鳥巣清典の時事コラム1556「トルーマン大統領『こんな破壊行為をした責任は私にある』❺」 | 絶対に受けたい授業「国家財政破綻」

鳥巣清典の時事コラム1556「トルーマン大統領『こんな破壊行為をした責任は私にある』❺」

歴史的スクープNHK『決断なき原爆投下』❺。

「NHKスペシャル」の画像検索結果


真相を知らず「軍事拠点の広島に原爆を投下」とトルーマン


27、「作戦は完全に成功した」

「広島に原爆」の画像検索結果

 このときトルーマンは大西洋の船の上にいた。戦後処理を話し合うポツダム会談の帰り道だった。

「ポツダム会談」の画像検索結果

 原爆投下の一方を受けたトルーマンは船の中で現実を知らされてはいなかった。あくまで軍事目標に落としたと強調していた。「先ほどアメリカ軍が日本の軍事拠点広島に1発の爆弾を投下した。原子爆弾がこの戦争を引き起こした敵の上に解き放たれたのだ」(ラジオ演説)。
 この時、軍の思惑に気づいていなかったとみられている。

グローヴスは原爆開発科学者に「君達を誇りに思う」


28、ワシントンで報告を受けたグローヴス。原爆を開発した科学者に報告し「君達を誇りに思う」とねぎらった。

「グローヴス」の画像検索結果


真相を知り「こんな破壊行為をした責任は(大統領の)私にある」


29、政権と軍の思惑がかけ離れたまま投下された原爆。トルーマンが認識の誤りに気付いたのはワシントンに戻った直後だった。その時の言葉ーー陸軍長官スティムソンの日記に克明に記されていた。
<8月8日の午前10時45分、私は大統領を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せた>。

 このとき見せたとされる写真。空から撮影された原爆投下直後の広島。直系5キロの市街地がことごとく破壊されていた。これを見せながら広島の被害について説明したスティムソン。

 そのときトルーマンが発した言葉も記されていた。
「こんな破壊行為をした責任は、大統領の私にある」

 明確な決断を行わなかった自らの責任に気づいたのだ。


全閣僚を前に「考えただけでも恐ろしい」(トルーマン大統領)


30、しかし動き始めた軍の作戦は、止まる事なく暴走していく。同じ日テニアン島では、すでに2発目の原爆の準備が整っていた。止められるのは、最高司令官の大統領だけ。しかし、原爆は長崎に投下される。広島の写真を見た半日後の事だった。
 トルーマンはこの時の心境を友人への手紙に記していた。
<日本の女性や子ども達への慈悲の想いは私にもある。人々を見殺しにしてしまった事を後悔している。>


31、8月10日トルーマンは全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する決断を述べた。トルーマンが、この場で発した言葉ーー「新たに10万人、とくに子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい」。

32、3発目の準備をしていたグローヴス。大統領の決断には従うしかなかった。「3発目の準備を中止させた。大統領の新たな命令がない限り投下はできなくなった」(グローヴス)
 日本への原爆投下がようやく止まった。

33、原爆が落とされた広島。そして長崎。黒焦げになった少年。寄り添うように焼けて亡くなった親子。地表は数千度に達したという。

 大統領が初めて下した決断。21万人以上の命を奪った末の遅すぎる決断だった。


「戦争を早く終わらせ米兵の命を救うため」と世論操作


34、大統領の明確な決断のないまま行われていた原爆投下。このあとトルーマンは、その事実を覆い隠そうとしていく。長崎への投下の24時間後、国民に向けたラジオ演説で用意された原稿にはなかった文言が加えられていた。
「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」

 多くのアメリカ兵の命を救うために原爆を落としたという。研究者はこの言葉が市民の上に落とした責任を追及されないよう後付で考えられたものだと指摘する。
「トルーマンは、軍の最高司令官として投下の責任を感じていた。例え非道な行為でも投下すべき理由があったというのは大統領にとって都合の良い理屈だった。この時、命を救うために核を使ったという物語が生まれました。世論を操作するため演出されたのです」(研究者)

35、8月15日、日本が降伏すると世論調査で8割のアメリカ国民が原爆投下を支持した。原爆投下は正しい決断だったという定説が生まれた。その後、原爆による被害の実態が不明のまま、世界では開発競争が続いていった。

 
「トルーマン」の画像検索結果

 原爆投下から18年後、トルーマンは1度だけ被爆者と面会したことがある。その時の映像。被爆者に対し原爆を投下したのは日本人のためでもあったと説明していた。
「原爆投下の目的は、アメリカ人と日本人、それぞれ50万人の犠牲者を出さずに戦争を終わらせるためだった」(トルーマン)
 最後まで目を合さず、面会は3分ほどで打ち切られた。


事実を語らぬまま88歳で生涯を閉じたトルーマン


明確な決断をしなかった責任。それを覆い隠そうとしたトルーマン。事実を語らぬまま88歳で生涯を閉じた。

 あの日、トルーマンと面会した被爆者が今も広島で健在だった。森下さんーー85歳。「我々被爆者とトルーマンと会うという事になったのですが、下でそれを見守っていました」。森下さんは、当時の落胆の気持ちを今も忘れる事はできない。「肩すかしみたいな感じでした。原爆投下を決定したとき、幼い命のたくさんある事を考えなかったのか」。
 森下さんが被ばくしたのは14歳のとき。同じ中学校の生徒のうち350人以上が犠牲になった。なぜ子どもの命が奪われなくてはならなかったのか。考え続けてきた。トルーマンが原爆投下は軍事目標に限ると記していた日記を見て貰った。
「女性や子どもを犠牲に・・しない・・。幼い命に想いを致さなかった訳ではない。それを絶対に押しきれなかった。それが残念ですよね」

 この夏も森下さんが通っていた学校で慰霊祭が行われた。一人一人に夢や希望があった。その事にどれだけ想いが馳せられていたのか。改めて仲間たちの無念と向き合う事になった。
「本当に安らかに眠れているかどうか。改めて想い起しましたね」

36、71年前、兵器の効果を示すため市民の頭上に落とされた原子爆弾。計画の実現だけを考えた軍の危うさを指導者は見逃した。事実は書き変えられ、原爆は正当化されていった。戦争は何をもたらすのか。広島、長崎が突き付ける重い問いかけなのだ。

******



【参考文献】

吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)