アイルトン・セナ(1)に名前を出したドライバーで、次にアンドレア・デ・チェザリスについて書いてみよう。


アンドレア・デ・チェザリスは、足かけ15年間で 208レースもF1に出場しながら、一度も勝てなかったドライバーだった。


チェザリスの父がイタリアのマルボロの偉いさんであり、イタリアで貴族の称号である「デ」がミドルネームに付く御曹子であることは何度も書いたが、F1デビューは、やはりマルボロのコネがきっかけだった。


チェザリスは、1980年のカナダグランプリで、マルボロがスポンサーについたアルファロメオからF1にデビューした。


翌1981年、同じくマルボロがスポンサーについたマクラーレンに移籍した。


当時は、まだアルミハニカムモノコックが主流だった時代に、当時マクラーレンのデザイナーだったジョン・バーナードは、今の標準となっているカーボンモノコックをどこよりも早く採用したのだったが、チェザリスは高額なカーボンモノコックのマシンを、次々とクラッシュさせてしまった。


マルボロの後ろ楯で監督になったロン・デニスも、さすがにこの壊しぶりには耐え兼ね、チェザリスの父に「息子さんをお引き取り願いたい」と言い、1年限りでマクラーレンを解雇されてしまった。


「速いが荒い」、「壊し屋(crasher )チェザリス」をもじって「クラッシャリス」と言う、ありがたくない呼び名がつけられたのは、マクラーレンにいた年だった。


1982年は再びアルファロメオから参戦し、今はインディ・カー・レースの公道コースとなっているロングビーチでのアメリカ西グランプリで、初めてポール・ポジションを獲得したが、これがチェザリスにとって最初で最後のポール・ポジション獲得となった。


このレースでは、後ろを走っていたマクラーレンのニキ・ラウダにラップ・リーダーの緊張感を見抜かれて、チェザリスがバックマーカーがなかなか前を開けないことに抗議する意味で手を上げて、ギアチェンジをし忘れるという前代未聞の大チョンボをした間に、ニキ・ラウダはチェザリスをバックマーカーもろ共抜いてしまったのだ。


このレースで、ニキ・ラウダは現役カムバック後、初めての勝利を挙げたのだった。


一方、チェザリスはこのレースでもクラッシュして、リタイアした。


同年のモナコ・グランプリは大混乱のレースとなり、リカルド・パトレーゼが初優勝を挙げたが、ファイナル・ラップのトンネルの中でガス欠して止まったチェザリスが、トンネルのガードレールにもたれていた光景がF1 LEGENDSで放映された。


解説の小倉茂徳さんは、チェザリスが悔し泣きしていたことを口頭で補足したのだった。


1983年もアルファロメオから参戦したが、やはりクラッシュによるリタイヤが多く、この年を最後にマルボロからの援助を得られなくなり、流浪のドライバーへとなっていく。


1984~85年はリジェから参戦したが、1985年の西ドイツグランプリ、オーストリアグランプリと2戦連続でマシンを大破させる派手なクラッシュをしたことがオーナーのギ・リジェの逆鱗に触れ、次のオランダグランプリを最後に解雇されてしまった。


この2戦連続の大クラッシュで、チェザリスは「速いが荒い」から「荒いが速い」へと評価が変わってしまった。


1986年はミナルディから、同じイタリア人ドライバーのアレッサンドロ・ナニーニと参戦したが、モトーリ・モデルニ製のエンジンの戦闘力の低さに悩まされた。


1987年はブラバムから、同じイタリア人ドライバーのリカルド・パトレーゼと参戦し、ゴードン・マーレイが設計したシャシーと、過給圧規制のあおりで性能が低下していたとは言え、BMWが開発した直列4気筒ターボエンジンを得たことで、マシンの戦闘力が格段に上がったこともあり、そこそこの成績を残した。


この頃には、クラッシュによるリタイアは少なくなったが、マシントラブルによるリタイアが多くなっていった。


1988年はリアル、1989~90年はイタリアのシャシーメーカー、ダラーラが設立したスクーデリア・イタリア、1991年はジョーダンと新興チームから参戦し、1989年は同じイタリア人ドライバーのアレックス・カフィと共に、そこそこの成績を残した。


1991年、ジョーダンでのチェザリスの最初のチームメイトだったのが、この年にF1デビューした、後に皇帝と呼ばれるようになるミハエル・シューマッハーだったが、シーズン途中にフラビオ・ブリアトーレ率いるベネトン・ルノーが引き抜いたのだった。


狡猾なエディ・ジョーダンは、狡猾さでは引けを取らなかったフラビオ・ブリアトーレから違約金をもぎ取ったことから、「金策士」と呼ばれるようになる。


1991年のチェザリスのチームメイトは、ミハエル・シューマッハー、ロベルト・モレノ、アレックス・ザナルディと変わっていった。


1992年~93年はティレルから参戦したが、1991年を最後に中嶋悟さんが現役を引退したことから、ティレルを支えていた日本企業のスポンサーがすべて撤退し、またホンダがエンジン開発を凍結してしまったため、チームメイトだったフランス人ドライバーのオリビエ・グルイヤールと共に、2年落ちのマシンに苦しんだ。


1993年は、この年にF1デビューした神風右京こと片山右京とコンビを組んだが、日本ではバブル経済が崩壊し、片山右京を起用することで日本の企業からのスポンサー資金をアテにしていたケン・ティレルの目算は、完全に狂った。


しかも、エンジンサプライヤーのホンダが、バブル崩壊による業績悪化を理由に1992年末でF1から撤退したため、何と3年落ちのマシンでの戦いを余儀なくされ、チェザリス、片山右京共に、1ポイントも挙げられなかった。


神風右京と言われる位に能力が高かった片山右京も、バブル崩壊の荒波に飲み込まれてスポンサーに恵まれないまま、最終的にはF1からの撤退を余儀なくされるのであった。


1995年にマネー・パワーでフットワーク・アロウズのシートを獲得し、1年だけF1に参戦した無名の井上隆智穂が持っていた資金が片山右京にあったなら、もっと戦闘力の高いマシンで戦えたのにと思うと、今でも残念でならない。



1994年は、出場停止のペナルティを受けたエディ・アーバインの代役としてエディ・ジョーダンに呼ばれ、モナコグランプリに出場して、公道コースでの強さを見せ、好成績を挙げた。


同年、後にザウバーのカール・ヴェルトリンガーがクラッシュして重傷を負ったことから、ペーター・ザウバーに呼ばれ、ヴェルトリンガーの代役を務めたのが、F1ドライバーとして最後の活躍の場となった。


ヴェルトリンガーは日本グランプリで復帰予定だったため、チェザリスはもう自分には声がかからないだろうと、日本グランプリを前にヴァカンスに出かけた。


しかし、ヴェルトリンガーは日本グランプリでも復帰出来なかったため、ペーター・ザウバーは引き続いてチェザリスに代役を依頼しようと連絡を取るも結局連絡がつかず、オニックスからF1デビューし、後にル・マン24時間で活躍するようになるJ.J.レートに代役を依頼した。


そのJ.J.レートは、日本グランプリで3位表彰台を獲得した。


日本のファンは、アンドレア・デ・チェザリスの最後のレースを見ることが出来なかった。


しかも、自身の代役J.J.レートが表彰台を獲得したのだから、チェザリスは後でそれを知って、さぞかし苦虫をつぶしたことだろう。


J.J.レートは、渋い脇役ドライバーとして日本でも人気の高いドライバーだったが、この人もF1では資金力不足で、いいマシンに恵まれなかった。