本書は自由主義的進歩思想、絶対平和観を有した洋学紳士君、帝国主義的国権論者の豪傑君、現実主義の南海先生、三人が対話によって世界の潮流、日本の政治を語るものである。洋学紳士君、豪傑君はどちらもラディカリストであり、それを南海先生がたしなめる形になっている。南海先生は決して自らの主張を述べるでもなく、喋る機会自体が少ないが、先生の言葉一つ一つは比喩を用いながら、思想や政治の本質について核心的な事を述べており興味深い。

<感想> 
 解説にあるように、三者のうちどれが中江兆民の思想に一番近いのかははっきりしないが、私は洋学紳士君に対する思い入れが大きいように思える。洋学紳士君は西欧の歴史の理から自由民主制こそが最上の制度であり「進化の理法」だという。そして富国強兵など弱小国は望めないから、学術的に秀でることで「無形の道義」を体現すべきだという。この洋学紳士君の「進化の理法」に対する批判に本書でもっとも力が入れられているように感じた(p94~)。
 先生曰く、人間が先導することが出来ない「進化の神」は、畢竟跡づけに過ぎない。その「神」の進む道は曲がりくねり、前後し決して直線コースを採らなず、人間が予見出来るものではない。さらに、世界中には至る所に多様多愛な「進化の神」がおり、西欧型が唯一ではない。だから直ちに何を採用すべきか分からないけれど、一つ確かなことは「進化の神」が共通して憎むものがあるということである。そしてそれは「その時、その場合においてけっして行ない得ないことを行なうとすること」である。
 続けて言う、政治の本質とは国民の意向に添い、国民の知的水準に合う制度を採用し、福祉の利益を達成することであると。事業、歴史は常に「過去の思想を発現」である。「進化の神」としての歴史は「人々の思想が合体して、一つの円をかたちづくるもの」である。であるからこそ、人々の脳髄に思想を植え、それを一度過去のものにしない限り、良い事業は出来ないのだ。
 社会契約論を翻訳し、東洋のルソーと呼ばれ藩閥政治には批判的であった中江兆民だが、本書を読んで感じるのは、兆民自身がフランス型の社会契約論に根ざした「民権の回復」(草の根の革命的民主化)を求めているとは到底思えないことだ。それよりも「恩賜の民権」(上からの自由化、民主化)を重視し、君主や宰相が「人民の知的水準」に注意を払いながら、自由の規制を解くことが望ましいと考えている(p98~)。そしてその漸次自由化の間に人民が行なうことは「これ(恩賜の民権)をちゃんと守り、大切にあつかって、道徳という霊気、学問という滋養液で養ってやる」ことである。そうすれば時勢が進み歴史が展開するとき、肥え、背が高くなり「回復の民権」と肩を並べることが出来る、それこそ「進化の理法」であると考えている。




信長 ー近代日本の曙と資本主義の精神ー/小室 直樹
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【紹介】 
 信長なくして近代なし。「天下布武」を目指す信長の行動様式には伝統主義のしがらみを刷新し、日本近代化のために目的合理の精神を日本に植え付けようとする世界史上の役割、すなわち世界精神がみられた。古今東西の古典を参照し、比叡山焼き討ち、楽市楽座、桶狭間の戦い、兵農分離、本能寺の変を、小室氏独自の社会学的視点から読み直すことで、読者は全く新しい信長解釈に瞠目させられるだろう。 

【評価】
 レビュワーは歴史に詳しくもなく、信長についても恥ずかしながら一般的知識しかなく、いやそもそも歴史学という学問自体に明るくない。本書で参照されている徳富蘇峰の『近世日本国民史』、参謀本部編『大日本戦史』や太田牛一の『信長公記』も読んだ事はない。従って本書をその歴史解釈を軸に評価する事は出来ない。ただ、著者小室先生の主張は然もありなんと、大変面白く読む事が出来た。
 本書は歴史上、論争的な問題をも扱っている。例えば、本能寺の変直前の明智光秀が腹心に信長への謀反を打ち明ける会談において。歴史家によって若干の食い違いがある事に触れつつ、歴史的な細目の穿鑿より行動様式の分析こそが大事であるとしているからだ(p82)。従って、本書の視点は歴史を社会学的に再構成されたものとして読まれるべきだろう。他にも、桶狭間の戦いに見る、善照寺から中島砦に向かった信長の常軌を逸した行動が論争的であるという。
 小室先生は織田信長を世界史のなかで位置づけ、近代化をなすべく日本に遣わされた存在と主張する。あくまで大事なのは、信長本人ではなく信長のやろうとしたことであるとの立場から、信長の政策が近代化の端緒を開いたとして高く評価する。歴史家であればいずれの政策も不十分であったと解すであろう兵農分離や楽市楽座などをいかに革新的政策で近代化のために不可欠であったかを分かり易く示している。小室先生独自の解釈を交え、学際的に読み解く姿勢は、学者が陥り易い門閥、学閥の壁を突き破ろうとする生き様にいたく感銘を受ける。

 <以下ネタばれ>
 例えば、兵農分離は当時完成しつつあった農民兵と大名との「農民共同体」を壊し、大名や武士のの権力基盤を農民から切り離すのに役立った。これは幕藩体制下でにみられた「お国替え」のように諸大名を官僚化することに繋がり、引いては廃藩置県を比較的スムーズに実行し得る為に不可欠であった。また、この兵農分離によって信長は伝統主義(伝統的共同体)から除かれた無頼漢などから人材抜擢、傭兵部隊を作り上げた。彼ら傭兵はある種、英国の囲い込み政策時における労働者のごとく、近代的なエトスを以て、桶狭間の戦いで活躍した。 その桶狭間の戦いは、筆者によると通説の「迂回奇襲説」は間違いで、強襲と解釈するべきだという—歴史家や軍人は『信長公記』の突飛で説明の付かない信長の行動についての記述を意図的に論理的に説明出来るように曲げていると主張する。そして、運命を僕にした奇蹟だという。
 桶狭間の戦いは「分捕なすべからず。打捨てになすべし。」(『信長公記』)にみるように、今川義元の頸を取る事だけを目的した戦であり、前近代的な略奪、強奪という「私闘の積み重ね」としての戦闘からの画期的転換であった。「軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。ただ励むべし」(『信長公記』)を取り上げ、筆者は桶狭間の戦を、戦争における各自の役割を徹頭徹尾重視した近代戦争の萌芽的戦いと解し、信長をナポレオンやモルトケと並べる。 さらに信長は死の間際まで世界精神としての使命を全うした。本能寺の変は、戦国「武士道」を抽象化、絶対化した。「旧主人に仕えた如き忠義を以て新主人に仕える」を恥としない浮気な行動様式であった戦国「武士道」が絶対的忠誠にまで高められた。社会的階級の違いから来る差別規範を越え—すなわち腹心から馬夫まで—主君のために玉砕する勤王の精神にまで高めた出来事であった。また信長の死に様は信長のカリスマ性をもっとも保存する形の死であり、秀吉に意志を継ぐ世界史上の重要な事件であったとする。


大和ごころ入門/村上 正邦
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【推薦】
 現代日本では南北朝の歴史が繰り返されている。国家権力中枢で日本の生の姿に触れ、国家に裏切られた二人が語るこの国の形とは。北畠親房の『神皇正統記』を通して、正統な日本国、正統な保守をいかに中興するのか、いかに強い日本へ維新できるのか。南朝の歴史を追体験しつつ、日本を日本たらしめる見えないものへの畏敬を通して、吉野の地において自らの再起を賭ける。国士二人の決意表明の書。

【解説】 
 本書で両者が共有するのは今の保守の安っぽさ、この国の政治の言葉遊びや乱れ、さらに国体の瓦解に対する危機意識である。それは「保守」の側から近代主義への賞賛が生まれ(新自由主義が生じ)、小泉政権が誕生したことに端を発する。靖国参拝でシンボル操作を行ないながら、経済合理性で測れないものを「無駄」と切って捨て、結果的に強い者をより強くし、日本社会の貧困化を許したこと。また保守待望の安倍政権が短期間のうち自己の弱さから崩壊したこと。これら6年間の日本政治の動きを日本の神話や南北朝の歴史から解釈する。
 国体の瓦解、国家の弱体化、権力と金の密接な結びつきと交換可能性への危機意識を共有し、日本の神話、文化、伝統など経済合理や時空を超えた、見えないものへの畏敬の念など日本の大和ごころを再確認しようという本である

気に入った文
自分の持ち場ってのいうものを人は選べないんです、ほんとはね。自分の持ち場っていうのはたぶん一か所しかないんですね、最終的に。その場所で一所懸命、ひとつのところで懸命にやると愛情が生まれる。だから一所懸命なんですよね。これが愛国心の原点だと思うんです。

【評価とコメント】★3
 佐藤優氏の思想に村上正邦氏の生き様、政治観を通して、思想と哲学の違いや、国体と憲法、愛国心と自然観などについてなど、個人的には考えるきっかけになる主張が多々あり、考えの起点として大変参考になった個所が多かった。また両者の考えに多く同意出来る個所があった。
 ただ、対話、対談ものにはつきものだが、カバーする範囲が広過ぎる点が問題で—南北朝、皇室(典範)、憲法、愛国心、政治、新自由主義、神話、思想…—もう少し絞った方が読み易い。また、入門をどう解するかによるが、万人に勧めることが果たして出来るのか否か…もちろん天皇あっての日本国であり、それが国体を貫く=国家の中心であり中道思想と解すべきだと思うが、やはり一般的には本書は保守思想本だと解されてしまうきらいがある。(補足
—例えば日本の国号と天皇の称は持統朝のころほぼ同時期に制度化されたと考えられている。以後少なくとも建前上、天皇の権威を背後とした世俗的権力による統治が江戸時代まで一貫して続く。…が、その歴史的流れが断絶した時期こそ南北朝時代であり、それをどう解釈するかについては確か学会でも議論が分かれている…南朝を正統とみなすのか異形とみなすのか、後醍醐天皇をいかに位置づけるか…本書は前者の立場と言える。
 尤も本書を読めば、先祖を敬うことや文化伝統への畏敬など当たり前のことが、右翼の専売特許のようになっている今の日本の座標軸が異常な位置にあり、現代が日本の歴史の中で異様であることを再確認出来るという意味はあるかもしれない。筆者らは日本の思想が世界に認められるためには「通じる言葉」にしなくてはならないと言うけれど、本書の内容は日本で「通じる言葉」をもつのか否か、現時点では疑わしい。では保守の側はいかにその「通じる言葉」を創れるのか、中興、維新できるのかとなると直接的には述べられず、話が自分たちの裁判に流れてしまっている点が残念である。(本書の文脈からすると、人の創った制度や法律には自ずと限界が生じることから、自然のままに流れ着いた自分の持ち場を一所懸命に保ち、自分の職分を全うすることが突破口となると解せられる…佐藤さんは言論で村上さんは政治家として)
 そうした点で、国策捜査で権力を負われた二人という特殊な存在が生んだ企画ものとして本書は読まれるべきだろう。本書で何かが生まれる、昇華した結果、全く新しい見方が見えるというものではなく、一部の解釈を除き、大筋で一致するそれぞれの保守思想を、「そうだね、うんうん」と確認し合いながら話が進む点が特徴—対話より談話に近い。