューギニアのジャングルで原始人同様の生活を送った日本兵達の回想録。

終戦も近い昭和19年ニューギニア

圧倒的な物量の米軍上陸により、ジャングルの中を退却する日本軍。

 武器・弾薬、食料、薬品など全てが不足している日本軍は、過酷な行軍で徐々にバラバラになっていきます。

 陸軍の飛行場支援要員である著者 島田覚夫氏も仲間と共に米軍の追撃をかわしながら 生き延び、十数名の仲間と共にジャングルの中に逃げ込みます。      
 しばらくは食料貯蔵庫に忍び込み食料を運び出しながら食いつないでいましたが、マラリアや敵の襲撃に遭い、一人、また一人と倒れていきます。

 最終的に生き残ったのは著者の島田覚夫曹長・小島護上等兵・八重樫三蔵一等兵・下窪熊夫兵長の4人になり、マラリアと空腹に耐えながらも、甘藷(さつまいも)・タピオカ・パパイヤ・バナナを栽培し、破棄されていた小銃を修理し火喰鳥や猪を狩り、苦労しながら拾い集めた工具、農具、食器、蚊帳、服などを使い必要な道具を作り生き抜きます。
 
 可愛がっていた愛犬が吼えると現地人に見つかってしまうため仕方なく殺してしまうという事もありました。

 ジャングル生活7年目の昭和26年、遂に現地人からの接触を受け交流が始まります。
 最初に接触したのはコーヤという集落に住む現地人3人でした。
初めはお互いに警戒をしていましたが、身振り手振りでなんとか意思を伝え、時が経つにつれ会話もできるようになり、4人は現地人が必要な蛮刀やナイフの修理・製作をする代わりに、現地人から塩や燐寸など生活に必要なものを持ってきてもらうという物々交換を通して相当強固な信頼関係を築いていきます。

蛮刀やナイフ、斧、鋸を作る為に鍛冶仕事をする。
鍛冶仕事に必要な炭を焼く為に、曖昧な記憶を辿り炭焼釜を作る。
銃や落とし穴で狩りをする。
現地人から鶏を譲り受け育てる。
猪の子供を捕まえ飼い慣らす。
家を建て、現地人に頼まれた棚や箱を作る。
ツタをほぐし衣服を作る。

鍛冶屋・農作業・猟師・養鶏・養豚(養猪?)・大工仕事・裁縫などあらゆる雑用をこなしながら毎日を過ごし、現地人との交流が始まってからは必要な道具も揃い、食べる物にも困ることは無かったようです。


そして昭和29年、現地人同士のトラブルがきっかけで地元の官憲に通報され収容される事になります。


4人は、収容される直前に

『たとえこの地の土となっても、「あの椰子は日本人が植えてくれたんだよ」と椰子の木の生きる限り自分達の話を語り伝えてくれるだろう。

僅かでも彼らの心に日本人の記憶を残したい。』と思い、自分達が切り開いた農園に椰子を20本植えました。


椰子の実は熟れるまで30年近くかかるそうです。

ニューギニアで日本人たちと交流したコーヤの人達、そして自分達の事を思い出して欲しいと植えられた55歳になる椰子の木はどうなったのでしょうか?

気にります。


ニューギニアでこの記事を読んでいる方いませんか?

この本は昭和30年に帰還し、入院中に一緒に生還した小島護氏と概要を草起し、昭和31年に完成しました。
しかし、それから出版されず30年間埋もれていたそうです。

島田氏自身も半ばあきらめていましたが、同じ部隊出身の先輩方の協力を得、昭和61年ついに出版できたそうです。




私は魔境に生きた―終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活10年/島田 覚夫

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