私は、1972年の秋から1973年の秋まで、伊藤忠商事の海外研修
生として、ジャカルタのインドネシア人家庭にホームステイし、イン
ドネシア大学で、1年間、インドネシア語を学びました。
僅か1年間で、インドネシア語をマスターし、文化、習慣を体得し、
どんなことでもいいから、インドネシア語で論文を書くようにと会社
から言われました。
私は、「インドネシア華僑の実態について。」というタイトルで論文
日本やインドネシアの華僑関係の本も読みましたが、人が書いた
ものをつぎはぎするようなことは性に合わないので、本当の華僑
社会に入り込み、観察すべきだと考えました。
そこで、コタと呼ばれる中国人街に出入りし、その実態に触れるこ
とにしました。ある日、ちっぽけなカセット屋さんで、中国語の流行
歌のカセットを買ったのですが、そこの店の娘さんが、「明日、大型
バス2台で、プンチャック峠に遠足に行くが、あなたも来ませんか?」
と誘われました。
今でも、そういうところがありますが、若かった当時は、もっと、あと
先を考えない方で、「分かった。参加しましょう。」と言って、実際、翌朝
早朝に、ジャカルタ市内の有名なモナスのいう金の塔の下に集合し、
プンチャック峠に向けて、出発しました。
まだ、言葉が十分できないので、意思の疎通が、イマイチでしたが、
たった一人で、華僑グループの遠足に飛び込んだ日本人が、「文化
の交流には、歌が一番いい。」と思ったというか、本当は、「ここで、
目立て。」と思い、日本の歌を唄い、拍手喝采を浴びました。
その時、大勢の中から、スルヤディーという私より2歳若い華僑青年
と知り合いました。(私は、24、5歳、彼は22、3歳でした。)
向かって一番左が、1972年当時のスルヤディー氏。
前列の右から2番目が当時の私。私の隣にいて、
サングラスをかけている一番右の女性が、私を遠足に
誘ってくれた女性。
スルヤディー氏の隣の眼帯をした人はアメリカ人で、
かれらの英語の教師。
普通なら、これが最初で最後の出会いのような発作的な出来事
です。
ところが、4年後に、私が、ジャカルタ駐在になった際、スルヤディー
氏が、伊藤忠インドネシアの繊維部で仕事をしていたのです。
私の駐在期間の5年間は、同じ繊維関係でしたので、もちろん、縁が
あったのですが、インドネシアでの仕事を終え、帰国となり、仕事内容
も変るし、担当市場も変るので、縁が遠のくのが普通なんです。
しかも、思うところあって、私は、その後、伊藤忠商事を円満退社し、
アパレルメーカーに転職したものですから、しばらくは、インドネシア
そのものと縁がなくなるはずでした。
ところが、おっとどっこい、そのアパレルメーカーのインテリアの仕事
で、インドネシアに来る機会があり、そこで又、同氏とご対面がありま
した。それが、17年前のことです。
その時は、スルヤディー氏は、独立後、ワコールインドネシアの社長
になって、インドネシアの繊維業界で、大活躍でした。
ワコールインドネシアを立ち上げたことは、その前から、業界誌で読
み、知っていました。その時、「さすがは華僑。立派なものだ。」 と
感心しました。
こうして、17年前に再会して以来、その後、私も、多くの時間をインド
ネシアで過ごしたのですが、お互いに忙しく、ずるずると、会う機会を
逸してきました。
そして、ついに、先日7月30日(木)の夜、スルヤディー社長率いる
ワコールインドネシアの幹部23名の方々が、鳥元ジャカルタで、
会食をされることになり、私と同氏の17年ぶりのごタイメーンが実現
することになりました。
歳に似合わず、再会する直前まで、ずーっと、胸がわくわくしていま
した。
37年前に撮った同氏と私の姿が写っている写真(上に掲載)を、引き
伸ばし、フレームに入れて、同氏にプレゼントするアイディアが、その
会食当日、ふと浮かんだので、それを急遽、準備し、宴もたけなわに
もう、これは、彼にとって、想像を絶するサプライズだったようで、感激
の面持でした。
37年前の懐かしい写真を見て、歯顔一笑の
スルヤディー社長。隣の白のシャツを着た人は、
ワコール出身の日本人技術者小野さん。
彼の秘書のフィフィさんという女性(現在58歳)も会食の席におられまし
たが、この女性も、伊藤忠インドネシアの繊維部出身の人で、お互いに
よく覚えていました。これも感激の瞬間でした。こちらは、なんと、28年
私は、「どこで、どんな再会が待っているか分からない。人に迷惑をか
けず、いやな思いをさせず、枕を高くして寝られるのが最高。」と、いつ
も、自分に言い聞かせているのですが、この日ばかりは、特に、それを
実感しました。人生劇場には、いろいろな再会場面があるのですね。
スルヤディー社長が、ワコールグループのアジア大会がジャカルタで、
ある時は、鳥元の豪華和室を使うことにすると約束してくれました。
彼との出会いそのものも最高でしたが、日本の味を熟知する同氏から、
鳥元の味とサービスを褒めてもらったことが、うれしい夜でもありました。