ピークの時には30万人以上の学生数を誇った洋裁学校も、60年代から市場拡大を続けた既製服に対応するため、アパレル産業に向けての人材育成にシフトを変えた。それまでの家庭洋裁を軸とした“花嫁教育”にピリオドを打ち、デザイナーやパタンナーの育成を強化した。この記事は、そうした服飾専門学校の変革をレポートしている。

 

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 アパレル産業の成長による業務の高度化に伴い、デザイナーの育成が業界の課題となってきた。アパレル産業からは「急務…」といわれ、このためデザイナー育成が産学連携によって進んでいる。そうしたなか4月には、わが国で初めて「大阪アパレル産業学校」(箕面市)が設立、多くの関心が寄せられている。これはファッションデザイナー、とりわけ企業デザイナーの育成が急務になっていることを示している。しかし、将来のデザイナーを養成する機関としては、服飾専門学校にかかる比重が大きい。

 服飾専門学校の重要性が叫ばれて久しく、ここ数年、専門学校は質的に向上している。これまで“花嫁教育”から脱し切れなかった専門学校が、質的に向上したのは、ファッション産業の高度化に伴い、デザイナーやパタンナーの業務が多様化しているところが大きい。それに対応するため、業界から産業教育の情報やノウハウを入手し、これをカリキュラムに組み入れるなど、改善してきた。「デザイナーの育成は企業に任せる」といった姿勢から、自らが育てる教育に取り組んだ結果ともいえる。

 最近では、昭和51年(1976年)に施行された専修学校制度による整備の充実もあげられる。技術や知識の習得だけでなく、産学協同で業界人を講師として呼び、「ナマの知識」が得られるようになったことも感覚研鑽につながっている。

 業界は、技術力だけでなく、情報整理能力や知識を持つデザイナーを欲しているわけで、この点で両者はうまく連動してきた。それは数字上にも現れ、教養主義的な大学・短大より実務にすぐれた服飾専門学校に求人が増えている。

 こうしたなか、専門学校ではデザイナーの育成熱が高まっている。ドレスメーカー女学院(東京)の「産業教育科」、マロニエ文化服装学院(大阪)の「インダストリー科」など、それは各校で見られる。

 また、産学協同による人材育成も盛んだ。大阪・名古屋モード学園の業界における実践研修、福山ドレスメーカー専門学校による地元30社との連携による“産学一体”の教育などに育成の熱気が伝わってくる。これはアパレルと専門学校が一体となった、いままでにない形での養成システムである。

 このように、花嫁学校から脱皮し、服飾専門学校へと前進、さらに産学一体による人材育成と盛り上がっているが、学校側に悩みがないわけではない。せっかく学校を卒業してプロの道へ入っても、その資格がきわめてあいまいな点だ。「勤務後1年間ぐらいは雑用と下仕事で、学校で習得した技術を生かす場所が与えられていない」といった不満の声もそのひとつ。

 また、企業は学校に対して「すぐデザインできる学生が欲しい」と注文してくるが「どの程度できればいいのか」という点で頭を悩ます。学校は「基礎を2年間教育しているので、それらをうまく引き出してほしい」と話す。こうした問題を解消するためにも、企業は学校に「どのような教育を望むかの注文を寄せるべきだ」とする学校もある。

 スペシャリストを志望する人は多いが、スペシャリストになれる人は少ない。また、優秀なデザイナーに対する地位、待遇の範囲はまだ低い。これを高めるのは、政府または公的な認定機関による資格制度だろう。雇う側に安心感と能力の証を与えることができ、デザイナーにとっても社会的な身分と待遇が得られる。これを実現していくためには、企業と学校のますます緊密な連会が必要である。

 

独自の理念をもとに

 将来のデザイナー、パタンナー、イラストレーター、縫製者を育成する機関として、服専門学校は全国にある。とりわけ東京、大阪、名古屋、京都、岡山(備後)などの集散地をバックにひかえる地域では、独自の産業教育の理念による教育がなされている。その教育の高度化は年を追って進展している。とりわけこの10年のスピードは目を見張るものがある。とくに、専修学校制度が敷かれて以来、これまでは花嫁教育として見られてきた洋裁学校の間でさえも、プロ教育に本腰を入れる動きが目立ってきた。アパレル産業の高度化により、デザイナー=スペシャリストが求められてきたところに、専修学校制度が拍車をかけた。

 

FITと提携 文化服装学院

 文化服装学院(大沼淳学院長)は、専門的知識や技術を研究し、教育界や産業界に貢献するとともに、生活に必要な高度の技術と教養を備えた創造性豊かな人材を育成することを目的に設立された。同学院の教科内容はその歴史の古さから、いろいろなコースで編成されている。これらの教科は、ごく一部を除き、いずれもファッション産業の人材養成にとって深いかかわりを持つ。なかでも注目されるのが、①ニューヨークFITとの姉妹提携、②技術検査及び教育資格認定制度、③ファッション産業への人材供給――など。FITと提携を結んだのは44年(1969年)。ちょうど日本のアパレル産業が急成長を遂げはじめる少し前だった。

 

「産業教育科」軸に ドレスメーカー女学院(東京)

 ドレスメーカー女学院では、服飾専門課程の「産業教育科」を軸にプロ養成のコースを設けている。この課程に同科が設けられたのは昭和43年(1968年)。わが国既製服産業の隆盛に伴い、本格的な指導者の養成コースを「産業教育科」とした。量産部門の専門家養成機関として設けられたこの科は、FITの教授システムを中心にさらに、ドレメ式の教授法を加えている。単に技術者としてだけでなく、ファッション産業人として通用するための養成を行っている。

 

年間授業は960時間 上田安子服飾専門学校

 上田安子服飾専門学校(上田安子校長)は、将来、ファッション界のスペシャリストとして活躍できる人材を育てることが重点目標。昭和51年(1976年)に学校教育法の改正で専門学校に昇格したが、今春の入学生800人という数字に見られるように、関西一の学生数・卒業生数を誇る。同校の教育システムの特徴の一つは、段階を追ったカリキュラム編成。とくに基礎教育の確かさには定評があるが、基礎技術が身についてこそデザイン発想や各種の専門技術が生きてくるという「積み重ねの理念」が同校のカリキュラムにはっきりと現れている。「ひとつの科目を落としても、次の段階には進みません。それが生徒のためですから」という上田校長の厳しい姿勢も、この完璧とも思えるカリキュラムに対する自信からうまれている。技術を積み重ねていくためには、長い時間を必要とすることから、同校の年間授業時間は960時間に達している。通常の専門学校では、平均800時間。この160時間の差こそがプロ養成にかける同校の意気込みともいえるだろう。

 

東京では基礎づくりに重点

 人材育成は現在のアパレルメーカーにとって、厳しい環境を生き残っていくための大きな課題。とりわけ「女子社員の優劣が“企業の質”の及ぼす影響は決して小さなものではない」との指摘がある。

 女性は婦人服のユーザーであると同時に、企業内ではデザイナーであれば“物づくり”でも重要な位置を占めている。とりわけ「花嫁学校からの脱皮」「精神面の充実」を期待する声が強い。それと「プロになるための基礎を身につけてほしい」という要望も根強い。あるアパレルメーカーでは「一人前のデザイナーとして通用するには入社後3年ぐらいの社内教育が必要」とも。

 そして技術、感覚論だけでなく責任と自覚、さらには“職業意識”を持つような指導を今後とも進めて欲しい――との要望は各社に共通している。

 しかし、同時に「企業内教育を行っていくにしろ、企業自身が良き環境づくりを怠っていた」と反省するアパレルも多い。

 「婦人服メーカーにとって、デザイナーは不可欠。各専門学校での基礎づくりに期待するところは大である」という要望でもある。

 

大阪では官民一体で盛り上げ

 在阪のアパレルでは、イースタン・ストッフ(テキスタイル見本市)での「全日本ファッション大賞コンクール」を開設。「アパレル産業学校」設立の例を引くまでもなく、次代を担う新進デザイナー、プロデザイナー養成の機運は、官民一体で盛り上がっている。とりわけ、ファッションビジネスの様変わりに合わせ、服飾専門学校に対しては、学校の指導層の厚さ、カリキュラムの内容等、専門学校の行方を見守っている、というのが現状。

 特に最近は、情報がこれまでとは比べものにならない量。しかし、デザイナーについて業界人は、「情報に振り回されるのではなく自分の信念を創作活動に」という声が強い。それと、基礎技術の習得の重要性も同じ。これは日本のファッションがファッションビジネスに高度化するにつれ、デザイナーの職種もパターンメイキング、デザイニング、マーチャンダイジングへと分業化するのは必至との考えから。こうした時代が来れば基礎がしっかりとした技術者だけが生き残れる時代でもある。(日本繊維新聞 昭和53年=1978年7月29日)