『中央公論』11月号に、岩井克人氏による「自由放任主義と決別せよ」という文章がありました。インタビューに答えての談話をもとにして構成されていますから、非常にわかりやすいし、岩井氏の今までの述べられていたことをふまえてよくまとめれれた短文です。
私なりに抜書き程度の要約を試みます。
〈資本主義とは、アダム・スミスの思想とは逆に、純粋化すればするほど、効率性は向上するが、同時に不安定性も大いに増してしまう「不都合な真実」を抱えているということです。〉
これがこの短文のテーマでしょう。
注として、
アダム・スミスの思想とは、市場に任せておけば需要と供給のバランスは「神の見えざる手」によって調節される、つまり、需要が多ければ多く生産し利益増大を心がけるが、生産過多によって供給がだぶつくと値崩れを起こしてしまい、供給することでの利益が望めなくなるという一連の反応が起こることで市場の安定が維持される、というお節介のような解説。
かつて資本主義の対立項としてあった社会主義について、〈基本的には、社会主義が人間にとってもっとも大切な「自由」の抑圧に必然的に繋がってしまうことを、二十世紀におけるソ連や東欧の実験が示してしまったということです〉ので〈いくら資本主義の勝手が違っていたといって、これだけ多くの人が自由を知ってしまったこの世界が、再び社会主義の道を選択することはありません〉としています。
そのうえで、〈社会主義社会の建設〉〈自由放任主義に基づく「純粋資本主義」〉という〈二つの実験がともに失敗に終わった結果、人々は「資本主義は手放しで喜べる理想郷ではないのかもしれない」「しかし、もはやそのもとで生き続けるしかない」という冷厳なる事実を突きつけられている〉との認識を表明されています。
貨幣というものについて、
物々交換では〈自分がほしいモノを手に入れるためには、それを余計に持っていて、自分が余計に持っているモノをちょうど欲しがっている人を見つけなければなりません〉のですが、〈貨幣さえ流通していれば、欲しいモノを持っている人さえ見つければ、それを買うことができる。自分の持っているモノを欲しいがっている人さえ見つければ、売ることができる〉との説明があります。〈ところが、この「自由にものを売り買いするための“手段”」であったはずの貨幣は、それを「蓄え、増やすことが“目的”」に、容易に転化してしまう…(略)…だが、貨幣とは、どんなモノでも手に入る「可能性」、いや「自由」を与えてくれる。可能性に対する欲望には限りがありません。貨幣が人間に無限の欲望を与えてしまったのです〉
そこに資本主義の源泉が見出されています。
しかし、そこから導きだされる不安定要素とは、〈多くの人が貨幣を使わない自由を同時に行使するとどうなるのか?それは、モノを買わないことですから、不況です〉という現今の恐慌にまでつながるような状況と、〈「貨幣はみんなが貨幣として使うから貨幣である」〉という〈自己循環論法〉によって成立している〈客観的な力を生み出す不思議な論理〉が破綻してしまうことによって〈貨幣を使う自由を同時に行使〉し〈昨日まで一万円札だったはずのものが“タヌキの葉っぱ”になってしまう、それがハイパー・インフレーション〉とがあります。
ここまでが前半部分で、続く現状への提言へと備えておくべき、分析の整理です。といいますか、岩井さんは資本主義に潜在する病理を『ベニスの商人の資本論』から問題視されており、そこから重要書である『貨幣論』で展開されているものの非常にわかりやすい要約です。