『法然 親鸞以前、日本の仏教において 殺生を生業とする漁師や猟師と商業を行う人間は考慮に入れられてなかった。』とかなんとか、
屠沽ノ輩
その仏門が 権門から入って高位を得る仕組み、学問僧が衆生済度に励むでなし
加持祈祷も権門の求めに応じるべく為され・・
中略
で、卑しい商業なんだけど
寺は布施で集めた金を 利子を取って貸し付けていた。
これこそ、卑しむべき商業と見える。
って思うのは、時代の商人のあくどさを知らないから・・
渋沢栄一の時代も 日本の商人には倫理がなかったそうな。
商いは倫理と並び立たないものとされていたのを、渋沢栄一が変革したんだとさ。
沽ノ輩を白眼視するのって
マネーゲームを縛める考えとして面白いと思ったのだけど、
"沽”なんて言っても 本来の歪みの中心じゃないから 変わることなく そういった形が続いたんだろうな
具体から離れ 抽象化されるとやれてしまう。
現在だって、大凡が浸ってる。