通年参戦したのは、下記のドライバー達。


中嶋悟
1987~1989:ロータス
1990、1991:ティレル


中嶋さんのチームメイト、すごい人ばっかりやったよ。


1987:アイルトン・セナ
1988、1989:ネルソン・ピケ
1990:ジャン・アレジ
1991:ステファノ・モデナ


中嶋さんが、F1に参戦し始めた時の年齢は34歳。


中嶋さんが引退を決意したのは、運動能力と動体視力の衰えらしい。


最後のチームメイトはイタリア人の超イケメンドライバー、ステファノ・モデナだったが、前年同じマシンでイタリア系フランス人ドライバーのジャン・アレジがアイルトン・セナを突っつき回すのを見て「オレもああ言うことが出来ないと…」と、自分の身の引き方を考えた時期があったとか。


せめて5年、F1デビューが早かったらなぁ…。


しかし、ケン・ティレルおじさんの中嶋さんの評価は、すごく高かったのよ。


ジャン・アレジが思う存分レースで暴れられたのは、中嶋さんが高い戦闘力を持つマシンに仕上げたことに他ならなかったからだと。


タイヤの皮剥きなど、マシンテストの準備等、地味な仕事を黙々とこなす中嶋さんの姿を、ケン・ティレルおじさんはちゃんと見ていたのでした。


鈴木亜久里
1989:ザクスピード
1990、1991:ラルース
1992、1993:アロウズ
1995:リジェ


1989年は、すべてPQ落ちしょぼん


アロウズでのチームメイトは、フランス系カナダ人ドライバーのジル・ビルヌーブ(ジャック・ジルヌーブの父)の死後エンツォ・フェラーリから直々に誘われた最後のイタリア人ドライバーとなったミケーレ・アルボレートだったし、リジェでのチームメイトは、日本のレースファンに馴染み深いフランス人ドライバー、オリビエ・パニスだった。


また、1995年はマーティン・ブランドルとシェアなので、厳密にはこの年は通年ではない。


チームオーナーのギ・リジェさんが無限のエンジン欲しさに、亜久里さんを半分だけ参戦させたに過ぎず、評価はマーティン・ブランドルの方が高かったのだ。


マーティン・ブランドルはイギリス人ドライバーで、イギリスF3でアイルトン・セナと覇を競ったドライバーだったこともあり、アンチアイルトン・セナの人から絶大な人気があったが、F1では結局未勝利に終わった。


ブランドルは、1990年のブラバムを最後に一時F1から撤退して、スポーツカーレースに出場していたが、この年F1にカムバックし、ギ・リジェさんから「アグリと半々だ。」と説明を受けていたらしい。


ところが亜久里さんには、そのような説明がなかった(わざとしなかった?)らしい。


ギ・リジェさんは政治力を使っていろんなことをやった、フラビオ・ブリアトーレやエディ・ジョーダン同様、狡猾な人やったんよ。


実際、亜久里さんは通年参戦だと思っていたらしい。


亜久里さんの最後のF1出場は、1995年の日本グランプリだったが、予選でクラッシュして負傷し、決勝に出場出来なくなったと言う、悲劇的な最後やったしょぼん


片山右京
1992:ラルース
1993~1996:ティレル
1997:ミナルディ


「カミカゼウキョウ」と呼ばれた右京ちゃん。


6年間のF1ドライバー生活で、そのカミカゼぶりが年々薄れて行ったからねしょぼん


1995年、ティレルは無限のエンジンを得て、アラン・プロストから「今年の注目ドライバーは、ウキョウカタヤマだ!!」とまで言われたが、如何せん無限のV10エンジンは重く、ティレルが開発したシャシーとミスマッチを生じ、乗りにくいマシンになってしまったし、この時のチームメイトだった日本でもお馴染みのイタリア人ドライバー、ミカ・サロ中心にチームが移行して、右京ちゃんの居場所がだんだんとなくなって行ったからねしょぼん


井上隆智穂
1995:アロウズ


中野信治
1997:プロスト
1998:ミナルディ


高木虎之介
1998:ティレル
1999:アロウズ


佐藤琢磨
2002:ジョーダン
2004、2005:BAR
2006~撤退:スーパーアグリ


中嶋一貴
2008、2009:ウイリアムズ


父の悟さんが「F1デビューがもう少し早かったなら。」と思ったのに対し、息子の一貴は「あまりにも、F1デビューが早過ぎた。」と思った。


DCことディヴィッド・クルサードは「中嶋はあと1年、GP2に留まるべきだった。」と述べていた。


一貴はトヨタ肝いりのドライバーで、当時ウイリアムズがトヨタからエンジン供給を受けていたこともあり、その後ろ楯でウイリアムズからF1にデビューしたのだ。


しかし、トヨタはリーマンショックによる急激な業績悪化を理由にF1から全面撤退し、ウイリアムズへのエンジン供給も中止しため、後ろ楯を失った一貴は結局F1のシートを失い、1年の浪人を経て日本に戻らざるを得なくなったのだしょぼん


小林可夢偉
2010~:ザウバー


また、通年参戦を目指したものの叶わなかったのはしょぼん


野田英樹
1995:シムテック


(理由)
阪神淡路大震災によりメインスポンサーが撤退し、資金調達が困難になったため


1994年に、ラルースからスポットで3戦出場し、意気上がったところやったからねしょぼん


野田さんは大阪出身やから、期待してたけどしょぼん


シムテック自体、1995年シーズン途中に資金難で撤退を余儀なくされたから、野田さんの資金があったらなぁと言うチームだったしょぼん


井出有治
2006:スーパーアグリ


(理由)
運転技能未熟として、FIAからスーパーAライセンスを剥奪された。


開幕戦本番まで、一度もマシンに乗れなかったんやからしょぼん


ぶっつけで慣れないパドルシフトのマシン乗れなんて、滅茶苦茶しょぼん


イモラでは、他のマシンをクラッシュさせた原因者にまつり上げられたししょぼん


後に、単なるレーシング・アクシデントであると判明しながら、ライセンスを剥奪されたんやから、可哀想過ぎるでしょぼん


日本人で、最初にF1グランプリに参戦した日本人ドライバーは現童夢社長?の鮒子田寛さんで、1975年にマキ・フォードのマシンでイギリスグランプリとオランダグランプリに出場した。


1976年のF1世界選手権イン・ジャパンには、星野一義さん(ヒーローズレーシング)、長谷見昌弘さん(コジマ)、高原敬武さん(サーティース)が、1977年には高橋国光さん(ティレル)がスポット出場した。


亜久里さんは、1988年にラルースの前身であるローラから、レギュラーのヤニック・ダルマスに代わって日本グランプリにスポット出場したが、実質的にこの頃からオーナーになっていた伊東和夫さんの意向による説と、ヤニック・ダルマスが耳の病気で出場不可能になったため、急遽亜久里さんが乗ることになった説がある。


亜久里さんは、この年のフジテレビのF1日本グランプリの放送でゲスト解説を務める予定だったが、急遽出場が決定したため、バタバタだったことを思い出した。


おそらく、後者の説が真実に近いのだろう。


服部尚貴さんは、1991年コローニから日本グランプリとオーストラリアグランプリにスポット出場したものの、いずれもPQ落ちを喫し、決勝レースには出場出来なかった。


鈴木利男さんは、1993年にラルースから日本グランプリとオーストラリアグランプリにスポット出場し、予選を通過して決勝レースに出場した。


井上隆智穂は、1994年にイモラの予選で事故死したローランド・ラッツェンバーガーの代役として、シムテックからスポットで日本グランプリに出場し、予選を通過して決勝レースに出場した。


2003年の日本グランプリでは、フランス系カナダ人ドライバーのジャック・ビルヌーブの代役として、佐藤琢磨がBARからスポット参戦した。


BARは、British American Tobaccoが1998年にケン・ティレルおじさんからティレルを買収し、ジャック・ビルヌーブのマネージャーだったクレイグ・ポラッグがトップとなって、1999年にBritish American Racing (頭文字を取ってBARと呼ばれる)としてスタートしたチームだったが、2003年にディヴィッド・リチャーズがチームを乗っ取り、クレイグ・ポラッグは追放された。


ジャック・ビルヌーブは、事実上その時点で次年のシートを失うことが決まったも同然となり、日本での最終戦前にはすっかり戦意を喪失していたので、翌年からシートを獲得することが決まっていた佐藤琢磨が、前倒しでスポット出場したのだった。


山本左近は、潤沢な資金を後ろ楯にして、ドライバーとして大した実績はなかったが、F1のシートを得ることが出来た。


2006年はスーパーアグリから、2007年はスパイカーから数戦ずつ出場し、2010年にはブルーノ・セナ、クリスチャン・クリエンとシェアして、ヒスパニアから出場した。


右京ちゃん、野田さん、中野さん(中野さんも大阪出身やから、応援してたんよ)に、井上隆智穂や山本左近並の資金力があったら、ドライバー人生変わったやろうにしょぼん


幻の表彰台獲得となった?のが、1990年の日本グランプリでの星野一義さん。


日本グランプリを目前にして、前年の覇者アレッサンドロ・ナニーニ(ベネトン)が自家用ヘリコプターの墜落事故で腕と手を切断する大ケガをし、出場が不可能になってしまったのだ。


当時ベネトンのトップだったフラビオ・ブリアトーレは、星野さんに「2000万円払って、ウチのマシンに乗らないか」と勧誘したが、星野さんは持論である「プロのレーシングドライバーは、お金をもらって乗るもの。如何にF1と言えども、お金を払ってまでは乗らない。」と言い、このオファーを蹴ったのだ。


この年は、オープニング・ラップの1コーナー手前で、アラン・プロスト(当時フェラーリ)とアイルトン・セナ(当時マクラーレン)のマシンが接触して両車コースアウトしてリタイアし、その瞬間にアイルトン・セナのチャンピオン獲得が決まったが、このレースを勝ったのがネルソン・ピケ(当時ベネトン)で、2位が星野さんのさらなる代役で選ばれたブラジル人ドライバーのロベルト・モレノ(ベネトン)、3位が亜久里さん(ラルース)だった。


ロベルト・モレノは母国の英雄、ネルソン・ピケと同じマシンに乗って同じ表彰台に立ったことに感極まって号泣し、亜久里さんはインタビューで「去年はレースに一度も出られなかったのだから、表彰台獲得なんて夢のようだ!!」と述べた。


一方、星野さんは現役引退に際し「2輪→4輪とレース人生を歩んだ中で、後悔したことは数多くあったが、一番の後悔はフラビオのオファーを蹴ったことだ。亜久里が3位だったから、オレがお金を払ってベネトンのマシンに乗ったなら、勝ったかも知れんからな(笑)スポット出場でF1を勝っていたら、オレが払ったお金以上の報酬をもらえただろうし、オレのレース人生が変わったかも知れんからな(爆)」