今日&明日と、今夏最初の休みニコニコ


8月前半は通院以外で休みが取れないので、くつろげる時間がないのだしょぼん


明日、今年初の海波に行く予定ニコニコ


今日より明日の方が、さらに暑く晴れショック!あせるなるようなので、海波に行くにはピッタリニコニコ


F1ドイツグランプリを先程リプレイで見たが、勝ったフェルナンド・アロンソ(フェラーリ)、暫定2位のセバスチャン・フェテル(レッドブル)、暫定3位のジェンソン・バトン(マクラーレン)(暫定なのは、残り2周のラップでセバスチャン・フェテルがジェンソン・バトンをオーバーテイクした時、コースの外にマシンがはみ出ていたかどうかが審議対象になっており、結果如何では順位変更の可能性もあるのだ。ちなみに、どのレースカテゴリーにおいても、コースの外にはみ出て前のマシンをオーバーテイクしてはならず、過去にコースの外にはみ出てオーバーテイクしたと判断されて、順位を下げられたりする等のペナルティを食らったらドライバー、ライダーがいたのだ。)を、表彰台でインタビューしたのが、1970年代後半にはフェラーリ→ブラバムでチャンピオンになり、一度は現役を引退しながら、ロン・デニスに現役復帰を持ちかけられてマクラーレンで1982年~85年の4年間走り、1975年(フェラーリ)、1977年(フェラーリ)、1978年(ブラバム)、1984年(マクラーレン)と、合計4回年間チャンピオンになった往年の名ドライバー、ニキ・ラウダだった。


ニキ・ラウダは1978年のブラバム在籍時、後の1981年、1983年にブラバムで、1987年にはウィリアムズでチャンピオンになったネルソン・ピケに、1983年~85年にかけては、通算51勝を挙げて、ジャッキー・スチュワートが持っていた、F1通算最多の27勝を最初に抜いたアラン・プロストに帝王学を授け、1984年にハーフポイント差でチャンピオンに輝いた時、そのハーフポイントに泣いたアラン・プロストに「次は、君の時代だよ!!」と諭し、翌1985年にプロストがチャンピオンになったのを見届けて、本当に引退した。


ニキ・ラウダは1976年のニュルブルクリンク(当時は1周22km以上あり、1周のラップタイムが7分を越える、長大コースで開催されていた)でのドイツグランプリにフェラーリのマシンで参戦中、クラッシュしてマシンが炎上し、全身に大火傷を負い生命が危ぶまれた。


だが、奇跡的に生命を留めただけでなく、その年のモンツァでのイタリアグランプリで復帰したのだった。


この年、ラウダは初めて日本で開催されたF1@富士にも参戦したが、雨がひどかったためレースを途中で棄権してしまった。


これが、コンメンダトーレと呼ばれたフェラーリの創始者エンツォ・フェラーリの逆鱗に触れたのだが、ラウダは「チャンピオンタイトルより、大切なものがある(もちろん、命のことだ)。」と反論したとか。


結局、雨の富士でのレースを制したジェームス・ハントが、年間タイトルを獲得したのだった。


翌1977年、ラウダは早々に年間チャンピオンのタイトルを決めたのと、1978年からブラバムに移籍することが決まっていたので、富士とオーストラリア@アデレードでのレースに出場しなかったので、日本のファンはラウダの走りをほとんど見ることが出来なかったのだ。


マクラーレンで復帰した80年代のラウダの映像を見ると、火傷の後遺症で顔面の皮膚がケロイド状になっていたが、それからでも30年近く経ったためか、ケロイドはほとんど目立たなくなっていた。


CS放送のチャンネルNECOで、太田哲也元選手のドキュメント映画「クラッシュ」が放映されていた。


この映画は過去に何度も見たが、太田哲也元選手は1998年に富士で行われた全日本GT選手権(SUPER GTの前身)で発生した多重クラッシュに巻き込まれて乗っていたフェラーリが炎上、全身に大火傷を負った。


医師は「72時間持つか持たないか…」と宣告したが、奇跡的に10日後に意識が回復し、2年に及ぶ治療を経て、社会復帰を果たした。


太田哲也元選手は主催者を相手取って民事裁判を起こしたが、過去の判例では「レースには、命の危険を承知の上で出場しており、それによる事故は裁判の対象にならない。」と、ことごとく門前払いにされたのだった。


しかし、太田元選手は過去の判例は公序良俗に反するし、レースを安全にやる方法はいくらでもあるとの持論を展開して、全面勝訴を勝ち取った。


この裁判のニュースは、NHKのお昼のニュースでも報道される、異例の取り扱いとなった。


また、ただただ泣き寝入りを強いられていたドライバー、ライダーの地位の保全に関して、画期的な判例となったのだ。


その後、太田元選手と主催者とが和解し、裁判が終わったことを契機にこの映画が制作され、上映された。


近年のレースでは、マシンが炎上する事故は減ったが、なくなったわけではない。


1989年、イモラで行われたサンマリノグランプリで起きた、当時フェラーリから参戦していたゲルハルト・ベルガーがタンブレロでクラッシュしてマシンが炎上した事故も、ベルガーが大した火傷やケガを負わなかったからよかったものの、20年以上経った当時の映像を今見ても、ゾッとする。


1978年のモンツァでのイタリアグランプリで、ロニー・ピーターソン(当時のロータス)が多重クラッシュに巻き込まれてマシンが炎上し、亡くなった悲惨な事故例も知っている。


ニキ・ラウダの元気な姿を見て、過去に起きた悲惨なマシン炎上事故のことを思い出した。


F1においては、1994年のイモラでのサンマリノグランプリにおいて、シムテックのローランド・ラッツェンバーガーが予選中の事故で、ウィリアムズのアイルトン・セナがレース中の事故で亡くなって以来、死亡事故は発生していないが、この1994年は事故で重傷を負ったドライバーが数多く出たし、シムテックはもう1人のドライバーもレース中の事故で負傷して、その補償で資金難に陥り、結局撤退に追い込まれたのだ。


アメリカのインディカーのレースでは、ポール・ダナが予選中の事故で亡くなったし、名ドライバーだったケニー・ブラックは事故の後遺症で引退を余儀なくされたし、ジル・ド・フェランは度重なる事故でのケガで、ドライバーを続けられなくなったのだ。