僕は自分の心の平和を守るために「忘れる」と言う精神機能使う人間たちを、特別に嫌悪し、そのようなことで社会と自身の苦しみを見据えずに安楽に生きる人物を軽蔑してきた。
 
しかし自分の心を守るということではなく、愛する者の人生と誇りを守るためには「人の犯したことを許す」ことはできずとも、敢えて「忘れる」ということは大切であると思うようになってきた。これは人間関係が考えている以上に単純ではなく複雑であるということに起因する。
 
問題は今まで忘れるという精神機能をどのように使うのか実のところ僕は分かっていなかった。しかしある事象を敢えて視野から追い出すことに成功してからは、このある特定の事柄を、自分の考えのどこかの次元に置くということが僕にもできるようになってきた。長く生きてこそ身に着けられたものかもしれない。
 
ともあれ複雑な社会、人間関係の中に在っては、敢えて「忘れる」ということが現代人にとって和楽の為必要な精神機能であるということを感じている。しかしそれはどこぞのテレビで歳を重ねる秘訣は何でしようかということの質問に、どこかの老人が「アハハと笑って過ごすことである」というような軽薄な人生観と一緒のモノであるとは考えてもらいたくない。
 
苦と社会の悲しみの現象を常に「忘れず」考え抜いた人間として、和楽の為、人生は苦であるという原則を究明した果ての現実社会との折り合いの付け方としての「忘れる」という高次の精神機能としての心の構えであり、真に何もかも忘れて「ニコニコ」するようなお人好しになる思考方法ではない。あくまでも人間社会と、鋭い批判的な生き方との合理的接点としての精神武装の一種である。現実に「ニコニコ」としてうずもれて善い老人として死んでいく為の生き方ではなく、強欲資本主義・功利的社会・個別分断の中でも哲学を探求しながらも人々と和同しながら生きていく峻烈の苦々しい「選択」の「忘れる」という哲学的態度なのだ。
 
これは知識人にありがちな二乗的「逃げ」をせず、大衆社会の中である種の自身の哲学に但に没頭し埋没するのではなく、そのような知識人的な傲慢の孤独というマントを着ての社会と切り離された中に人生を求めることと、画然と袂を分かち生きていく菩薩心のありようを僕は提示しているのだ。
 
皆も良く熟読し人生の糧とされんことを祈っている。