慶長5年(1600)4月14日付
直江兼続(上杉景勝の重臣)が
京都・豊光寺(臨済守相国寺の塔頭)の西笑承兌に
宛てて出した書状(同年4月朔日付けの 西笑承兌が兼続に出した書状の返信)
内容
上杉家と隣国の越後国主堀家の係争事案を
一方的に堀家の訴えを聞き入れ、公平な裁定が望めないので上洛できない
現存最古の直江状写しは 下郷共済会所蔵の直江状
「江戸中納言秀忠卿七月七日附書状附属」と書かれている。
慶長5年7月7日付 村上頼勝宛徳川秀忠書状の写しが朱書きされている
秀忠が、村上頼勝に送った慶長5年の7月7日付けの書状に 直江状を添えていたらしい。
(堀秀治の与力大名)
秀忠書状の写しには寛永17年庚申二月二廿五日謄本と朱書き
直江状は 寛永17年二月二廿七日
慶長5年に写した書面を寛永17年に写した書類
秀吉の死により惣無事令体制の崩壊
徳川家康は 『内府ちかひの条々』によって公儀から排除され 政治的正統性は失ってる。
公儀である石田三成・毛利連合は、各地域のブロックを制圧するという戦略を獲った為
家康迎撃の兵を関ヶ原に集められなかった。
結果 辰の刻(午前8時 に始まり、未の下刻(午後3時 に終わる。
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◆ 直江状は写しがたくさんあるそうだけど
元々が一気呵成に書いた文章でもあり、草書であった為に 誤写も生じたらしい。多幸ニ候→ 多幸々々
慶長5年と寛永17年でも 文章の受け取り方が違ったろう。
京都から遠い伊達家や加藤家、黒田家でも領土の拡大を図ってる。
そういう時期の書状 酔狂じゃなく ちゃんと醒めた分別で書いてた気がします。
▼ 会津移封を強いられた際 旧領に謙信の遺骸を残すだとかにも 決意が見えてる。
上杉謙信は "義”を印象されるけど
上杉景勝とか直江兼続とか 普通な印象だ。
義を衒い 挙句ジリ貧、 明治まで伝えるっていう まるで 公家に戻ったような顛末
景勝たちが慶長出羽合戦なんかしとらんで 家康を敵に回してれば、講談の種になってた。
勝てば凱歌、負けて滅びてりゃ 赤穂浪士以上に愛されてた筈だ。
傍に愛されるっていうのもなんなんだけどさ(^o^;)
▼石田三成は 既に圧倒する力がないのに あるかのように振る舞うのが間違ってるんでしょうよ
実力がないのに 名目で組立てようとしたなんて、・・ついて行くわけないじゃん。
豊臣秀吉の治世が素晴らしかったってんなら
三成の忠義として美しく見えんでもないけど、全然違うもんね(-""-;)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E5%A7%AB


