1990年の皐月賞馬、ハクタイセイ馬が死んでしまったようでしょぼん


26歳と言うお爺さん馬だったので、仕方ないですがしょぼん


ハクタイセイ馬は、デビューから5戦目で未勝利を脱出した馬だったが、そこから6連勝で皐月賞馬まで登り詰めた。


元祖アイドルホースのハイセイコー馬が送り出した、カツラノハイセイコ馬に次ぐクラシックホースだった。


5連勝で重賞きさらぎ賞を勝ったが、ここまでは須貝尚介騎手(現調教師)が手綱を取った。


しかし、須貝尚介騎手はこの時点で中山競馬場で一度も騎乗したことがなかったため、皐月賞では南井克巳騎手にスイッチされた。


1番人気は弥生賞勝ちのメジロライアン馬、2番人気は弥生賞で苦手の道悪に泣いたものの、朝日杯、共同通信杯勝ちのアイネスフウジン馬、ハクタイセイはきさらぎ賞からの参戦で、レース間隔がやや開いていたために3番人気の評価だった。


スタート直後、アイネスフウジン馬はホワイトストーン馬にぶつけられてしまい、ハナを奪えなかったショック!


抽選で出走権を得たフタバアサカゼ馬と言う条件馬が逃げたが、失速して後退したところでアイネスフウジン馬が先頭に立って押し切りをはかったが、白い馬体のハクタイセイ馬が猛然とアイネスフウジン馬に襲いかかり、ゴール前でハクタイセイ馬がアイネスフウジン馬を差し切った。


この皐月賞勝ちが、ハクタイセイ馬にとって最後の勝ち鞍になった。


ハクタイセイ馬を管理した布施正調教師は、1982年に娘婿の岩元市三騎手(現調教師)が騎乗したバンブーアトラス馬でダービーを、1989年にそのバンブーアトラス馬産駒のバンブービギン馬で菊花賞を制していたので、これで牡馬三冠トレーナーとなった。


ダービーで南井騎手は自厩舎のロングアーチ馬に騎乗するため、ハクタイセイ馬の鞍上には、当時はまだ若手だった武豊騎手が選ばれた。


ダービーでは1番人気メジロライアン馬、2番人気ハクタイセイ馬、3番人気アイネスフウジン馬


ダービーではアイネスフウジン馬がハナに立ち、メジロライアン馬の追撃を振り切って逃げ切り勝ちを収めた。


ハクタイセイ馬はアイネスフウジン馬を見る形でレースを進めたが、父ハイセイコー同様2400mの距離に泣いてアイネスフウジン馬について行けなくなり、5着に終わった。


そしてこのダービーが、ハクタイセイ馬にとって最後のレースになった。


アイネスフウジン馬は新馬戦では勝てなかったが、2戦目の未勝利戦を勝ち上がり、3戦目で朝日杯を勝った。


その後共同通信杯、弥生賞、皐月賞、ダービーと、全7戦で競走馬生活を終えた。


一方、ハクタイセイ馬は未勝利脱出に5戦を要しただけでなく、自己条件戦やオープン特別に数多く出走したため、きさらぎ賞が9戦目、皐月賞が10戦目、ダービーが11戦目だった。


翌年トウカイテイオー馬、翌々年ミホノブルボン馬が無敗のダービー馬となったが、ダービーが6戦目で、アイネスフウジン馬より1戦少なかった。


大体5~6戦目でダービーを迎えるのが理想と考えられており、他の歴代のダービー馬も5~6戦目でダービーを迎えていた。


アイネスフウジン馬のダービーまでの7戦は、未勝利戦から中1週で朝日杯を使ったこともあってやや多い感が否めなかったが、ハクタイセイ馬のダービーまでの11戦は、アイネスフウジン馬と比べてもレース数を使い過ぎていたのかも知れない。


使い過ぎが原因とは言えないが、ダービーを勝ったアイネスフウジン馬は、レース後に屈腱炎が見つかり、電撃引退した。


そして、ハクタイセイ馬にもアイネスフウジン馬同様レース後に屈腱炎が見つかり、1年休養した。


翌年、大崎昭一騎手を迎えて安田記念にエントリーしたものの、脚部不安(屈腱炎)で出走取消となり、ハクタイセイ馬がターフに姿を見せることはなかった。


ハクタイセイ馬は結局そのまま引退して種牡馬となったが、これと言った産駒は出せなかった。


アイネスフウジン馬は早逝しており、同期のクラシックホースで健在なのは、メジロマックイーン馬だけとなった。