この記事は旧ブログ【鳥飼の自由研究室】(2020年1月21日の記事)より転載(再掲載)しました。

こんにちは、め組の鳥飼S子ですニコニコ

火事と喧嘩は江戸の華。

日曜日(2020年1月12日)に、以前から気になっていた消防博物館へ行ってきました。

消防博物館は警察博物館に比べて展示物が多いので、記事をいくつかに分けます。

東京消防庁マスコットキャラクター
キュータ
黄色のアンテナで危険を察知し、どんな災害でも駆けつけて救助・救命する、都民に愛される未来消防士をイメージしているそうです。
名前の由来は...

119番のキュー
救助のキュー
救急のキュー
レスキューのキュー
緊急のキュー
多くの人をタスケルの

消防に関するキューに愛らしいを付けたとのこと。赤いスーツは未来の消防服で消防の赤で勇敢さと精悍さを、水色の防火ヘルメットは消火用の水を、右手の親指を立てているのは「災害は任せて!」というイメージをあらわしているのだそうです。
消防博物館 FIRE MUSEUM
東京都新宿区にあります。最寄り駅は東京メトロ丸ノ内線線 四谷三丁目駅(2番出口直結)です。

消火博物館は東京博物館の歴史と活動に関する資料を展示している日本の博物館で、東京消防庁内での正式名称は「防火防災資料センター」です。四谷消防署(2F)と併設されています。
東京メトロ丸ノ内線2番出口に直結しています。
入ってすぐの場所に受付(B1F)がありますので、入館証を受け取ります。ここで「2Fは四谷消防署のオフィスになっていますので入れません。」との説明があります。
B1F 消防自動車の変遷
東京に初めて消防ポンプ自動車が導入されたのは大正6年。それ以来、消防自動車は年々進歩を遂げています。このフロアには大正から平成にかけて活躍した名消防車両が数多く展示されています。

■スタッツ消防ポンプ自動車(写真左)
大正13年、関東大震災の翌年、アーレンス‐フォックス消防ポンプ自動車と前後してアメリカから輸入され、第五消防署(現在の上野消防署)に配置されました。ノーザン・ポンプ社のロータリー・ポンプが、運転シート下の車体中央に設置されています。消防車にしておくには惜しいほどの見事なプロポーションは、当時の人々の目を引きました。昭和28年まで活躍し、走行距離は3万kmに及びました。

■マキシム消防ポンプ自動車(写真右)
昭和4年に輸入され、神田消防署に配置されました。小回りがきくことから狭い脇道でも使用することが可能で、大いに重宝がられ、昭和28年まで20年以上第一線で活躍しました。ノーザン・ポンプ社のロータリー・ポンプを搭載し、当時としては、強力な放水量を誇りました。
■ベンツ・メッツ梯子車(写真左)
メルセデス・ベンツのシャシにカールメッツ社の梯子を載せた梯子車です。昭和30年5月に丸の内消防署に配置され、昭和50年の池袋消防署を最後に引退するまで、20年間活躍しました。その間の出場件数は4000件を越え、中でも引退直前の池袋におけるビル火災で猛火の中から5人を救助したことは印象に残ります。機械式の梯子自動車(※現在は油圧式)としては最後のものです。

■いすゞ・メッツ梯子自動車(写真右)
大正14年にドイツから輸入され、第一消防署(現在の日本橋消防署)に配置されたものです。昭和34年にシャシが老朽化したため、いすゞ社製のバスシャシにカールメッツ社製の梯子を載せかえました。路面が傾斜していても梯子を水平に伸ばせる制御装置が組みこまれており、当時から安全への工夫がされていました。また、梯子の操作はすべて機械式で、現場に到着後ただちに梯子を伸ばせる速さは、現在の油圧式に勝るとも言われています。昭和46年まで活躍しました。
■アーレンス‐フォックス消防ポンプ自動車
大正13年にアメリカから輸入され、丸の内分署(現在の丸の内消防署)に配置されました。アーレンス‐フォックスの名前の由来は、設立者である蒸気ポンプ製造者と市消防局の副署長の名前をあわせたものです。エンジン前方にポンプを抱えたスタイルはこのメーカー独特のものです。昭和21年まで活躍しました。
■トヨタ救急自動車
旧来のボンネット型からストレッチャーの積載等の装備の充実のため開発され、高規格救急車が導入される平成3年まで、標準的な救急車として活躍していた救急自動車です。この車は昭和63年に赤羽消防署に配置となり、平成8年まで救急の最前線で活躍した車両です。ちなみに、救急車のサイレン音がいわゆる「ピーポー音」に変更になったのは、昭和45年7月からで、昭和47年6月までに切り替えられました。

ところで皆さんは、救急車🚑を呼んだのに消防車🚒まで来た!という場面に遭遇したことはありませんか?ちょっとビックリするかもしれませんが、これはPA連携(※)と言われているものです。(※PA連携とは、ポンプ車(Pumper)の頭文字『P』と救急車(Ambulance)の頭文字『A』をとって名前を付けたもの。)

⚫傷病者が2階以上の場所にいて歩行困難な場合
⚫交通量が多い場所で発生した場合
⚫負傷者が自力で脱出できず救急隊3名では救出困難が予想される場合
⚫高所からの転落により救急隊のみでは対応が困難と予想した場合
⚫乱闘・刃物・拳銃による傷害事件
⚫救急車が出動中でやむを得ず消防車で出動する場合
⚫ドクターヘリや消防防災ヘリを運用する時
⚫救急隊3名では対応が困難と通信指令課員が判断した場合

等々、さまざまな状況に応じて出動しているそうですにっこり

消火活動の為の出動なのか、救急活動やPA連携での出動なのか、消防車のサイレン音でわかるってご存知でしたか?

火事の場合(消火活動)
ウ~ウ~カンカン♪

その他の場合(救急・PA連携等)
ウ~ウ~♪

火事の場合はカンカン♪という警鐘が入るのですぐにわかりますにっこり

ちなみに、鎮火して消防署に帰る時はカンカンカン♪という警鐘のみを鳴らします。
1F エントランス
こちらからも入館することができます。

■シュド・アビエーションアルウェット3型
東京消防庁に航空隊が設置されたのは、昭和41年11月です。その翌年に、フランスのシュド・アビエーション社から1号機として購入し、「ちどり」と命名して、昭和42年4月から運行を開始しました。航空隊は、空からの人命救助、消火活動、人員・資器材の搬送、現場の映像伝送、更に島しょ地域の救急患者の搬送など、広い範囲に活躍します。また、地上の活動が制限される大震災時などには、その活躍が大いに期待されています。

警察航空機第1号はるかぜが導入されたのは昭和34年11月、東京消防庁に航空隊が設置されたのが昭和41年11月で、東京消防庁は警視庁より7年遅かったんですね。消防防災ヘリコプターは救助資器材や空中消火の装備等を備え、救助活動、救急患者の搬送及び山林火災の消火などを行います。

ちなみに医師と看護師が同乗し、心電計・除細動器、・人工呼吸器等、救命に必要な器材が装備されている空飛ぶ救急室ことドクターヘリ(救急医療用ヘリコプター)の本格的な導入のきっかけとなったのは、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災だといわれています。その後、2007年にドクターヘリ全国配備のための新法案が通常国会で可決・成立されました。消防機関では、ドクターヘリの出動要請等を行っているそうです。

ここからはエレベーターで5Fまで移動します。
5F 消防の夜明け(江戸時代の火消)
組織的な消防は江戸時代の火消に始まります。
その誕生、発展を錦絵や資料でわかりやすく解説。当時の町を再現したジオラマでは、粋でいなせな町火消たちの活躍ぶりをいきいきと紹介しています。

江戸の町は火事がとても多く、2~3年に一度くらいの頻度で町を焼き尽くす大火事、いわゆる大火(たいか)がありました。中でも「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「丙寅の大火」は江戸の三大大火と呼ばれていなす。

江戸の火事が多かった理由はいくつかあります。

⚫江戸特有の気候条件
夏は雨が多く冬は晴れて雨が少なく乾燥し、冬から春にかけて強い季節風が吹き付けるという江戸特有の気候条件は、火事を大規模化させる大きな要因でした。

⚫超過密都市
江戸の町は慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸に幕府を開いてから、急激に人口が増えました。18世紀初頭には人口が100万人を超え、人口密度は世界的にトップクラスだったといわれています。身分によって住む場所が決められていた江戸の町、人口の半分以上は町人でしたが、広大な武家地に比べて町人の住む土地は狭く、燃えやすい木造家屋に密集して暮らしていた為に火事が多かったといわれています。

当時は、失火は打ち首放火は火あぶりと特に厳しい罰が与えられていました💦

ちなみに、最も多かったのが放火🔥です。
風の強い日に火を放ち、燃え広がって人々がパニックになっている隙に盗みに入る、いわゆる火事場泥棒が多かったそうです。
そういえば、鬼平犯科帳の主人公・長谷川平蔵火付盗賊改方でしたね凝視おとなしくお縄につけぃ〜

江戸には大名火消定火消町火消の三つの火消(消防組織)がありました。
大名火消と定火消は江戸城と武家地の消火活動にあたり、町火消は町人地域の消火活動にあたっていたんですよにっこり

この展示物は大名火消の出動風景のジオラマです。
大名は火事装束に身をかため、家臣を従えて火事場に出動したそうです。この隊列は、絵巻に描かれた佐竹家の出動風景の一部を再現したもの。梯子や龍吐水、纏、鳶口等の道具も見られます。
火の見櫓の模型
火の見櫓とは、火事の早期発見の為に使われていた見張台で、上部に半鐘(はんしょう)を設置し、火事を発見すると警鐘を打ち鳴らして周囲に知らせました。警鐘の鳴らしかたによって、火事の方角や距離、規模等がわかるようになっていたそうです。

この模型は左から大名火消・定火消・町火消の火の見櫓となっています。

大名火消の火の見櫓が一番大きいのかなって思っていたのですが、定火消のものが一番大きいんですね。意外ですにっこり💦
武家火消装束(レプリカ)
これは武家火消が火事場に出動するときに着用した衣装です。馬上で警備・指揮をする際の礼装でもありました。一説によると、赤穂浪士討ち入りの際に徒党を組んでも怪しまれないように火事装束に似せた衣装にしたといわれているそうです。

中央の白い衣装が火消羽織、奥の派手華やかな衣装は奥方火事頭巾です。いずれもレプリカです。奥方火事頭巾は火災避難時の雑踏の中でも、すぐに身分の識別ができるよう、色鮮やかで目立つ衣装だったそうです。
車長持(くるまながもち)
保険制度がなかった江戸時代は、火事になると大事なものは長持に入れて自分で運び出すしかありませんでした。しかし大きくて重い長持は道を塞ぎ、避難の妨げとなることが多く、天和3年(1683年)以降は荷物の持ち出し(車長持の使用)は厳しく禁止されました。
いろは四十八組+本所・深川16組 纏(まとい)
時代劇「暴れん坊将軍」で一度くらいは目にしたことがあるのではないでしょうか...(笑)
纏(まとい)は江戸時代に町火消の各組が用いた旗印の一種です。各組により様々な意匠が凝らしてあります。(例えば、い組の纏は◯に□で、◯は芥子の実を、□は升を表し、合わせて"消します"という意味でした。なかなか洒落がきいていますよね(笑))上部に組を表す頭があり、馬簾と呼ばれる紙や革製の房飾りがついていて、下部の木の棒の柄の部分を手に持って振り上げたり回転させると、踊るようになっています。重量は15~20kg前後とかなり重いもので、担いで走ったり、持ったまま梯子に登る、屋根の上で振り回す等の取り扱いには、かなりの腕力とバランス感覚が必要となります。
火消の組の中で最も腕力と度胸があり、威勢がいい者が"纏持ち"を任されることが多かったそうです。いわば火事場の花形ですねニコニコカッコイイ!
纏持ちは火事場の風下の屋根の上にあがり、纏を振りたてて消火活動の目印とするとともに、仲間たちの士気を鼓舞しました。纏持ちの上がった家が焼ければ纏も纏持ちと一緒に燃えてしまうため、「纏を焼くな」とばかり各自が必死に働いたそうです。

いろは組は隅田川を境とした西側の区域に組織されたもので「へ」「ら」「ひ」「ん」の四文字は「百」「千」「万」「本」組に変えられました。「へ」は屁「ひ」は火に通じ「ら」は隠語「ん」は語呂が悪いというのがその理由です。当時の火消は命懸けでしたから、縁起を担いでいたのでしょうね凝視
実際に使われていた火消道具です。
火事を知らせる半鐘や、火事の警戒を呼びかける拍子木、水を汲んで火を消す為の手桶など。
手前の円形と長方形の板は駆けつけ人足手形です。町火消は普段は別の仕事を持ち、火事の時だけ消火活動にあたります。その時に自分の身分を証明するためのものが、この駆けつけ人足手形でした。
こちらも町火消の道具になります。
中央の龍吐水は当時の放水ポンプです。龍吐水に玄蕃桶で水を入れ、ポンプ口から水を噴き上げて火を消します。実際には屋根の上の纏持ちに水を吹きかけて火の粉から守ることが多かったようです。
手前の半纏(写真左)は組のマークが入ったもの、奥の半纏(写真右)は刺し子半纏です。刺し子半纏は何枚もの生地を重ねて細かく縫い合わせたもので、吸水性と保湿性が高いんです。当時は現在のような防火服なんてありませんでしたから、火消達は火事場に到着する前に全身にたっぷりと水を被ってから消火活動にあたりました。
長い棒は鳶口大刺又です。当時の火消は建物を破壊して延焼を防ぐ破壊消火(除去消火法)が主流でした。

5Fから屋外に出られるようになっています。
消防防災ヘリコプター(かもめ)
実際に使用されていた機体です。
子どもに人気が高く、30分くらい並びました💦
機内はこんな感じです。操縦桿を握ればパイロット気分を味わうことができます。後部座席は機材が積めるようになっていました。

次回へつづく(?)