皆さんこんにちは!
結希です☆
世の中は衆議院解散でのことで賑わっています。
こんな時小さく扱われる出来事に注意を払ってみると、とても大切なことを私達に教えてくれていることがあります。
最近お世話になってるAさんと先日某宗教団体に行った時を思い返すと、ふと格闘技界に異種格闘技の試合が流行り出した頃とダブりました。
Aさんは自分のよりどころとしている仏法的論理があります。
Aさんの論理は素晴らしいけどやはり偏りを感じ、たとえていうとAさんはボクサーで、ボクシングのルールでレスラー(某宗教団体)に闘わせようみたいな感じがします。
レスラーは殴るのは嫌だ!取っ組み合いしようみたいな(笑)
異種格闘技が始まった時に一番揉めたのは【ルール】でした。
今の総合格闘技の試合の原点になる
『バーリ・トゥード(何でも有り)』
みたいなシンプルなルールの試合が出てくるまで、どちらの格闘技に有利なルールが盛り込まれてるかですったもんだしたわけです。
試合はジャッジでいつも揉めたりがあるんです。
格闘技も原点に立つと、そもそもルールのない殺し合いとも言える闘いから始まってます。
宗教の母体となる教えも真理を伝えるところから始まっています。
闘い生き残ることで自分のスタイルが生まれ、そのスタイルが様々な形で受け継がれてきたのが、今の格闘技・武術・武道と言えます。
真理も時代背景も合わせて、どう表現したら伝わるかで様々な教えとして広がっていきました。
そういう意味で見ると、お互いの持つ教えから真理を見出すキッカケを与え合うことは出来ても、宗教的ジャッジは人間には出来ないのかも知れません。
根本真理の法から極端に外れたらおかしいでしょうが…
きっと宗教的な論議・論争の法論も、格闘技みたいに何でも有りのシンプルなものになってくるのかもしれません。
格闘技界でもそんな波があったように、宗教・スピリチュアル世界も今そこまで波が押し寄せてきています。
皆さんが根本真理をそれぞれで掴む為に…
根本真理そのものが時代のジャッジ(審判)に入ってきた…☆