1988年の優勝ドライバーは、この年マクラーレンに移籍したアイルトン・セナだった。
日本に空前のF1ブームをもたらしたのは、間違いなくアイルトン・セナだったが、この日本グランプリでのアイルトン・セナのホーム・ストレートでのオーバーテイク・シーンが、日本のレースファンに強烈なインパクトを与えたのだった。
ピット・レーン出口付近で、インからアラン・プロストのマシンをオーバーテイクすると言う、オーバーテイクはアウトまたはコーナーのクロスラインからと言う定説を覆すシーンを目の当たりにした日本のレースファンの多くが、アイルトン・セナの虜になったのは言うまでもなく、アラン・プロストはこのオーバーテイクをしたセナを「テロリスト」呼ばわりしたのだった。
1988年、セナは自らが望んでマクラーレンに移籍したのではなかった。
何と、母国ブラジルのライバル・ドライバーだったネルソン・ピケが、自分のシートであったロータスのシートを獲得したため、アイルトン・セナはホンダの桜井さんに泣きつき、マクラーレンから出場せざるを得なくなったのだ。
前年の1987年、チャンピオン・ドライバーのタイトルを獲得したのは、ホンダがV6ターボエンジンを供給していた、ウイリアムズのネルソン・ピケだった。
しかし、ピケはウイリアムズでの待遇に不満を抱いていた。
ウイリアムズは、母国のイギリス人ドライバーであるナイジェル・マンセルを重用していたのだ。
しかし、ホンダはマシン開発力に優れていた、ネルソン・ピケを重用していた。
ホンダがウイリアムズへのエンジン供給をやめ、翌年ロータスとマクラーレンにエンジンを供給することは1987年中に発表されていたため、ロータスかマクラーレンへの移籍をホンダがネルソン・ピケに促したと思われるし、マシン開発力に優れたネルソン・ピケをホンダが残そうとしたのも当然だろう。
しかし、アラン・プロストのいるマクラーレンに移籍したら、自分の好きなように出来ないのは明白だったのと、ライバルだったアイルトン・セナにダメージを与えるために、ロータスを選択したようだ。
ロータスは中島悟さんの残留を決めていたので、当然チャンピオン・ドライバーであるネルソン・ピケを中心に、1988年は動いて行った。
マクラーレンの当初の1988年態勢は、No.1ドライバーがアラン・プロスト、No.2ドライバーがステファン・ヨハンソンと、前年と同じ態勢で臨む予定だったが、ドライバーとしてのポテンシャルがアイルトン・セナがステファン・ヨハンソンより高いのは明らかだったので、ロン・デニスはアイルトン・セナ起用に踏み切った。
しかし、No.1、No.2の立場を明確に設定せず、ジョイントNo.1として互いを競わせたことが、後に悲劇的な確執を生むことは、この時は知る由もなかった。
1988年、マクラーレンはブラバムのデザイナーだったゴードン・マーレイを迎え、当時最高傑作と言われた伝説のシャシー「MP4/4」を作り出した。
閑話休題。
F1界きってのアイディアマンと呼ばれた、ゴードン・マーレイについて触れてみよう。
1978年、やはりF1界きってのアイディアマンとして知られていた、ロータスの創始者コーリン・チャップマンは、シャシーの底部全体の空気の流れでダウンフォースを得る(飛行機と逆の原理)ヴェンチュリー・カー(ウィング・カー、グラウンド・エフェクト・カーとも呼ばれた)なる画期的な思想のシャシーを製作して実戦投入し、好成績を収めたため、ほとんどのチームが後にこれを真似たシャシーを製作した。
これに対し、当時ブラバムのトップだったバーニー・エクレストンとデザイナーのゴードン・マーレイは、コーリン・チャップマンの真似をするのは面白くないし、癪にさわったので、マシン後部にファン(プロペラ)を搭載してダウンフォースを得ようと考え、実際に製作して実戦に投入した。
しかし、このファンのついたブラバムのマシンの後ろを走っていたマシンは、ことごとくファンが巻き上げた砂塵やデブリが吸気口から入り込んでエンジンがオーバーヒートするトラブルに見舞われたため、当然のようにクレームをつけた。
かくして、ファン・カーはたった1戦で使用禁止命令が下され、後にゴードン・マーレイ流のヴェンチュリー・カーを作った。
このヴェンチュリー・カーは、あまりにも強力なダウンフォースが出るため、サスペンションなどあってないようなものだったらしく、ドライバーへの身体の負担は相当なものだったようだ。
1980年にウイリアムズに初のチャンピオン・タイトルをもたらすと共に、ブラバムの創始者ジャック・ブラバムに次ぐ2人目のオーストラリア人のF1チャンピオン・ドライバーとなったアラン・ジョーンズは「こんなものに乗ってたら、身体がいくつあっても足りない。」と言い放ち、1981年シーズン終了後、一度F1から撤退したのだった。
1983年シーズン開始前になって、突然「今年から、ヴェンチュリー・カーは使用禁止!!」と言う通達が出たため、エントリーしていたチームは大慌てでレギューレーションに合わせたシャシー作りをせざるを得なくなり、第1戦までに製作が間に合わなかったチームもあったのだ。
ゴードン・マーレイは、今では当たり前の「ピット・ストップ作戦」を考案して、最初に実行した人でもある。
当時はガソリンを満タンに積み、タイヤを交換せずに走り切るのが「常識」で、ピットイン=戦線離脱を意味するものだった。
ゴードン・マーレイは、タンクに半分だけ燃料を積んで軽い状態で速く走ってマージンを築き、一度ピットインしてまた半分の燃料を補給して、タイヤも新しいものに交換したら、ピットインしてる間に抜かれたマシンを再び抜き返して、勝てると言う「仮説」を立てたのだ。
1982年のブラバムのドライバーは、前年のチャンピオン・ドライバーのネルソン・ピケと、若手のイタリア人ドライバー、リカルド・パトレーゼの陣容だったが、新しいものが好きなネルソン・ピケにはシーズン途中から実戦投入された、ドイツのBMW製の直列4気筒ターボエンジンを搭載したマシンBT50、リカルド・パトレーゼには従来のアメリカのフォード傘下のコスワース製の自然吸気エンジンDFVを搭載したマシンBT49で参戦させ、このピット・ストップ作戦も、初めはドライバーとしてのポテンシャルが高いネルソン・ピケのみが実行した。
しかし、ピット・ストップ作戦を実行する前にマシンがトラブルを起こす(ターボ・ブロー、エンジン・ブローが大半)等で、シーズン半ばになって、やっと実行出来たのだった。
ホッケンハイムリンクでの西ドイツグランプリでは、ピット作戦を実行しようとした直前、ネルソン・ピケのマシンとATSのエリセオ・サラザールのマシンがシケインで交錯し、両マシンがクラッシュしてリタイアした。
これに立腹したネルソン・ピケがエリセオ・サラザールを殴ると言う、前代未聞の事件が起きたのだ。
エリセオ・サラザールは、現時点で唯一のチリ人F1ドライバーで、F1ではこれと言った成績は残せなかったが、ネルソン・ピケに殴られたドライバーとして歴史に残る、何とも悲しい存在のドライバーだ。
さて、1988年のマクラーレンは、ゴードン・マーレイが設計したMP4/4シャシーと、ホンダのV6ターボエンジンがマッチしたのと、アラン・プロストとアイルトン・セナと言う、F1の歴史に残る両ドライバーの活躍により、全16戦で15勝を挙げる不滅の大記録を達成したが、唯一勝てなかったのが、モンツァでのイタリアグランプリだった。
このレースでは、アラン・プロストがマシントラブルで早々にリタイアし、一方のアイルトン・セナは快調にトップを独走していたが、バックマーカーだったウイリアムズのジャン・ルイ・シュレッサーのマシンをシケインで抜こうとした時に両マシンが交錯し、セナのマシンは底部が縁石の中心部に乗り上げてタイヤが地面に接地しなくなり、リタイアを余儀なくされたのだ。
このイタリアグランプリを勝ったのが、フェラーリのゲルハルト・ベルガーだった。
ジャン・ルイ・シュレッサーは、クラッシュして負傷したナイジェル・マンセルの代役として出場したドライバーで、1983年にも代役出場したものの、この時は予選落ちして決勝レースに出られなかったため、初のF1決勝レース出場で、また彼にとって唯一のF1グランプリ出場となった。
ジャン・ルイ・シュレッサーは、パリ・ダカール・ラリーで活躍したドライバーとしての方が、馴染みが深いドライバーだろう。
一方ロータスは、1982年末に他界した創始者コーリン・チャップマン流のマシン作りから脱却出来ず、時代の流れから取り残されて、ホンダの高いポテンシャルを誇るエンジン性能を活かすシャシーを開発出来なかったため、この年未勝利に終わった。
ピーター・ウォーは、ホンダに対して「本当に、マクラーレンと同じエンジンなのか。」と、ホンダを疑う内容の発言をしたようだ。
実は、アラン・プロストも「アイルトン・セナにだけ、いいエンジンを与えているのではないか?」と、ホンダを疑っていたのだった。
当時のホンダは、F1用のターボエンジン作りには絶対の自信を持っていたので、逆にシャシーやドライバーに合わせたエンジン作りはしてなかったはずだ。
ロータスのシャシー、プロストのドライブ・フィーリングに合っていなかったとしても、ホンダがそれに合わせることはしなかっただろうし、両チーム&全ドライバーにまったく同じエンジンを供給していただろうから、ホンダのエンジンのポテンシャルを最大限に発揮したのが、アイルトン・セナだったと言えよう。
無論、コース特性に合わせては、アジャストしていたが…。
日本に空前のF1ブームをもたらしたのは、間違いなくアイルトン・セナだったが、この日本グランプリでのアイルトン・セナのホーム・ストレートでのオーバーテイク・シーンが、日本のレースファンに強烈なインパクトを与えたのだった。
ピット・レーン出口付近で、インからアラン・プロストのマシンをオーバーテイクすると言う、オーバーテイクはアウトまたはコーナーのクロスラインからと言う定説を覆すシーンを目の当たりにした日本のレースファンの多くが、アイルトン・セナの虜になったのは言うまでもなく、アラン・プロストはこのオーバーテイクをしたセナを「テロリスト」呼ばわりしたのだった。
1988年、セナは自らが望んでマクラーレンに移籍したのではなかった。
何と、母国ブラジルのライバル・ドライバーだったネルソン・ピケが、自分のシートであったロータスのシートを獲得したため、アイルトン・セナはホンダの桜井さんに泣きつき、マクラーレンから出場せざるを得なくなったのだ。
前年の1987年、チャンピオン・ドライバーのタイトルを獲得したのは、ホンダがV6ターボエンジンを供給していた、ウイリアムズのネルソン・ピケだった。
しかし、ピケはウイリアムズでの待遇に不満を抱いていた。
ウイリアムズは、母国のイギリス人ドライバーであるナイジェル・マンセルを重用していたのだ。
しかし、ホンダはマシン開発力に優れていた、ネルソン・ピケを重用していた。
ホンダがウイリアムズへのエンジン供給をやめ、翌年ロータスとマクラーレンにエンジンを供給することは1987年中に発表されていたため、ロータスかマクラーレンへの移籍をホンダがネルソン・ピケに促したと思われるし、マシン開発力に優れたネルソン・ピケをホンダが残そうとしたのも当然だろう。
しかし、アラン・プロストのいるマクラーレンに移籍したら、自分の好きなように出来ないのは明白だったのと、ライバルだったアイルトン・セナにダメージを与えるために、ロータスを選択したようだ。
ロータスは中島悟さんの残留を決めていたので、当然チャンピオン・ドライバーであるネルソン・ピケを中心に、1988年は動いて行った。
マクラーレンの当初の1988年態勢は、No.1ドライバーがアラン・プロスト、No.2ドライバーがステファン・ヨハンソンと、前年と同じ態勢で臨む予定だったが、ドライバーとしてのポテンシャルがアイルトン・セナがステファン・ヨハンソンより高いのは明らかだったので、ロン・デニスはアイルトン・セナ起用に踏み切った。
しかし、No.1、No.2の立場を明確に設定せず、ジョイントNo.1として互いを競わせたことが、後に悲劇的な確執を生むことは、この時は知る由もなかった。
1988年、マクラーレンはブラバムのデザイナーだったゴードン・マーレイを迎え、当時最高傑作と言われた伝説のシャシー「MP4/4」を作り出した。
閑話休題。
F1界きってのアイディアマンと呼ばれた、ゴードン・マーレイについて触れてみよう。
1978年、やはりF1界きってのアイディアマンとして知られていた、ロータスの創始者コーリン・チャップマンは、シャシーの底部全体の空気の流れでダウンフォースを得る(飛行機と逆の原理)ヴェンチュリー・カー(ウィング・カー、グラウンド・エフェクト・カーとも呼ばれた)なる画期的な思想のシャシーを製作して実戦投入し、好成績を収めたため、ほとんどのチームが後にこれを真似たシャシーを製作した。
これに対し、当時ブラバムのトップだったバーニー・エクレストンとデザイナーのゴードン・マーレイは、コーリン・チャップマンの真似をするのは面白くないし、癪にさわったので、マシン後部にファン(プロペラ)を搭載してダウンフォースを得ようと考え、実際に製作して実戦に投入した。
しかし、このファンのついたブラバムのマシンの後ろを走っていたマシンは、ことごとくファンが巻き上げた砂塵やデブリが吸気口から入り込んでエンジンがオーバーヒートするトラブルに見舞われたため、当然のようにクレームをつけた。
かくして、ファン・カーはたった1戦で使用禁止命令が下され、後にゴードン・マーレイ流のヴェンチュリー・カーを作った。
このヴェンチュリー・カーは、あまりにも強力なダウンフォースが出るため、サスペンションなどあってないようなものだったらしく、ドライバーへの身体の負担は相当なものだったようだ。
1980年にウイリアムズに初のチャンピオン・タイトルをもたらすと共に、ブラバムの創始者ジャック・ブラバムに次ぐ2人目のオーストラリア人のF1チャンピオン・ドライバーとなったアラン・ジョーンズは「こんなものに乗ってたら、身体がいくつあっても足りない。」と言い放ち、1981年シーズン終了後、一度F1から撤退したのだった。
1983年シーズン開始前になって、突然「今年から、ヴェンチュリー・カーは使用禁止!!」と言う通達が出たため、エントリーしていたチームは大慌てでレギューレーションに合わせたシャシー作りをせざるを得なくなり、第1戦までに製作が間に合わなかったチームもあったのだ。
ゴードン・マーレイは、今では当たり前の「ピット・ストップ作戦」を考案して、最初に実行した人でもある。
当時はガソリンを満タンに積み、タイヤを交換せずに走り切るのが「常識」で、ピットイン=戦線離脱を意味するものだった。
ゴードン・マーレイは、タンクに半分だけ燃料を積んで軽い状態で速く走ってマージンを築き、一度ピットインしてまた半分の燃料を補給して、タイヤも新しいものに交換したら、ピットインしてる間に抜かれたマシンを再び抜き返して、勝てると言う「仮説」を立てたのだ。
1982年のブラバムのドライバーは、前年のチャンピオン・ドライバーのネルソン・ピケと、若手のイタリア人ドライバー、リカルド・パトレーゼの陣容だったが、新しいものが好きなネルソン・ピケにはシーズン途中から実戦投入された、ドイツのBMW製の直列4気筒ターボエンジンを搭載したマシンBT50、リカルド・パトレーゼには従来のアメリカのフォード傘下のコスワース製の自然吸気エンジンDFVを搭載したマシンBT49で参戦させ、このピット・ストップ作戦も、初めはドライバーとしてのポテンシャルが高いネルソン・ピケのみが実行した。
しかし、ピット・ストップ作戦を実行する前にマシンがトラブルを起こす(ターボ・ブロー、エンジン・ブローが大半)等で、シーズン半ばになって、やっと実行出来たのだった。
ホッケンハイムリンクでの西ドイツグランプリでは、ピット作戦を実行しようとした直前、ネルソン・ピケのマシンとATSのエリセオ・サラザールのマシンがシケインで交錯し、両マシンがクラッシュしてリタイアした。
これに立腹したネルソン・ピケがエリセオ・サラザールを殴ると言う、前代未聞の事件が起きたのだ。
エリセオ・サラザールは、現時点で唯一のチリ人F1ドライバーで、F1ではこれと言った成績は残せなかったが、ネルソン・ピケに殴られたドライバーとして歴史に残る、何とも悲しい存在のドライバーだ。
さて、1988年のマクラーレンは、ゴードン・マーレイが設計したMP4/4シャシーと、ホンダのV6ターボエンジンがマッチしたのと、アラン・プロストとアイルトン・セナと言う、F1の歴史に残る両ドライバーの活躍により、全16戦で15勝を挙げる不滅の大記録を達成したが、唯一勝てなかったのが、モンツァでのイタリアグランプリだった。
このレースでは、アラン・プロストがマシントラブルで早々にリタイアし、一方のアイルトン・セナは快調にトップを独走していたが、バックマーカーだったウイリアムズのジャン・ルイ・シュレッサーのマシンをシケインで抜こうとした時に両マシンが交錯し、セナのマシンは底部が縁石の中心部に乗り上げてタイヤが地面に接地しなくなり、リタイアを余儀なくされたのだ。
このイタリアグランプリを勝ったのが、フェラーリのゲルハルト・ベルガーだった。
ジャン・ルイ・シュレッサーは、クラッシュして負傷したナイジェル・マンセルの代役として出場したドライバーで、1983年にも代役出場したものの、この時は予選落ちして決勝レースに出られなかったため、初のF1決勝レース出場で、また彼にとって唯一のF1グランプリ出場となった。
ジャン・ルイ・シュレッサーは、パリ・ダカール・ラリーで活躍したドライバーとしての方が、馴染みが深いドライバーだろう。
一方ロータスは、1982年末に他界した創始者コーリン・チャップマン流のマシン作りから脱却出来ず、時代の流れから取り残されて、ホンダの高いポテンシャルを誇るエンジン性能を活かすシャシーを開発出来なかったため、この年未勝利に終わった。
ピーター・ウォーは、ホンダに対して「本当に、マクラーレンと同じエンジンなのか。」と、ホンダを疑う内容の発言をしたようだ。
実は、アラン・プロストも「アイルトン・セナにだけ、いいエンジンを与えているのではないか?」と、ホンダを疑っていたのだった。
当時のホンダは、F1用のターボエンジン作りには絶対の自信を持っていたので、逆にシャシーやドライバーに合わせたエンジン作りはしてなかったはずだ。
ロータスのシャシー、プロストのドライブ・フィーリングに合っていなかったとしても、ホンダがそれに合わせることはしなかっただろうし、両チーム&全ドライバーにまったく同じエンジンを供給していただろうから、ホンダのエンジンのポテンシャルを最大限に発揮したのが、アイルトン・セナだったと言えよう。
無論、コース特性に合わせては、アジャストしていたが…。