鳥巣清典の時事コラム1595「『美空ひばり最期の795日』から25年余・・」 | 絶対に受けたい授業「国家財政破綻」

鳥巣清典の時事コラム1595「『美空ひばり最期の795日』から25年余・・」

「主人は亡くなりました。享年85歳でございました。今度の6月22日で3年目になります」
 電話口の向こうで老婦人は静かに言った。
 ”主人”とは元済生会福岡総合病院院長で美空ひばりさんの主治医だった小川滋氏。私は四半世紀前の1990年に『美空ひばり最期の795日』(マガジンハウス)を出版。この取材で、大変にお世話になった1人が氏だった。3~4年に1度思い出しては電話をしていたから、前回の電話の後に亡くなったことになる。

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 すぐに同じ福岡市内に在住の関戸幸冶氏に連絡をとった。関戸氏も「新聞にも告知をしなかったらしく知らなくて。NHK記者から1か月ほど前に聞いたばかりなんですよ」。
 NHKBS3が6月24日のひばりさんの命日直前の22日に放送予定番組を制作中という。実は、”美空ひばり最後の歌声”ともいうべき音源があり、コロンビアからCDになっている。
 関戸氏がスラスラと答える。
「ひばりさんは87年に済生会に入院。88年に東京ドーム公演。89年に最後の公演を行っている。最後の公演は福岡県小倉の北九州厚生年金会館。その1つ前が私が直に目撃した、福岡サンパレスホール。ひばりさんは、すでに体調が思わしくなく、関係者の間で公演を中止するかどうかも協議されていた」
 私はそんな緊迫した場面をーー当時スポ―ツニッポン新聞本社福岡総局記者だった関戸氏にインタビューしてーー以下のように書いた。

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「やあ、どうも・・」
 関戸は、わざと気軽に声をかけ、口元に笑みを作った。
 だが身を翻すようにして振り向いた二人の形相には凄まじいものがあった。体を刺すような眼光である。
「何かあったんですか」
 関戸の問いかけにも、たちまち被さるように、
「ここで何をしているんだ! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
 上杉の罵声がハネ返ってきた。
 さすがの関戸も慌てた。
 ふつうなら記者根性で粘るところだが、あまりの剣幕に「ここは、いったん引き下がるにかぎる」と判断し、そそくさと元のドアのほうへと踵(きびす)を返した。

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  関戸氏の前に睨み付けて立つのは、ひばりさんの愛息の和也氏、それに後見人だった上杉昌也氏(当時部落解放同盟中央執行委員長・上杉佐一郎氏の腹違いの弟)であった。

 非常にドラマチックな時期であり、関戸氏の証言も得て、NHKが改めて再現ドキュメントとして取り上げるのも分からない訳ではない。放映は6月22日という事だが実は、故・小川滋氏の命日は同日だと奥様から聞いている。NHKが配慮したのか、単なる偶然かどうかは、私にも分からない。

 関戸氏が述べた。
「25年前じいちゃんがどんな事をやっていたのか、”孫に見せるために録画しておけよ”と息子に言っておきました。もちろん鳥巣さんが書いてくれた本は持ってますーー2冊もね(笑)。そうそうNHKのディレクターも僕に取材中は鳥巣さんの本を持っていましたよ」

 その関戸氏が電話の中で25年の歳月を経て「ディープスロート」の存在を明らかにした。済生会病院に入院するひばりさんへの見舞客情報や一時退院情報を極秘なはずなのに関戸氏だけがキャッチしていた。私はてっきり上杉氏ルートなのかと推理していたのだが実は全く違っていた。小川氏の逝去の報を受けて初めて明かされる真実ーーと、そこまでにしておきたい。それにしても、事実は小説より奇なり。同時に今日まで情報源を黙秘していた関戸氏の記者魂には脱帽。『美空ひばり最期の795日』は、ひばりさんを中心にして周囲はただ者ではない人たちの熱気で横溢している。それは私がこの物語にのめり込んだ理由の1つだった気がする。
 
 翌日、私は再び関戸氏に電話。「昨日の話で気になった事があって」--昨日の40分に続いての30分。「お互い、昨日の出来事のようにしゃべっていますね(笑)」。私は本を出版してから、数々のテレビ出演、週刊文春での疑惑の人物追及、海外出張取材、裁判闘争(文春勝訴)、追及人物との直接対決(国外退去処分)など数年間、ひばりさん関連の取材に関わった。
 それも関戸氏との出会いがなければ先への展開へと進まなかった事は確かだ。つくづく、運命の人だと思う。今日も尚、こうやって語り合える”良い戦友”の存在に恵まれたことを感謝したい。そして全てが記者冥利に尽きる体験だったことも併せて天に感謝したい。
 

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PS

 かくいう私も60歳代半ば、ゆっくりと人生の坂を下りています。「断舎離(だんしゃり)」ブームにあやかってという訳ではありませんが、このG・W中に妻子の手を借りて身辺整理第1弾に勤(いそ)しみました。ひばりさんの取材資料は最後まで残していたのですが、ついに8割余りを処分。シンプルにしておく事が、後に残される者のためにも必要だと思うからです。そのことは、実家の整理の時に痛感しています。
 息子に「背広で欲しいものはないか?」と聞くと、「体格が違うから要らない」との返事。そういうやり取りをしているうちに、気分的にもだいぶ自由になれた気がします。
 でも、まだまだ。「1年以上手に触れなかった物は捨てる」のが基本らしいのですが、本や資料、服などどこまで捨てていくか、何事も”良い加減”は難しいものです。

(*鳥巣注)ちなみに上記の関戸氏は25年前の取材資料を保管していて、NHKには歴史資料として貸し出したそうです。「例えばひばりさんの公演に招待された著名人も、25年前のことだと席順に記憶違いも出てくる。僕は招待者の席順の印刷物を保存していたので、NHKは証言者たちの記憶と照合できたようです」(関戸氏)

PS②

 5月5日、訃報が入りました、編集プロダクション『エディ・ワン』社長の浦野敏裕氏が癌で亡くなりました。享年60歳とまだ若く、2年ほど前には癌摘出手術の後も仕事に復帰されて意気軒昂だったのに・・と訃報を聞いて悔しい想いがしました。初めて会ったのは40年も前、あなたが青春出版社にいた頃でしたね。生前、お世話になりました。心よりお悔やみ申し上げます。

 先月は上京した高校時代の同級生と新宿で会ったのですが、同級生のU男が亡くなったと聞きました。「●●も癌のステージⅣで手術をした」などと故郷の便りも健康にまつわる話が多くなってきました。

PS③
 5月2日サイクリング好きのS氏と約6時間のサイクリングを楽しみました。メインは世田谷の等々力不動尊と隣接する等々力渓谷。都会の中の静寂を満喫しました。もっともS氏はマラソンをやっていたとかで脚力は抜群。上り坂で氏の自転車についていくのは大変でした。

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