鳥巣清典の時事コラム132「現代中国と唐の時代⑥朝廷」
前回、「中華思想」を取り上げました。
おさらいをしておきます。
<中国大陸を制した朝廷が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、朝廷に帰順しない異民族の独自文化の価値を認めず、「化外の民」として教化・征伐の対象とみなす、中国大陸に存在する伝統的な思考法。>
さて、ここに「朝廷」という言葉が出てきます。
日本人は、「皇室」を思い浮かべます。
そもそも「朝廷」という言葉の起源は?
●用語辞典<朝廷> 【中国の朝廷 】 中国で「朝廷」の語は、前漢の『戦国策』「朝廷之臣莫不畏王」、『論語』郷党第十「其在宗廟朝廷、便便言、唯謹爾」、『淮南子』巻九 主術訓「是故朝廷蕪而無迹、田野辟而無草」などに見られ、「廷」の文字の成立からして、朝廷の観念は少なくとも周代まで遡り、中央集権的政治概念としての確立は始皇帝が中国を統一した秦代となる。 『礼記』玉藻「朝服以日視朝於内朝」や『国語』魯語下「自卿以下,合官職於外朝,合家事於内朝。」とあるように、中国では早くも周代から国家的行事や儀式の場を外朝もしくは外廷、王宮で暮らす人々の生活の場を内朝もしくは内廷として区別していた。なお、外朝と内廷の双方を往き来できる皇帝の側近として、去勢した男子による宦官が設けられた。 清朝においては、紫禁城のうち太和殿、中和殿、保和殿を「外朝三殿」(もしくは「前殿」)と称し、乾清宮、交泰殿、坤寧宮は「後三宮」と称し、前者が外朝、後者が内朝とされていた。 【日本の朝廷】 日本において「朝廷」という言葉が見えるのは、『古事記』の開化天皇紀に「次朝廷別王」と記されたのが現存文献で確認できる初出で、『日本書紀』では崇神天皇紀《崇神天皇60年(38年)七月己酉条》「聞神宝献于朝廷」まで遡って記され、また、「朝庭」が当てられたものでは、景行天皇紀《景行天皇51年(121年)八月壬子条》「則進上於朝庭」がある。しかし、いずれも実在自体が疑われる天皇に関するものである。 『日本書紀』用明天皇紀《用明天皇元年(586年)五月条》に「不荒朝庭」とあるのは実在する場所を推測させる具体的な記述であるが、推古天皇紀で「朝庭」または「庭」として度々言及され、十七条憲法の官吏の出退について説かれた8条に「群卿百寮、早朝晏退」(官吏は早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け)とあって政務を執る場所として明確な推古天皇の小墾田宮が発掘調査から実在が裏付けられた最古の「朝庭」である。 (*参考資料=ウィキペディア) |
上記の解説には、<「廷」の文字の成立からして、朝廷の観念は少なくとも周代まで遡り>とあります。
「周」は、紀元前の王朝です。
●用語解説<周(しゅう)> 紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。また、時代の名前にも使い、「周代」と言えば、紀元前1046年頃から、遷都して東周となるまでの紀元前771年の間のことを指す。国姓は姫(き)。周代においていわゆる中国高文明が成立したとみられる。 【都市と領土】 殷代から春秋時代にかけては、邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。殷代、東周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。 西周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり、「内城外郭式」がとられるようになった。 華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、磚と呼ばれる、黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り城壁はかなり長い寿命を維持することができる。 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集の経済を営む非定住の部族が生活していた。彼らは「夷」と呼ばれ、しばしば邑を襲撃し、略奪を行った。そのために存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に併合された。 さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展のために、大邑はその領域を拡大してゆく。こうして、春秋末から戦国にかけて、中国の国の形態は、都市国家から領土国家へと発展していった。 【文化】 (1)それまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。 殷では事あるごとに占卜を行い、祖先の祟りではないかなどと言う事を占っていたのだが、周にはそれが少なくなる。そのような理由から殷が残した金文に比べて、周が残した金文の数が少なく、時代が後の周代前期よりむしろ殷代の方が資料が多いという状態になっている。 (2)この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。 (3)建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。 |
次に、「秦」と言えば、なんといっても「始皇帝」が有名ですね。
●用語解説<秦(しん)> 周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は嬴(えい)。統一時の首都は咸陽。 【統一王朝】 始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。 万里の長城や阿房宮の建設は主に農民を使役して行われた。焚書坑儒などの思想政策も行った。過酷な労働と極度の法治主義と儒教弾圧に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。 匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海・象(しょう)・桂林の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。 始皇帝は不老不死を求め、国外への漫遊を配下に命じ、徐福は船で日本に向かったとされている。始皇帝は人体に有毒な水銀が不老不死の元であると信じ、これが逆に始皇帝の寿命を減らす結果となる。 【政治】 秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢が前後400年の長きに渡った理由の一つは秦の制度を人民の反発を受けることなく踏襲できたことがある。 秦の成立は単なる中国の統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。 【官制】 秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である。 地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。 統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、太守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある) 。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。 【法制】 秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい法律というイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。 漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。 であるから漢初の法律は秦の法律を基本としてると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。 そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。 【経済】 始皇帝は統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。 ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。これが真実とすれば、世間に伝えられる暴君としての始皇帝像は、誤ったものであり、秦が滅亡した一因として、二世皇帝の経済政策の誤りが考えられる。 【文化 】 統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。 石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。 【兵馬俑】 詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。 この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。 思想的には法家が当然強いが、しかし道家も同じように強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。 世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が伺えるようになっている。 |
「最高の政(まつりごと)」とは何か?
その問いの答えが、上記の解説のなかに書いてあります。
「人民の反発を受けない」
漢の時代が400年続いた秘訣。
始皇帝は、大事業を成し遂げた代わりに、
「過酷な労働と極度の法治主義と儒教弾圧に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。」
とあります。
現代中国では、ネット規制、法輪功など宗教?規制など主に言論弾圧に反乱の芽があるようです。
20年ほど前でしょうか。
ある縁で中国大使館の幹部夫婦と家族ぐるみのおつきあいをしたことがありました。
ある日、「北京に戻らなくてはいけないことが起こった」と顔色を変えて言いました。
一言、
「内陸部が大変なことになっている」
発展する沿海部に対して、格差が拡大する内陸部において不満が爆発しかかっていたのでしょう。
あたふたと日本を後にしました。
彼は数年後に日本に戻ってきました。
日本でもそうでしたが、人はそこそこ豊かに暮らしていくことができれば多少の不満があっても政府攻撃に立ち上がることはしません。
経済発展を持続させていけるかどうかに治安の安定はかかっているようです。
振り返れば日本も、田中角栄元首相の「日本列島改造論」は地域格差を解消するには特効薬だった。
中国も同じような道を歩んでいます。
先の中国大使館幹部は、私が知り合った頃は明治維新を研究していました。
「日本人は優秀だ」
と口にしていました。
おそらく、「日本列島改造論」も十分に研究したことでしょう。
余談ですが、中国の「天安門事件」などの民主化弾圧も、実は明治維新を研究しての措置だったのではないかと思うところもあります。
大久保利通は、西南戦争然り、反新政府への動きは徹底的に封殺しましたからね。
「ポピュリズム」を「衆愚政治」と揶揄する論調もあります。
さて、どうでしょう。
国民の反発を受けるよりも賢い政治手法だと思います。
例えれば、増税に減税を織り交ぜる。
消費税を国民に選挙で問わなくても増税できるようにする事も可能だがあえて実行しない。
いろんな方法があります。
恐いのは、政権が国民から半ば無視される事。
もう好きにやって~。
最近、そんな声も巷に聞こえます。
「たとえ支持率が1%になっても」
???
本当に「国民主権ですか」?
かつて学生運動華やかりし頃、
「”大衆のために”と叫ぶ君こそが、いちばん大衆を愚弄している」
という言葉もありました。