1945年(昭和20年)の8月9日突如国境を越えて侵攻を開始したソビエト軍。
当時の日本の軍部はソビエトの仲介による和平交渉も考えていたらしく、
正に晴天の霹靂だったのではないかと思う。


この年の2月には米英ソの首脳によるヤルタ会談がクリミア半島で行われ、ドイツを降伏させた後数か月で日本に侵攻する計画が既になされていた。
日本の戦争指導者達の全く知らないところで…。

満州だけではなく、本土への空襲、沖縄戦、2度の原爆等投下により、
日本の主要都市は焦土と化した。
こんな終わり方しかなかったのでしょうか?
輝いていたはずの命が沢山失われた。
そして今、このブログを書いている今もウクライナでは沢山の命が…。

 

 

 



母と祖父母が侵攻の知らせを受けたのは夕方だったようです。

母は満州に住む中国人を満人と呼んでいました。
何年いたのでしょうか、満人との会話に言葉の障害はなかったようです。

沢山の使用人がいて、満人の友だちも沢山いたのだとか。

でもその日の夕方から彼らの態度が激変して、

仲良く遊んでいた友も、優しかったねえやも母の家族をののしりながら

つばを吐いてきたそうです。

 

本当は我慢していたのかもしれません。

母の住まいは夜になると狼の遠吠えが聞こえるようなところで、
広い牧場に沢山山羊を飼っていたそうです。

牧場の柵を開いて山羊たちを逃がし、鶏小屋を開けたとき、
おびただしい数の鶏たちが夕陽に照らされて、羽を広げて逃げて行った。

祖父は馬車にありったけの家財道具を詰め込んで、妻と娘にに叫んだ。

 

「早く乗れ!」

彼女たちが砲撃を受けて命からがら逃げてくるのを見てどんなに驚いたことか。



朝方の雨で地面はぬかるんでいたけれど、
祖父の愛馬は家族を乗せて疾走し、何とか戦車から逃げ切ることができたそうです。

敵に見つからないよう、森の中を進むことにして、ほっとしたのも束の間、

陽が落ちてぬかるみに足を取られた祖父の大切な馬は、
もう一歩も歩けなくなってしまいました。


つづく