鳥巣清典の時事コラム1009「朝日『集団的自衛権で武力行使』棚上げ~自民 閣議決定に明記せず」 | 絶対に受けたい授業「国家財政破綻」

鳥巣清典の時事コラム1009「朝日『集団的自衛権で武力行使』棚上げ~自民 閣議決定に明記せず」

 朝日新聞(6月24日朝刊)の一面は「『集団的自衛権で武力行使』棚上げ~自民 閣議決定に明記せず・合意優先、別の手段探る」との見出し。
<政府・自民党は23日、侵略した国を国会決議に基づいて制裁する集団安全保障の際、日本が他国と一緒に武力行使できるようにする案を閣議決定に明記しない方針を固めた。自衛隊の海外での武力行使の範囲が際限なく広がるとして公明が猛反発し、提案からわずか3日で棚上げした。だが、閣議決定への明記以外で集団安全保障の武力行使ができないか、さらに別の手段を模索する考えだ。>
 そして3面には「諦めぬ自民」の見出し。
<あきらめきれない政府・自民側は、集団安保の下でも武力が使えるような「抜け道」を探り始めた」。(中略)政府・自民側はなお集団安保で機雷除去に加わる余地を残そうと腐心している。その論法は、集団的自衛権の行使が認められれば、他国が集団安保で機雷除去をする場合でも、日本だけは「集団的自衛権を使っている」と主張するものだ。自民幹部は「これなら、閣議決定に集団安保を明記しなくても武力行使が可能になる」と打ち明ける。
 しかし、国連決議に基づく集団安保と、各国の判断で行使する集団的自衛権は全く異なる概念で、武力行使の基準を国内外で使い分けることに他ならない。今回は与党間の合意を優先して決着が先送りされたが、今後、国会の関連法審議などで議論が再燃する可能性もある。>

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PS①
 書籍のゲラ修正を終えた後、新宿で映画『ノア 約束の舟』を鑑賞した。
 旧約聖書の創世記に記された「ノアの箱舟」の物語を実写化した大作。
 ナレーションは、天地創造をこう綴る。
<そして神は男と女を創った。人類の父と母を。
 神は選択を与えた。
 暗黒の誘惑の道か。光に満ちた祝福の道か。
 二人は禁断の実を食べ、汚れを知らぬ心を失った。
 アダムから十世代、人間は罪深い行いにまみれた。
 兄弟の諍(いさか)い。国と国との争い。
 神に背いた人間。殺し合い。世界を破滅させたのは人間。我々自身なのだ。
 美しかったもの。善であったものを粉々にした。
 だからーー初めに戻る。

 人間は堕落し、地上には悪がはびこった。
 そして、主は仰せられた。
 人間を地上から消し去ろう――。
    (旧約聖書 創世記より)


 メガホンを取るのは、『ブラック・スワン』などの鬼才ダーレン・アロノフスキー。ノアにふんするラッセル・クロウ。
 ひと言でいえば、キリスト教は逆説が多く難解である。
 終演後のエレベーターの中でも、感想を訊いたご婦人は「分かったような、分からないような・・」とつぶやいた。もっとも、難解だからこそ奥が深く面白いとみる向きもあるだろう。
 監督自身の”創作”もある。
 「人間は、罪人である。現に悪事ばかりを働いている」→「神の意思として子孫を絶やさなくてはいけない」→「孫に女の子が生まれてきたら、即座に殺す」。あまり書くとネタバレになってしまうが、ノアはそんな事を本気で考える。それが、神の意思なのだーーと。
 こんな、台詞のやりとりがある。
「神は、ノアが善人だから選ばれたのかと思っていたのに・・。(残酷な人間だ)」
「いや、いちばん神の意思を忠実に実行する人間だから選ばれたのだ。それに、どんな人間にも、善があれば、悪もある。(妻に)おまえだって、子どもを守るためには、人を殺すだろ?」
 と。
 つまり、「何が善」で、「何が正義」か、一概には決められないだろ?という訳である。

  映画評論家の
牛津厚信氏の解説のような見方もある。
これはよく知られた旧約聖書の洪水の物語。だが、劇中たびたび巻き起こるのは、恍惚を覚えるほどのイマジネーションの洪水でもある。たとえば、暗闇にいざ光が灯るとそれから7日間をかけて、この地上がめくるめく生命の祝福を享受していく天地創造。あるいは、ひと粒の水滴が土を濡らすといっせいに草花が吹き出し、荒地に大河が湧き起こっていく奇跡。いずれもダーレン・アロノフスキーならではの映像美が冴え渡る。「ブラック・スワン」以来、実に4年ぶりとなる新作で彼は、幼い頃より心酔してきた「ノアの箱舟」に独自の解釈を加え、壮大な映像絵巻として世に解き放った。  ある日、雷に打たれるがごとく啓示を受けたノアは、きたるべき洪水に備えて箱舟を建造しはじめる。もう間もなく人類が終焉を迎える。それを知りながら、神の意志のまま黙々と行動するノア。そのあまりに重い宿命を際立たせる上でも、ラッセル・クロウの存在感には説得力がある。それはまるで「ザ・レスラー」のミッキー・ロークを彷彿させる、巨大な、そして悩める肉体なのである。  かくも本作にはノアの人物像をはじめ、他にも聖書に言及のないディテールが数多く盛り込まれる。やがてノアのもとにはおびただしい人間が押し寄せ、必死になって箱舟を強奪しようとする。それに対抗すべく、ピンチになるとノアに手を貸す謎の巨人たちも登場!彼らの助けを借りながら、箱舟周辺がスペクタクルな修羅場と化していく光景は、まるでグラフィックノベルのワンシーンのように、鮮烈に突き刺さる。  一方、洪水がはじまると、今度は密室型心理劇が顔を出す。つまり、従来のアロノフスキー色が前面に迫り出してくるというわけだ。そこには信念を貫くあまり、狂気へと振り切れそうになる男の姿が刻印されている。なるほど、人間とはそもそも、気がふれるほど何かを貫き通し、そして命を賭けて決断を下そうとする生き物なのだと、そんな監督の想いすら聞こえてくるかのよう。思えば「π」から「ブラック・スワン」まで、アロノフスキー映画の主人公はみんなそうだった。彼が描きたかったノアという人間は、まさにその原型とも言うべき存在なのかもしれない。>
 
 一方、キリスト教の説く「愛」の解釈も一筋縄では行かない。
 佐藤優氏も著書『修羅場の極意』(中央公論新社)でこう書いている。
「<イエスは、誰でも愛しなさいという博愛主義を説いているのではない。あくまでも敵は敵なのである。何となく「みんな友だち」というような生温い人間関係をイエスは好まない。(わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。/人をその父に/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。/こうして、自分の家族の者が敵となる。>(「マタイによる福音書」10章34~36節)とはっきり述べている。
 イエスは、まず敵と味方をはっきり峻別せよと説いている。その上で、敵を愛するのである。」
 とにかく、これでもかと「最悪」「究極」の場面が設定され、判断を迫られるから、「脳味噌」や「心」にたっぷりと汗をかくことになる。
 この世の中は、色々な「解釈」「見方」で花盛りなのだ。
  そして、「解釈」と
アロノフスキ―監督が拘泥する「(人間の持つ、命を賭けて完遂しようとする)意思貫徹力」が合体すると、時にはスゴク良いことも、スゴク悪いことも起こり得ることを歴史が証明している。(本当は、善悪の判断は神のみに在る、というのが聖書の教え。)

 ひとつ、おまけに――。
 日本の集団的自衛権も、やはり”解釈変更”が議論されている。