井上隆智穂は日本ではこれと言った実績は残せなかったが、近年F1ドライバーになった佐藤琢磨、中嶋一貴、小林可夢偉と同様に、F1ドライバーになるために海外留学をする先鞭を切ったドライバーだった。


井上隆智穂は1985年に日本でデビューし、1987年イギリスに渡り、1988年フォーミュラ・フォードに参戦した。


1989年~1993年まで全日本F3選手権に出場したが、F3000への昇格は果たせなかった。


1994年、ヨーロッパに渡りGP2の前身インターナショナルF3000にスーパーノバレーシングから参戦した。


このチームは語学学校を運営していたNOVAが出資して設立したチームで、森脇基泰さんが運営するノバとは、まったく別のチームである。


そして、このNOVAとユニマット等の出資を得て、この年からF1に新規参戦したシムテックから、日本グランプリにスポット参戦した。


しかし、この年のサンマリノグランプリで正ドライバーのローランド・ラッツェンバーガーが事故死し、シムテックの出資先が次々と資金を引き上げて行って、チームが資金難に陥っているのを見た井上はシムテックに見切りをつけ、翌年は当時日本の貨物運搬会社フットワークがオーナーだったアロウズから、亜久里さんに次ぐ日本人ドライバーとして、通年参戦した。


井上の後任として、野田英樹さんがシムテックからF1に通年参戦する予定だったが、野田さんに出資する予定だった企業が阪神淡路大震災の影響でそれどころではなくなったため、野田さんのF1通年参戦は、幻に終わったのだしょぼん


井上は、この年とんでもないエピソードを2つ残した。


1:モナコグランプリで、フリー走行中にマシントラブルで止まり、井上がマシンに乗ったままでマーシャルカーに牽引されてる最中に、別のマーシャルカーに追突されて、マシンが横転したショック!


2:ハンガリーグランプリで、レース中にエンジントラブルでリタイアし、火災が発生したため自ら消火器を持ってマシンの元に向かっていたところ、後ろからやって来たファイヤーマーシャルカーにはねられたショック!


1995年を最後に、フットワークは本業の運送業の業績悪化を理由にF1から撤退して、アロウズはトム・ウォーキンショーの手に渡った。


井上はアロウズから引き上げて、1996年はミナルディから参戦する予定だったが、井上は兵庫県神戸市出身で、神戸市が阪神淡路大震災で甚大な被害を受けたため、井上に出資を予定していた地元スポンサーが出資を取り止めたことにより、井上はF1参戦をあきらめ、ドライバーも引退した。


中野信治さんは、1997年に無限の後ろ楯でリジェからF1デビューする予定だったが、ギ・リジェさんがチームをアラン・プロストに売却したため、そのままアラン・プロストのチームからF1に通年参戦した。


だが、アラン・プロストと上手く行かず、翌1998年はミナルディに移籍した。


この頃には、ミナルディは創始者のジャンカルロ・ミナルディさんが手を引き、ポール・ストッダートがドライバーの持参金と自前の資産を削ってチームを運営していた。


当然、戦闘力などないに等しいマシンでは、満足なレースが出来なかったしょぼん


1999年、中野さんはエディ・ジョーダン率いるジョーダンのテストドライバーとなり、正ドライバー昇格を目指して頑張ったが、一度もレースに出場する機会は得られず、この年を最後にF1から撤退した。


高木虎之介は、中嶋悟さん率いるチームからフォーミュラ・ニッポンに参戦し、後にF1ドライバーとなるラルフ・シューマッハーや今もF1に参戦しているペドロ・デ・ラ・ロサが居たため、チャンピオンにこそなれなかったが速さが光るドライバーだったので、師匠の中嶋さんがかつてお世話になったケン・ティレルおじさんに高木を紹介し、1998年にティレルからF1デビューし、通年参戦した。


しかし、ティレルはBATに売却されてBARとなったため、高木はそれによってシートを失い、トム・ウォーキンショーに持参金を払って翌1999年はアロウズから通年参戦したが、資金が底を尽きたため、その年を持ってF1から撤退した。


2000年はフォーミュラ・ニッポンに戻って10戦8勝と、力の違いをまざまざと見せつけてチャンピオンになった。


この年中嶋さんのチーム成績は、高木が8勝、高木がリタイアした美祢でのレースを松田次生が勝ち、チームは10戦9勝を果たした。


この年、F1へのステップアップを目指していたのが星野一義さんの愛弟子本山哲だったが、F1から撤退した高木との力量差をまざまざと見せつけられたため、この時はF1へのステップアップを見送らざるを得なくなった。


高木は、新天地をアメリカに求めて、翌年からCART→インディ・カーのレースに参戦したが、マシンに恵まれず、2006年日本に戻った。


中嶋さん、星野さん、本山、脇阪寿一、道上、立川等にはマシン開発能力があった(ある)が、高木は速いマシンに乗ってその性能をフルに発揮する能力には長けていたものの、マシン開発能力が備わっていなかった。


F1、アメリカで上手く行かなかったのは、高木の英語力の低さと、マシン開発能力のなさが原因だったと言われる。


もっとも、高木が所属していた晩年のティレル、アロウズ、モー・ナン・レーシング自体にマシン開発能力がなく、シャシーにエンジンをマウントしただけのマシンしか用意しなかったため、ショボいマシンに高木がイライラしながら乗っていたことも事実だ。


佐藤琢磨は、アマチュア時代には日本で乗っていたものの、プロデビューと同時にヨーロッパに渡り、2001年にイギリスF3でチャンピオンとなり、ホンダの後ろ楯を得て、2002年にエディ・ジョーダン率いるジョーダンから、ジャン・アレジの後任ドライバーとしてF1デビューし、通年参戦を果たした。


佐藤琢磨がイギリスF3で活躍していた頃、覇を競っていたドライバーの1人がナレイン・カーティケヤン(ナレインは、現時点で史上唯一のインド人F1ドライバーである)で、ナレインは2002年に日本にやって来て、星野一義さん率いるインパルからフォーミュラ・ニッポンに通年参戦し、2003年もフォーミュラ・ニッポン(インパルか他のチームかは忘れたガーン)に参戦したが、1戦しただけで突如再度ヨーロッパに渡ったのだ。


佐藤琢磨を語ったら、この人のことを語らずには居られない。


佐藤琢磨がイギリスF3チャンピオンになった2001年、フランスF3チャンピオンになった福田良だ。


佐藤琢磨がホンダの後ろ楯を得てF1デビューしたのとは裏腹に、福田良は高い実力がありながらスポンサーに恵まれず、日本に戻ってきて2003年に5ZIGENからフォーミュラ・ニッポンに参戦したものの、持参金が底を尽き、途中撤退を余儀なくされた。


5ZIGEN自体、FポンからGTにシフトして行く途上だったのと、2002年にFポンやF1のBARにシャシーを供給していたレイナードが倒産して、全チームがローラにシャシー変更を余儀なくされたため、服部尚貴さんが2001年にチャンピオンになった時のマシン作りのノウハウがまったく活かせなくなり、ショボいマシンで結果を出せなかった。


佐藤琢磨に話を戻すと、2002年にジョーダンからF1デビューを果たし、日本グランプリでは6位入賞を果たしてポイントを挙げ、勝ったミハエル・シューマッハー(当時フェラーリ)そっちのけで、スタンドでウェーブが起こるほどに盛り上がり(私も、ウェーブに参加してましたニコニコ)、順風満帆と思ったのも束の間、ホンダはエンジン供給をBARだけに絞り、ジョーダンはアメリカのフォードからエンジン供給を受けることになった。


BARは、クレイグ・ポラッグがジャック・ビルヌーブを乗せるためにティレルを買収して作ったチームだし、ジャックのチームメイトはベテランのオリビエ・パニスだったため、佐藤琢磨が入り込む余地はなかった。


結局、佐藤琢磨は2003年は浪人生活を送る羽目となったが、ディヴィッド・リチャーズがBARを乗っ取ってクレイグ・ポラッグを追放したため、ホンダの後ろ楯で佐藤琢磨は2004年からBARの正ドライバーになることが決まったが、ジャック・ビルヌーブが戦意を喪失したため、前倒しで2003年の日本グランプリにスポット出場した。


2004、2005年とBARの正ドライバーを務め、2004年インディアナポリスでのアメリカグランプリでは、亜久里さんに次ぐ日本人F1ドライバー2人目の3位表彰台を獲得する活躍を見せたが、何とディヴィッド・リチャーズが、突然F1から撤退すると発表したのだショック!


BARは2006年~2008年までホンダのワークス・チームとして運営されたが、佐藤琢磨はそのシートを得ることが出来なかった。


同時に、亜久里さん念願だった自らが運営する「スーパーアグリ」が設立され、佐藤琢磨は2006年から亜久里さんのチームの正ドライバーとなった。


エンジンは、この年のレギュレーション変更に合わせてホンダが作った2400ccV8エンジンを搭載したものの、シャシーは2002年に資金難で消滅したアロウズが作ったものを転用したため、何と4年落ちのマシンで戦う羽目となった。


無論、テールエンダーの常連となり、井出有治のスーパーAライセンス剥奪、テストドライバーだったフランク・モンタニーの正ドライバー登用、山本左近が多額の資金を持参したため急遽山本を起用と、チームがドタバタする中、佐藤琢磨はひたすら頑張った。


スーパーアグリは慢性的な資金難で、マシンの開発はほとんど進むことがなく、ショボいマシンで2006年~2008年途中撤退までの間、走り続けた。


スーパーアグリの撤退理由は資金難だけでなく、2009年からのコンコルド協定変更で、いわゆるワークスのセカンドチームが認められなくなり、各チームがコンストラクターとして独立しなければならなくなったため、スーパーアグリにそのような力がないのは明白であり、FIAからそれとなく撤退するよう「圧力」がかかったようだ。


その後にリーマンショックが起こり、ホンダのワークス・チームまでが撤退するとは、この時は想像もしなかった。


佐藤琢磨は、2009年のトロロッソのシート獲得を目指してテストを受けたが不採用(元CARTドライバーのセバスチャン・ブーデと、ルーキーのセバスチャン・ビューエミを採用)となり、この年は浪人生活を送り、F1に入り込む余地を見出だせなくなったため、新天地をアメリカに求め、インディー・カー・シリーズに2010年から参戦している。


この時のテストで佐藤琢磨と共に不採用になったのが、現在ロータスのドライバーのロマン・グロージャンだったのだ。


2009年のコンコルド協定の変更を受けて、レッドブルのオーナーであるデートリッヒ・マテシッツは、一時期トロロッソの株を売却したのだが、その後再びトロロッソの株を買い戻し、事実上レッドブルのセカンドチームになっている。