1992年の宝塚記念と有馬記念を制したメジロパーマー馬が、心臓麻痺のため昇天したようですねしょぼん


宝塚記念を勝ったにも関わらず、逃げ馬の悲しさで頭あってヒモなしの典型だったため、有馬記念では15番人気とブービー人気の低評価だったが、それを嘲笑うかのように逃げ切り、ゴール前のレガシーワールド馬の猛追をハナ差交わして勝った。


メジロパーマー馬は三冠馬ナリタブライアン馬を管理した大久保正陽調教師が管理し、山田泰誠騎手が騎乗して宝塚記念と有馬記念を勝ったが、山田泰誠騎手のG1勝ちは、結局この2レースだけだった。


メジロパーマー馬は、メジロマックイーン馬、メジロライアン馬と同じ年で、マックイーンはアメリカの映画俳優スティーヴ・マックイーン、ライアンは米大リーグで初めて100miles/h以上の速球を投げた名投手ノーラン・ライアン、パーマーはアメリカの名ゴルファーだったアーノルド・パーマーと、アメリカの有名人から名付けられた馬だった。


メジロパーマー馬は大久保調教師が馬のトモ(後肢)を鍛えるために障害レースに出走させ、そして勝ったことがある、異色の平地G1馬だった。


また、1985年のダービー馬シリウスシンボリ馬が、老衰のため昇天したようですねしょぼん


シリウスシンボリ馬は二本柳俊夫調教師が管理し、厩舎の主戦だった加藤和宏騎手(現調教師)が騎乗していたが、先代のシンボリのオーナー和田さんが、シンボリルドルフ馬でダービーを勝った岡部幸雄騎手(現競馬評論家)に乗せ替えるよう要求し、それに対して二本柳調教師は「そんな要求をするなら馬を預からん。厩舎から馬を引き上げてくれ!!」と応酬したため、畠山吉弘厩舎に転厩した。


しかし、岡部騎手はそのようないわくのついた馬への騎乗を断ったため、ダービーではそのまま加藤騎手が騎乗して勝った。


その後、先代の和田オーナーはシリウスシンボリ馬をヨーロッパに連れて行ったのだった。


また、畠山調教師は美浦の他の調教師から「和田のような横暴な馬主の馬を預かりよって…」と、村八分扱いにされたのだった。


昔は、オーナーより調教師の方が立場が上だったのだ。


第三者の仲介により、シリウスシンボリ馬は再び二本柳調教師が管理することになり、タマモクロスとオグリキャップ、芦毛の怪物2頭のマッチレースとなった1988年の天皇賞・秋にも出走したが、年齢から来る力の衰えは隠せず、そのまま引退して種牡馬になった。


しかし、父モガミの気性の悪さが隔世遺伝した産駒ばかり輩出し、種牡馬も数年で廃役となって、余生を過ごしていたようだ。


「プレッシャーに強い」と、加藤和宏騎手の力量評価が高まったのが、このダービーだったのだ。


もし、加藤騎手が乗って敗れたならば、和田オーナーの言うことが正しかったと言われかねない状況だったが、加藤騎手はそんな中でも1番人気に応えて勝ったのだった。