昨日、阪神タイガースはドラフトで指名した6名の新人選手の入団記者会見を行い、6名の選手が来年着るユニフォームを披露した。
藤浪君は19。
大昔は、野手の藤井がつけていたが、今ピッチングコーチを務める中西やその後を継承した川尻と、主力選手がつけたものの、入団時に19をつけていた筒井は、成績が上がらなかったため新人の簫に19を奪われた。
その簫も、一軍では数試合投げただけで、今季限りで戦力外通告を出された。
藤浪君には、中西や川尻のように先発ローテーションを張る投手にぜひなって欲しい。
北條君は2。
城島の2をつけることになった。
柴田は入団時に2をもらったが、城島の入団時今の00に変えられたのだ。
阪神タイガースでは背番号2を、城島、松永、柏原等移籍してきた選手がつけたことが多くて、柴田以前に入団時に背番号2をつけた選手が思い浮かばないのだ。
北條君には、内野の要を担う選手になって欲しい。
平野がフリーエージェントで他の球団に移籍するのが濃厚で、早くから活躍して欲しい選手だ。
田面は41。
阪神では活躍できなかった小林の背番号だ。
川尻は入団時背番号41だったが、中西の現役引退後に19を継承したのだった。
プロ野球史上最も活躍した背番号41の選手と言えば、マリーンズ時代の小林と、現在西武ライオンズの監督を務めるナベQこと渡辺だろう。
阪神タイガースでは、川尻以外はあまり活躍してないが、田面には即戦力として頑張って欲しい。
その他は小豆畑が52、金田が48、緒方が65。
ちなみに、支配下選手は00と0~99までの一桁、二桁の背番号なら何番をつけてもいいのだ。
大抵、大きい背番号は監督やコーチがつけ、昔は小さい番号をつける選手がチームの主力選手だった。
小山さんがつけていた47、大杉さんが東映時代につけていた51は、例外と言われていた。
また、0や00をつけた選手は昔はほとんどいなかった。
日本のプロ野球で背番号0で活躍した一番最初の選手は、巨人時代の川相だろう。
川相は入団時は60で、その後0をつけて巨人の主力選手となり、巨人時代の晩年と中日移籍後は6をつけた。
背番号00は、日本のプロ野球では長年誰もつけていなかった。
暗黒時代
の阪神タイガースに、シーズン途中で入団したジョーンズがつけたのがきっかけになり、他のチームの選手もつけるようになった。
ジョーンズが00をつけたことは、当時珍しいこととしてNHKの19時のニュース放送で取り上げられ、松平アナウンサーがこのニュースを読んだことも覚えている。
落合前中日監督は新人選手に対し「自分で現役を辞める時を決めることが出来る選手になれ!!」と常に言っていたが、そんな選手はほんの一握り
落合監督自身もロッテオリオンズと中日ドラゴンズで主力選手として活躍し、フリーエージェントで巨人に移籍したものの、巨人からは戦力外通告を出されて、日本ハムに拾われたものの活躍出来ずにまたも戦力外通告を出されたのだ。
落合監督は現役時代オリオンズで三冠王2回、ドラゴンズで二冠王2回を始め在籍した6年間すべて打撃部門タイトルを獲得したが、巨人と日本ハムではノンタイトルに終わった。
阪神タイガースは、金本アニキの背番号6を永久欠番にするだろうから、藤村さんの10、村山さんの11、吉田さんの23が永久欠番になっているが、事実上赤星の53も永久欠番扱いになっている。
藤川俊介は、背番号7をアメリカで戦力外通告を受けて阪神に入団した西岡剛に奪われ、球団から提示された背番号40を辞退して自ら68を希望し、周囲の期待に応えられていない自分へのカンフル剤にするようだが、藤川俊介の記事でも書いたように、背番号は選手の顔。
平野がもし他球団に移籍すれば、背番号5は空き番になるだろうから、5を奪い取る活躍をして欲しいし、藤川俊介が活躍しないとチームも困るのだ。
守備固めや代走、代打要員止まりではいけない選手だと思う。
藤川球児が仮に米大リーグに流出すれば、田淵、木戸、そして藤川自身と、チームの顔として活躍した選手がつけた背番号22も空き番になるだろうから、これを継承できる位の選手が出てきて欲しい。
藤川球児も、高知商からドラフト1位で入団した時は背番号30をもらったが、星野監督就任に合わせて入団した久保田に30を奪われ、当時の岡田コーチに背番号を92に変更させられた。
岡田監督が阪神の監督を辞任した後、江夏さんと共に出版した著書に、星野監督が藤川球児の背番号を変えたと思われているが、私が変えさせたと記している。
阪神が2003年に18年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした時に製作された記念タペストリーが、倉敷市の美観地区にある星野監督の博物館に飾られているが、実はそれに藤川球児の名前がない。
岡田監督の著書にも記されているが、実は当時の藤川球児は重度の肘の故障を抱えていたらしくて、もし星野監督が翌年もタイガースの監督を務めていたなら、藤川を戦力外扱いにして、広島カープへトレードするつもりだったらしい。
星野監督の電撃辞任、岡田ヘッドコーチの監督就任が決まったことで、藤川球児に背番号22を与える代わりに、先発投手へのこだわりを捨てさせ、セットアッパーへ転向させたことも著書に記されている。
そして、その後自分の力で球界を代表するクローザーへとなったが、藤川球児にとって岡田監督はまさに「恩人」である。
その後真弓、和田とヘボい監督がチームを弱体化させ、藤川をもて余す現状を鑑みれば、米大リーグに心が傾くのは当たり前で、実際に10数球団からオファーがあったらしいから、ほぼ間違いなく流出するだろう
藤浪君は19。
大昔は、野手の藤井がつけていたが、今ピッチングコーチを務める中西やその後を継承した川尻と、主力選手がつけたものの、入団時に19をつけていた筒井は、成績が上がらなかったため新人の簫に19を奪われた。
その簫も、一軍では数試合投げただけで、今季限りで戦力外通告を出された。
藤浪君には、中西や川尻のように先発ローテーションを張る投手にぜひなって欲しい。
北條君は2。
城島の2をつけることになった。
柴田は入団時に2をもらったが、城島の入団時今の00に変えられたのだ。
阪神タイガースでは背番号2を、城島、松永、柏原等移籍してきた選手がつけたことが多くて、柴田以前に入団時に背番号2をつけた選手が思い浮かばないのだ。
北條君には、内野の要を担う選手になって欲しい。
平野がフリーエージェントで他の球団に移籍するのが濃厚で、早くから活躍して欲しい選手だ。
田面は41。
阪神では活躍できなかった小林の背番号だ。
川尻は入団時背番号41だったが、中西の現役引退後に19を継承したのだった。
プロ野球史上最も活躍した背番号41の選手と言えば、マリーンズ時代の小林と、現在西武ライオンズの監督を務めるナベQこと渡辺だろう。
阪神タイガースでは、川尻以外はあまり活躍してないが、田面には即戦力として頑張って欲しい。
その他は小豆畑が52、金田が48、緒方が65。
ちなみに、支配下選手は00と0~99までの一桁、二桁の背番号なら何番をつけてもいいのだ。
大抵、大きい背番号は監督やコーチがつけ、昔は小さい番号をつける選手がチームの主力選手だった。
小山さんがつけていた47、大杉さんが東映時代につけていた51は、例外と言われていた。
また、0や00をつけた選手は昔はほとんどいなかった。
日本のプロ野球で背番号0で活躍した一番最初の選手は、巨人時代の川相だろう。
川相は入団時は60で、その後0をつけて巨人の主力選手となり、巨人時代の晩年と中日移籍後は6をつけた。
背番号00は、日本のプロ野球では長年誰もつけていなかった。
暗黒時代
の阪神タイガースに、シーズン途中で入団したジョーンズがつけたのがきっかけになり、他のチームの選手もつけるようになった。ジョーンズが00をつけたことは、当時珍しいこととしてNHKの19時のニュース放送で取り上げられ、松平アナウンサーがこのニュースを読んだことも覚えている。
落合前中日監督は新人選手に対し「自分で現役を辞める時を決めることが出来る選手になれ!!」と常に言っていたが、そんな選手はほんの一握り

落合監督自身もロッテオリオンズと中日ドラゴンズで主力選手として活躍し、フリーエージェントで巨人に移籍したものの、巨人からは戦力外通告を出されて、日本ハムに拾われたものの活躍出来ずにまたも戦力外通告を出されたのだ。
落合監督は現役時代オリオンズで三冠王2回、ドラゴンズで二冠王2回を始め在籍した6年間すべて打撃部門タイトルを獲得したが、巨人と日本ハムではノンタイトルに終わった。
阪神タイガースは、金本アニキの背番号6を永久欠番にするだろうから、藤村さんの10、村山さんの11、吉田さんの23が永久欠番になっているが、事実上赤星の53も永久欠番扱いになっている。
藤川俊介は、背番号7をアメリカで戦力外通告を受けて阪神に入団した西岡剛に奪われ、球団から提示された背番号40を辞退して自ら68を希望し、周囲の期待に応えられていない自分へのカンフル剤にするようだが、藤川俊介の記事でも書いたように、背番号は選手の顔。
平野がもし他球団に移籍すれば、背番号5は空き番になるだろうから、5を奪い取る活躍をして欲しいし、藤川俊介が活躍しないとチームも困るのだ。
守備固めや代走、代打要員止まりではいけない選手だと思う。
藤川球児が仮に米大リーグに流出すれば、田淵、木戸、そして藤川自身と、チームの顔として活躍した選手がつけた背番号22も空き番になるだろうから、これを継承できる位の選手が出てきて欲しい。
藤川球児も、高知商からドラフト1位で入団した時は背番号30をもらったが、星野監督就任に合わせて入団した久保田に30を奪われ、当時の岡田コーチに背番号を92に変更させられた。
岡田監督が阪神の監督を辞任した後、江夏さんと共に出版した著書に、星野監督が藤川球児の背番号を変えたと思われているが、私が変えさせたと記している。
阪神が2003年に18年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした時に製作された記念タペストリーが、倉敷市の美観地区にある星野監督の博物館に飾られているが、実はそれに藤川球児の名前がない。
岡田監督の著書にも記されているが、実は当時の藤川球児は重度の肘の故障を抱えていたらしくて、もし星野監督が翌年もタイガースの監督を務めていたなら、藤川を戦力外扱いにして、広島カープへトレードするつもりだったらしい。
星野監督の電撃辞任、岡田ヘッドコーチの監督就任が決まったことで、藤川球児に背番号22を与える代わりに、先発投手へのこだわりを捨てさせ、セットアッパーへ転向させたことも著書に記されている。
そして、その後自分の力で球界を代表するクローザーへとなったが、藤川球児にとって岡田監督はまさに「恩人」である。
その後真弓、和田とヘボい監督がチームを弱体化させ、藤川をもて余す現状を鑑みれば、米大リーグに心が傾くのは当たり前で、実際に10数球団からオファーがあったらしいから、ほぼ間違いなく流出するだろう
