日本のファッション市場で既製服が台頭するのが1960年代からであるが、60年前の記事をみると、百貨店ではオート・クチュールが活況を示していた。それもパリを中心としたデザイナー・ブランドとの提携品が主力となり、高いデザイン・パターンを購入し、価格の割には利益が薄い高級ブランドを導入する背景は、百貨店のイメージアップと富裕層の取り込みにあった。そして、記者が文末に触れたのが日本人デザイナーの存在。なぜ、百貨店は日本人を起用しないのか…。このあたりにも、60年代のファッション界が浮き彫りになっている。

 

 

 

 

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 秋のファッション・シーズンがおとずれて百貨店のオートクチュール担当者はいそがしく駆けずり回っている。しかし、このオートクチュールは百貨店にとって決して採算の良い仕事でなない。それでも百貨店はこれに並々ならぬ力を注いでいる「無駄に外貨を使っているのではないですよ」といいながらも、海外のパターンを買い入れ、もうからぬ仕事(オートクチュール)に力を入れる百貨店はいったい何をねらっているのか-また、百貨店にソッポを向かれた日本のデザイナーは「いったいどうしているのか」といいたくなるほど外人デザイナーが氾濫しているようだが…。

 

五輪ひかえ売れ行き期待

 百貨店のオートクチュールは春夏よりも、秋冬シーズンに力を入れており、そして、今がちょうど忙しい最中で、ファッションショーの開催と売り込みに担当者はかけずり回っている。今年は特にオートクチュールに対しては積極的であり、担当者の鼻息をみてもその力の入れようがうかがえる。これまで見向きもしなかった三越までが、松田新社長に変わって以来、フランスのデザイナー、ギ・ラロッシュと契約するなど、積極的にオートクチュールに乗り出しており、すでに、海外デザイナーと契約している他店はこの三越の新しい動きに大きく刺激されているようだ。

 現に、海外デザイナーのオートクチュールを手掛けては、三越よりも数年先輩に当たる松屋では三越に負けじと、これまであまり売れ行きの芳しくなかったミッシェル・ゴマの作品を断って、今秋から新しくフランスのジャンヌ・ランバン店と契約している。もちろん各店が例年になく活気を見せているのは三越の刺激だけではない。来年のオリンピックをひかえて国際的な社交の場が多くなるというわけで、オートクチュールの売れ行きに期待を掛けているからでもある。

 

赤字は覚悟のサービス

 といえばオートクチュールの経営的な採算は取れているように思えるが、決してももうかってはおらず、各店とも赤字ないしは、赤字に近い儲けにしかなっていない。松坂屋などは150万円でパターンを買っておきながら、客からは一銭のパターン代も取らず「お客さんへのサービス」ということで同店が負担しており、完全な赤字である。「パターン代を含めるとべらぼうに高くなる。これではせっかく良いパターンを買い入れても、お客さんに買ってもらえないし、意義がなくなる。一人でも多くの人に世界の一流デザイナーの洋服を着てもらおうというので赤字を覚悟でやっているのです」。(松坂屋担当者)だからといって、お客さんのパターン代の負担を少なくするために一つのパターンで量産したのではオートクチュールの妙味はなくなるわけだ。

 

高級客吸引の手段に

 それではなぜ、赤字を覚悟してまで力をいれているのか、もちろん、それだけの理由がある。その理由の一つが、顧客へのサービスである。といってもただのサービスではない。もともとオートクチュールを利用する客は普通の客筋ではなく、客の中でも最高の客である。この客をオートクチュールで引き付けておけば、他の商品もこの店で買おうということで、それも客筋が良いだけに大いにもうかるだけの買い物をしてもらえるわけだ。パターン代の負担など差し引きすればすぐに消えてしまうことになる。この考えは、店にオリジナリティをつけるという最近の百貨店の動向にも通じる。

 流通革命期を迎えて以後、百貨店は各売り場を専門店化してコーナー制で充実させようという動きが積極的になった。要するにそれによって他店に見られない店の雰囲気、オリジナリティを作り出し高級な客層の得意化をねらったわけである。

 顧客へのサービス。それによる良客の得意化、専門店化により店のオリジナリティを作る。そして宣伝材料にもなる。さらに「日本の服飾界にも大きく貢献しており社会的にも意義があることを常に意識してやっております」とも言っている。

 

まだまだ舶来崇拝主義

 「他の商品では国産品のよさが認められるようになったが、オートクチュールのデザインとなると、お客さんはまだまだ舶来崇拝主義的な考えをもっている。百貨店がフランスあたりのデザイナーと契約するのは、そういったお客さんの心理につけ込んでものだ。よくいえばお客さんの欲望を満たしてあげているということですよ」(松坂屋高級婦人服担当者)たしかに服飾デザインにおいては舶来崇拝主義的な考え方が依然多いようだ。日本人が着るものなら日本のデザイナーの作品の方が体にも、感覚的に、ピッタリ合うのではないか、そう力説する人も多い。

 「それは素人の考えです。日本人のデザインはまだまだ平面的で着てみた感じもピッタリこない。日本は洋服の歴史が浅く、和服の歴史が長いからです。和服は折りたためば平面的になってしまいタンスの中につっこめるわけです。しかし、洋服は立体的なものです。洋服の歴史が浅いだけに、パリの一流デザイナーからみれば日本のデザイナーの立体感覚というものはまだまだ大きな遅れがあります」(白木屋専属デザイナー弘方さん)

 今年に入ってからも渋谷東急のジャック・グリフ、三越のギ・ラロシュなど、契約が次々に成立しており、百貨店のオートクチュール熱は盛んになっているわけだが、それにしても日本のデザイナーは何をしているのかといいたくなる現状ではある。地球もせまくなって本場パリの服飾技術を見学、研究に行ったデザイナーも相当いる。その成果がもうそろそろ出てきて、日本の服飾デザインも世界一流の水準に達してもよいところではないだろうか、それとも顧客の舶来崇拝主義につけこんだ百貨店が日本のすぐれたデザイナーを無視しているのか。

 

日本デザイナーの課題は?

 「いや、そういうことはないですよ。やはりまだまだ日本のデザイナーは本場パリの水準には達していないです」高島屋本社業務部課長宮永豊三郎氏は、さらにこうつけ加える「外観のデザインはたしかに日本のデザイナーもパリのデザイナーもそれほど変わりない、本場のデザインでもわれわれがすぐに考えつけるようなものもある。それではどこが違うのかといえば、日本人は外面ばかりにとらわれて、服飾デザインにおいて最もかんじんな内面的なものが欠けているのだ」といっている。

 これについて白木屋専属デザイナー弘方さんは別な表現をしている。「感覚的な表現が全然出来ていないのです」ようするに見た感じだけではなく、着てみた感じであり、本場のデザインのものは着てみてその良さ、着やすさがわかるという。それでは、その内面的なもの、感覚的な表現というのはどういうものなのか「それは口ではちょっといい現わせない問題ですね。すごくデリケートな感覚的なものなんですよ。例えばいま本場パリではシンプルなのが多くなっている。なんとなく簡素なものだが、すごくデリケートな神経を集中させており、われわれはほとんど気が付かないささいなところにまでその神経が行き渡っている」(宮永氏)

 「このデリケートな感覚というものは学んですぐわかるというものではない。本場パリには、歴史があり、長く接しているうちに、その感覚的なものが培われてきたわけです」(弘方さん)

 日本の洋服の歴史はまだ浅い。そして、その水準に達するには歴史が解決するということになるようだ。数年はかかるだろうし、日本のデザイナーは大きく遅れているといえる。「この遅れはマスコミにも責任がありますよ」といって宮永氏は笑っていた。(日本繊維新聞 1963年=昭和38年9月26日)