唯識講衆: 三経院で唯識を研鑽する。 本供養衆:聖霊院で真言密教を修法する
堂方 行律を専らにし夏は堂に籠って安居禅行を修し 仏前に香華を供して法要の承仕を司る僧を云う
行人:行を専らにする僧 律宗方:律を専らにする僧
■「聖徳太子伝私記」の年中行事の項には見られる学衆禅衆の記録からは後世のような厳しい両者間の差別はあまり感じられない。しかし室町期 学侶上位 堂方下位の傾向が強まり
![聖徳太子伝私記](https://stat.ameba.jp/user_images/20150816/22/toratsuki/85/24/j/t02200131_0241014313398068771.jpg?caw=800)
聖徳太子伝私記
上宮王院,法隆寺などの聖徳太子に関係する遺跡,宝物や太子伝に関する秘事口伝などを示した書物。法隆寺僧顕真の著。2巻。上巻は1238年(暦仁1)ごろ,下巻もその後まもなく成立。《古今目録抄》とも呼ばれる Wikipedia
■■顕真という寺僧が古記録を集めて法隆寺の太子信仰の流れを明確にせんことをはかり 太子ゆかりの宝物を紹介しつつその頃の法隆寺の姿を記録することに努力 218頁
■ 子院 学侶 西院側 堂方 東院側
■学侶の門には棟門と薬医門の二種があり
![華蔵寺](https://stat.ameba.jp/user_images/20150816/22/toratsuki/e8/a7/j/t02200155_0240016913398003664.jpg?caw=800)
棟門:塔頭などで用いられた屋根つきの門。
四脚門よりは下、腕木門よりは上と考えられている
薬医門のいわれは
![沼田城薬医門](https://stat.ameba.jp/user_images/20150816/22/toratsuki/0c/b5/j/t02200202_0294027013398003665.jpg?caw=800)
一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。
また、かつて医者の門として使われたことからとも。
門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれて
総体的に大きく その意匠も立派で現存する子院表門の殆どが学侶の門である。
![福園院の門.](https://stat.ameba.jp/user_images/20150816/22/toratsuki/89/4c/j/t02200165_0480036013398003666.jpg?caw=800)
■堂方の門は学侶の門に比べて全体的に簡素、狭く作られている。
⇚福園院の門.
承仕の門は堂方の門よりさらに粗末で懸魚もない。
■子院持仏堂
学侶はそれを私有できるが堂方にはそれを許さないという掟
蓮光院地蔵堂・政南院文殊堂は堂方全体の堂であって、一つの子院私有の堂ではないと伝えられている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150816/22/toratsuki/88/b5/j/t02200161_0247018113398042715.jpg?caw=800)
①向拝の有無
有学侶
無堂方
向拝:仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分のこと。
仏堂や社殿入口の階段上に設けられる場合が多いことから「階隠」は
②学侶・格天井 堂方・棹縁天井
■子院坊舎の形式の違い。
破風懸魚が無い堂方
168頁
![04211 nageyari.net](https://stat.ameba.jp/user_images/6b/d0/10046708868_s.jpg?caw=800)
学侶者公家 又者五代相続之武家 子種姓吟味之上児取立者也
出身が第一条件 そのうえ 法隆寺学侶衆による種姓吟味
堂方者種姓吟味無之
※種姓
①人の生まれた家柄や血筋。生まれや育ち。
②人の生まれ育った境遇や歩んできた道すじ。 「 -を明かす」
③物の由緒や由来。
■寛政9年(1797年)9月 全堂方 学侶への昇進願い
提示された条件 1)寛政11年12月23日全堂方が学侶への昇進 準備期間の要
2)里元について、家柄によっては離縁し、公家などの養子になること
3)堂方はしかるべき学侶の弟子になること
170頁
■ 明治維新を前後として退寺還俗したのは学侶であり 寺に留まったのは主に近在出身の堂方
承仕であった。このような状況下からもぜひとも を学侶に昇進せざるを得なかった。
1)明治2年 寺法改正集会 無条件で昇進
171頁
法隆寺の謎と秘話 高田良信 著
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学侶の勢い、法隆寺の周辺から寄せられる人生の設計図や指南としての期待があってのものだろうな
幕末に保ち得る既成概念とかないやろうな