長らくオーダーメードの格下という辛酸をなめてきた紳士既製服が、オーダー市場からトップシェアを奪還したのが1970年代である。その当時、メンズアパレルをリードしていたのが樫山(現オンワード樫山ホールディングス)で、創業者で社長に就く樫山純三氏に経済作家の池田政次郎氏がインタビューした。

 

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ボトムアップの経営 

 東京は日本橋にそびえるオンワードビル。9階建ての立派な本社で働く社員はおよそ500人。この中に、たった一人だけ絶対にエレベーターを使わない男がいる。当年72歳の最高齢者・樫山純三社長がその人だ。

 「社長室にいない。ということではどこのトップにもひけをとらんでしょう。入社して15年になるが、まだ一度も社長のイスにすわっているところを見たことがありません。社内に用事があるときは、その相手のデスクにヒジをついて気軽に話している。なにしろ今だに腕立て伏せを100回はやるというお方なんですから」。

 インフォメーション役を買って出た石野総務部長の話。そういえば、つい最近引退した本田技研の本田宗一郎社長がそうだった。朝から晩まで工場にこもりっきりで、本社には決算役員会のときぐらいしか顔を見せてなかったという。体裁を気にしないことでは、二人とも財界の最右翼に位置しよう。

 

ボクはナマケものでネ

 だが、この両者は本質的にまったく異なるタイプなのである。つねに“現役選手”であろうとし、陣頭指揮を続けた本田社長に対して、樫山氏のそれはまったく対照的だ。

 「ボクは“なまけもの”でね。なんでも人にやってもらうのが大好きなんです。ここ10年間まともに働いたという気持ちはない。本業よりも、競馬の方で有名になるなんてのは、やはり褒められたことではないかもしれませんな」。

 昼休み、銀座の街をブラブラと歩く。「あら、あのモダンじいさんだれかしら」とOLのグループが振り返る。だが、この自称“万年青年”はハデな格好を気にするところか、むしろ誇らしげに靴を鳴らすのだ。

 自慢の持ち馬「ハードツービート」が昨年みごとにフランス・ダービーをとった。この名馬は種馬として、すでに15億円の値段が保証されているという。オンワードの社長であることを知らぬ人はいても、競馬界の名物オーナーとしての氏を知らぬものはあるまい。

 こうまでウマに対して情熱をそそぐ理由はなんなのだろう。

 

道楽が金もうけにまで

 「しょせんは本能のおもむくところじゃないですかね。男の欲望は昔から“飲む、打つ、買う”と、相場が決まっている。最初は馬券を買う。当たったり、はずれたりを繰り返すうちに、やがてウマの1頭も持ちたくなる。さらに昂ぶると、こんどは牧場を持ってみたくなる。競馬ファンはみんなそういう夢を抱いているはずだ。

 さいわい。私はその夢をはたした。となれば、おつぎは海外で一度走らせてみたい。そうしてなんでもいい、名のあるレースを制してみたい。だから別に特別な動機があるわけではないのです。誤算といえば、道楽が金儲けにつながってしまったことですかな」。

 ウマだけではない。宝石にもくわしいし、絵画の収集にかけても。本社のあちこちにさりげなく掛けられた名画を見ればそれは一目瞭然である。

 去年はおよそ3分の1を海外で過ごした。秘書も通訳もつれず、単身、もしくは夫人同伴で「ちょっといってくるよ」。老齢のヤサ男のどこにそんなバイタリティーが潜んでいるのだろうか。モーレツ一点張りの立志伝者が多い日本人の中では、たしかに異色の成功者というべきであろう。

 

“若い勢力”で伸びる 適材適所の機構作りで

 「こうみえても、商売はそれなりにはげんでいるのですよ。今はここで道楽話をしておりがこの下(7階以下の現業部門)へ行けば、しっかり儲けてくれるようにみなさんに頼んでいる。たまにはコワい顔の一ツも見せるときだってある。根がなまけものなので、いかにすればみんなに頑張ってもらえるのか、その仕組をつくることだけを考えてきた。ウチが今日あるのは若い人達の努力があればこそなんです」。

 樫山さんによれば、ビジネスマンはマクロに強いタイプとミクロに強いそれとに分かれるという。

 「ぼくは典型的なマクロ屋なんです」というのが、氏の口癖になっている。権限移譲をメインとする、ボトムアップ経営方式が、この人のお得意の帝王学であるらしい。

 樫山には課別独立採算制度という特殊機能がある。部門別の独算制を採用する会社は多いが数人単位のセクションにまでそれを徹底するのはめずらしいだろう。

 「人間には二つの勤勉性があると思う。一つは動作的勤勉性であり、もう一つは頭をつかう、つまり知的勤勉性というわけです。経営者が陣頭指揮をするようでは、むしろ、こころもとないのではないか。人間は任せてやれば、けっこう働くものなんです。ある程度能力に欠ける者がいてもそれを目立たせないような組織機構をつくってやらねばならない。それが経営者の第一の使命ではなかろうか」

 樫山は20年も前から、大卒者の定期採用を行っている。樫山さんは繊維の本場、大阪で青年時代を過ごしたのだが、いわゆる船場商法には縁がない。

 20年前といえば、まだ社員150人程度の時代である。今日、彼が“なまけもの”を決め込んでいられるのも「そのころの社員が着実に育っているからです」という。

 

最終の面接だけは担当

 ただし、彼は人材の採用だけは手を抜かない。現在、同社社員の70%は大卒者でありホワイトカラーの場合は100%近くに達しているという。いまでも採用試験の最終面接だけは樫山社長が担当するそうだ。

 「私の場合、ほしい人材のタイプは決まっている、まず、明朗であること、そしてファイトあふれるタイプ。内向的でものごとにクヨクヨする人は最初から相手にしない。理屈っぽいのも苦手です。嫌なことなどサラリと忘れていつでも明るく前向きな人間がよい。ビジネスマンは基本的にそれでなくちゃいけません」

 戦前の創業にしては社内は若さがみなぎっている。

 一部上場会社では重役の平均年齢が40代というのは、たしかにめずらしい。ひとくちに若返りというが、長期間にわたって、それを維持することは至難のワザであろう。だが、樫山さんはそれを断行し、今後ともその基本方針を崩さない。

 「人を引き上げるのはかんたんだが、その逆は非常に難しい。でも、企業のバイタリティを保つためには、非情なこともやらねばならんのです。能ある者には地位をあたえる。そして能力はさほどではなくても過去において功労のあったものはペイで報いる。ウチの場合は課長や部長が即経営者であるわけだから、その辺のケジメをつねにハッキリさせておく必要がある」

 樫山さんはオーナー経営者である。一歩退いた姿勢で臨めるのもそれあればこそであろう。同時にそれは情実を交えぬ仕事本位の人事管理となってあらわれる結果となる。

 

すぐれた先見性 立ちこめる“優雅な匂い”

 ふしぎな企業家である。よくあるような仕事一筋のタイプではない。勤勉努力に象徴される日本的成功者とは縁遠い成功者なのである。

 彼の生家には3人の男の子がいた。長男の甫は長野県きっての秀才で、上田中学から旧制の一高へ進み、東大工学部の機械工学科を卒業した。その後、三井物産に入り最後は極東貿易の副社長になっている。

 三男の欽四郎はTVドラマ「おはなはん」で有名な女優・樫山文枝さんの父親である。早大哲学科を出て以降、学究畑をひとすじに進み、早大教授、文学部長、同大学院運営委員長などを歴任した。

 こうみると、次男の樫山純三の存在がいよいよふしぎに見えてくる。

 この人は小学校しか出ていないのだ。スタートは三越デパートの店員。それもたいへんな“なまけもの”であったという。

 「いやはや、思い出すのもはずかしい。遅刻なんかは朝飯前、同僚にたたき起こされてもなお遅刻をする。クビにするならやってみろ。まるで不良店員のきわみだったね」

 ところが入社5年目に彼はなんと“模範店員”の表彰を受けたのである。

 さすがに三越だけあって、そのマネジメントは当時から垢抜けていたらしい。年に一度、従業員がみずから模範店員を選ぶ。つまり、選挙である。樫山さんの場合は、なかばひやかし半分の“人気票”が集まったのだろう。「会社もこりたんでしょう。ボクが選ばれたときをもって、その制度が打ち切りになった」

 と同時に、この“模範店員”は大阪支店に追われてしまった。だが、賞金20円(当時の月給分以上)を手にした彼はシャアシャアとしたものだった。

 

4年間、外国語の勉強

 あいかわらず三越の仕事は不真面目だった。そのかわり彼は勉強に精を出したのである。

 つごう4年間、彼は夜学にかよって外国語の勉強をした。主として、ロシア語、そして英語とフランス語もかじった。

 「レーニンにこったんです。そのころレーニンはむろん、マルクスやドストエフスキーをむさぼるように読んだ。で、なんとか、語学を夢中でやったんです」

 宵っ張りで読書をする。朝、同僚が起こしにきても「うるさい、オレはかってにやるんだ」とはねつける。「いま考えても、なぜクビにならなかったのか不思議でなりません」。それにしても、あの滅私奉公の時代にそういう態度を押し通したのは、たしかに“大物”であったとみるべきかもしれない。

 だが、人の運命はわからない。レーニンの原書を読むつもりで身につけた語学が皮肉なことに商売の場で役立ったのである。

 外人が買い物にくる。と、店のオエラ方があわてて「樫山君、たのむでェ」ととんでくる。いつのまにが外人専門の売り子になってしまったのだ。

 

26歳で独立に踏み切る

 同時に彼も大人にならざるを得なかった。文学青年的な感覚がいつまで続くわけがない。当時としてはハイカラな運動具や輸入雑貨をあつかっていた彼は、26歳のとき、ついに独立にふみきったのである。

 「いい時代でした。ゴルフ道具とか、スポーツウエアなどは、まるでめずらしかった。ウイルソンの輸入第1号はなにをかくそう、この私なのです。独立資金なんかいらない。そまつな事務所を借りて中古のタイプライター1台を買えば準備完了。米英の雑誌を取り寄せて、これはと思うところにレターを出す。決済は90日、輸入税さえ払えばその日からでも商売ができた。まあ片手間に仕事をしていたというところでしたね」。

 その“なまけもの”が、本格的にプロフェッショナル化したのは戦後である。終戦のショックはさすがに、ノンビリ屋のシリをたたいたらしく、戦後の一時期、彼は人変わりしたように、事業に意欲を燃やすのである。

 

中古衣料扱い大もうけ

 戦後、彼は中古衣料をあつかって大儲けをした。よくある振興成金の仲間入りをはたしたのである。だが、それらのほとんどが、考えなく消えて行くなかで、彼は醒めた眼で日本の将来を見通していた。

 既製服のみに事業の焦点をしぼったのがヒットであった。駐留米軍がすぐれた既製服を着ているのを見ただけで「今後はこれにかぎるとピンときた」。既製服といえば低級品という通念がゆきわたっている時代に、彼はあえて、その打破を試みたのである。

 かつでの繊維産業は大手の商社や問屋が製造の主導権まで握っていた。だが、樫山さんは本来の意味でメーカーたる地位の確立を目指したのである。高性能の輸入機械を導入し、生産能力を飛躍的に向上させるかたわら、デパートをメインとする最良の販売チャネルを築いていった。

 だが、この特異な経営者を語るさいに、ありきたりな足跡はむしろ無用であろう。

 業界痛によると「繊維の経営者は相対的に単純明快派が多い」という。歴史が古く、たがいに手の内は知れている。相場師あがりが多い精神風土も手伝って、いわゆる男性的な事業家が多いのであろう。

 「だから、よけいに樫山さんが理解しがたいのです。たいていの人はいつかはハラの底が読めるものだ。しかし、あの人だけはなんとしても底が割れない。業界人としては“番外地”に位置する感じですね」。

 ちっとも商売人らしくない。だれに対してもにこやかなジェントルマンである。樫山に一杯食ったなどという話はまず耳に入らない。

 だいいち、商売の話などトンと興味を示さないのである。だのに、一旦競馬や絵の話になると時を忘れて熱中する。それが意識したものでないことは、なによりも彼の俗離れした風格が物語っていよう。

 「商売はそんなに苦しいものじゃない。手形が落とせないと大慌てするほうが、そもそもおかしいのです。そんな事業は始めからムリがあるんだ。先見性があるといっても、そんなものは最初から事業家の最低条件ではないか。私のような“なまけもの”からみれば、どうもみなさんが働き過ぎのように見えて仕方ないんだなあ」。

 余裕というべきか、ふてぶてしいというべきか。とかくヒステリックな言動が多い日本の経営者のなかではまれな存在と見るべきであろう。

 ひょっとすると、この人にとって事業経営など「とるに足らんもの」であったのかも知れない。なんともいえぬ“優雅”なニオイがその周辺にたちこめるのだ。辞去のさい、エレベーターまで送ってきた氏は「これから下へ行きます。1日に1度くらいは“社長”の顔にもどらないとね」といって、静かに微笑んだ。(日本繊維新聞 1973年=昭和48年9月7日)