いまから半世紀前、日本のファッション界も新たな時代を迎えていた。既製服が市場シェアを伸ばし、それに伴いアパレル企業が台頭した。ただ、その中身は脆弱な部分を残しているものの、70年代に向けては飛翔が約束されていた。そうしたなか、この記事はシリーズの1つで、アメリカにおける産業革新をレポートしたものである。ファッションが大衆化するきっかけとなったのは、日本も同じ若者のエネルギーだった。

 

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 アメリカの戦後の繊維産業の発展を考える場合、三つの革新があったと思う。最初の革新は流通面に現われた。食料品を中心としたスーパーマーケットは、戦前の1930年代に市場を塗り変えたが、衣料品を中心としたディスカウント・ストアが市場を席巻したのは、戦後も1950年代の中期以降である。規格化が困難だといわれた衣料品に、量販が実現した要因の一つはテレビの発達である。テレビコマーシャルによって、たとえば「アローのシャツ」への信頼が高まったため、顧客はセールスマンの説明なしにセロファンの袋にはいったまま買うことができるようになった。つまりプリ・パッケージ、プリ・セールスの発達である。

 もう一つは、価格表示や商品在庫、伝票処理等の自動化である。とくに在庫管理における電子計算機の利用である。無数の品質・規格の衣料品や雑貨の大量・自動販売を可能にしたのは、こうした戦後の技術開発に負うところが大きい。

 しかし根本的には縫製品市場の拡大と、大量宣伝をする能力をもった縫製メーカーが育っていたという背景を忘れてはならないと思う。

 そしてディスカウント・ストアを中心とした流通革命によって卸商は急速にその地位を低下していたのである。

 戦後の革新の第二は合成繊維の登場である。消費財の需要も創造し、ブームをまきおこすのは新製品である。合成繊維はまさしくそういう新製品である。合成繊維はナイロン、アクリル、ポリエステルと、踵を接して市場に登場した。そしてナイロンが飽きられると、次々と新しいタイプの糸を作って新しい市場を開拓した。現在の繊維業界のもっとも有望な商品であるニットウエアとタフテッド・カーペットも主としては合成繊維がつくり出したものである。

 しかし合成繊維が単なる新しい素材にとどまっている間は需要を喚起することは出来ない。合成繊維がブームを巻き起こすためには、それを製品化し市場に流してゆくコンバーターの発達が必要である。それはバーリントンのような紡績業者が卸商を合併した場合もあるし、スチーブンスやディアリング・ミリケンのように卸商が紡績を統合したケースもあるが、これらを援助し、育てたのはデュポンを始めとする世界有数の化学メーカーであった。これらの大化学メーカーの繊維業界の登場は、それまで二、三流メーカーを中心に悪循環を繰り返していた繊維業界に活力を与え、新しい連環効果をもたらすことになった。旧来の紡績業者も化学メーカーに刺激されて新製品を開発し、活発な宣伝を展開するようになったのである。

 最後の革新はファッション産業化である。これは現にいま進行中である。1963~66年の衣料品消費は40%も上昇した。これはそれまでの10年間の伸び率と同率であり、1947年の11.5%から63年の18.2%まで大きく後退した衣料費支出のシェアは、67年には8.7%まで回復するに至った。しかもカラーテレビなど多くの成長産業を推進した「新技術」の恩恵をこうむらずにそれを実現しているのである。

 衣料品市場の拡大について「フォーチュン」誌は「若者」の存在を評価している。「若者」は支出金額そのものよりも流行をリードし、流行を盛り上げる力が大きい。「若者」が台頭するまでは、ファッションは一握りの上流階級のものであり、大衆と無縁であったが、若者が初めてファッションを大衆のものにした。“モッズ”ルックやミニの流行はパリのオートクチュリエが作ったものでなく、大衆が作ったものである。そして、このようなファッションの大衆化とともにファッション産業として定着し、ニューヨークの既製服工業が流行を作る近代工業に成長していったのである。

 それだけでなく、コストダウンと労働力を求めて南部へ疎開した紡績会社までが再びニューヨークの都心へ戻り、ファッション産業としての再生をはかろうとしているのである。(日本繊維新聞 昭和45年=1970年2月10日)