東京でのあの日、3月11日
1月のこと 宮城県出張で 登米市に行きましたときは 気仙沼の方まで仕事で向かいました。 わかってはいたのですがやはり、 海が近づくにつれて、その傷跡の大きさには 言葉を失いました。 ほんと・・・ 陳腐なことしか言えませんが 一日も早い復興を祈ります。 ------------------------------------------------------------ えらそうなことは語れません。 ですので あの当時の熊太郎をふりかえってみます。 あの地震から、今日でもう・・ まだ?5年です。 当時、熊太郎の勤める池袋の会社は 真新しいビルにはいったばかりでした。 金曜日 そこへ東京でも震度5強の地震です。 そしてその直後に撮った写真・・建物の壁のあちこちに こんなひびが走りました。 高層ビルはあえて揺れるようつくってあるにしても 相当に揺れたんだなってわかります。 電話がつながらない中、 なぜかブログの投稿はできるんで、この写真を 載せました。 揺れがおさまって部屋を出たら 掃除にまわっていただいていた用務の方が あまりの恐怖に座り込んでいたのを思い出します。 交通機関はストップ、 道という道が車で埋まって 実家の江東区まで3時間半 歩いて帰りました。 途中、ラジオで入ってくる惨状には・・・でした。 ------------------------------------------------------------ 翌日土曜日 もどった自宅の熊太郎の部屋・・ プリンターやら本やら落ちまくって、 どんだけ揺れたんだかあらためて 恐ろしくなりました。------------------------------------------------------------ ようやく会社に行けたのは、火曜日。 ですが、電車は通常時の5割程度の運行で ぎゅうぎゅう詰めの通勤です。 そして、 しばらくは、スーパーもコンビニも 棚がカスカスで、とくにカップラーメンが 消えちゃいましたね。あとガソリンスタンドに給油待ちの車が 列をつくりました。 ------------------------------------------------------------ このあとしばらくは 町中で節電の気運が続きます。 いつもよりうす暗い町中を帰りますと、 熊太郎の自宅は「計画停電」の区域でした。 真っ暗な中 ゲームしてる小憎(息子:当時小学5年生)です。電気来ないと、暖房も動きませんし、 風呂も沸かせませんし、 ガス台使った料理しかできません。 ------------------------------------------------------------ とにかく 日常とは思えない毎日でした・・なんて書きますと 震災の被害にあわれた方達とは 比べようにならないわけで、甘っちょろいですが、 でも、地震いう災害は いつ我が身に降りかかるかわからないわけで、 忘れず 油断せず あわてず・・いないといけませんね。 あの日と同じ11日の金曜日 心をひきしめ、行って来ます!