古くからのF1ファンならよくご存じであろう、「ブラバム」。


アイルトン・セナ(1)で、エリオ・デ・アンジェリスが1986年にポール・リカールでブラバムのマシン・テスト中に事故死したことについて触れたので、このブラバムについて、ザッと書いてみよう。


エリオ・デ・アンジェリスがテストしていたのは、フロントノーズがスルメイカの頭の先ような三角形をして、車高を下げた斬新な車「BT55」で、デザインしたのはゴードン・マーレイだったが、走行中にリアウィングが外れてマシンコントロールが不能となって起きた惨劇だったようだ。


このマシンを見たさにカワイちゃん(川井一仁さん)がモンツァに行ったのは、F1 LEGENDSを見た方ならよくご存じであろう。


ポール・リカールは、元々は全長 5.8kmと鈴鹿とほぼ同じ長さだったが、翌年からエリオ・デ・アンジェリスが事故死した区間がショートカットされて、全長 3.3kmのモナコ公道コースよりも短いショートコースになったのだ。


ブラバムは、1959年と1960年、クーパーから参戦して2年連続でチャンピオンに輝いたオーストラリア人ドライバー、ジャック・ブラバムがデザイナーのロン・トーラナックと共に、1962年に設立したチームである。


ちなみに、オーストラリア人ドライバーでF1のチャンピオンになったのは、このジャック・ブラバムと、1980年にマクラーレンでチャンピオンになったアラン・ジョーンズの2人で、昨年レッドブルのマーク・ウェーバーがチャンピオンになっていれば、3人目のオーストラリア人チャンピオン・ドライバーになっていたのだったが…。


ブラバムはチーム設立から3年目の1964年、ダン・ガーニーが初のチャンピオン・タイトルをもたらしたのを始め、1966年にはジャック・ブラバム自身が、1967年にはデニス・ハルムがチャンピオン・ドライバーとなり、ブラバムは第一期の黄金期を迎えた。


ブラバムのマシンに「BT」とついたのは、ブラバムの頭文字「B」と、トーラナックの頭文字「T」からつけられたもので、オーナーが変わってからもこの名称は受け継がれて行った。


1969年ジャック・ブラバムは現役ドライバーを引退し、チームオーナーとなるが、実質的なチーム運営はロン・トーラナックに任せた。


しかし、デザイナーとしては優れた手腕を発揮したロン・トーラナックも、チーム運営では手腕を発揮出来かった。


ジャック・ブラバムは、ロン・トーラナックから、チーム・スタッフだったバーニー・エクレストンにチーム運営をスイッチした。


この年のシーズン終了後、ジャック・ブラバムはチームをバーニー・エクレストンに売却し、正式にバーニー・エクレストンがオーナーとなったのである(バーニー・エクレストンがチームを乗っ取ったと書いてる文献もあるが、バーニー・エクレストンはちゃんとジャック・ブラバムからチームを買収し、買収の条件であった「ブラバム」の名称も継承したのだ)。


そして、テクニカル・ディレクターとして、ゴードン・マーレイを迎えた。


ゴードン・マーレイは、日本ではホンダのターボエンジンを積んで、1988年に16戦15勝の快挙を成し遂げたマクラーレンの名車中の名車MP4/4を設計したことの方で、その名がよく知られているだろう。


しかし、バーニー・エクレストンがチームを引き継いでからはしばらく成績が低迷し、1975年にカルロス・ロイテマンとカルロス・パーチェの活躍で、そこそこの成績を残したのみだった。


1977年、ブラバムはフェラーリからニキ・ラウダに迎え入れて、当時まだ若手ドライバーだったネルソン・ピケが力をつけて行ったのを機に、成績は上昇していった。


では、ここから少し脱線して、ニキ・ラウダについて簡単に触れよう。


ニキ・ラウダは、フェラーリに在籍していた1975年のニュルブルクリンク(当時は全長22km、ラップタイムが7分を越える、今では考えられない長さを誇った旧コースで行われていた。)での西ドイツグランプリで、クラッシュしてマシンが炎上し、ほぼ全身に及ぶ大火傷を負いながら、フェラーリの母国イタリア・モンツァでのレースで奇跡的なカムバックを果たした。


1975年、初めて日本で行われた富士でのF1は、大雨の中でのレースとなり、ニキ・ラウダは身の危険を感じて、レースを途中でやめてしまったのだった。


そして、この富士でのレースを勝ったジェームス・ハントが、この年のチャンピオン・ドライバーに輝いた。


ニキ・ラウダは「チャンピオンのタイトルより、大切なものがある(もちろん、命のことを指す)」と、レースをやめた理由を語った。


このことが、フェラーリの創始者であり独裁者でもあったエンツォ・フェラーリの逆鱗に触れ、ニキ・ラウダはエンツォ・フェラーリから後に「弱虫」呼ばわりされるようになったのだった。


1976年、ニキ・ラウダはフェラーリでチャンピオン・ドライバーとなるが、この年の途中に翌年からのブラバムへの移籍を発表し、チャンピオンのタイトルが確定したことを置き土産にして、富士での日本グランプリを含む最後の2戦を棄権した。


そして、ブラバムに移籍後、ニキ・ラウダは若手ドライバー、ネルソン・ピケに帝王学を授けたのであった。


1978年、ロータスの創始者コーリン・チャップマンが、マシンの底を改造して、飛行機が飛ぶための力「浮力」と逆向きの力で、シャシー全体でダウン・フォースを得る、「逆翼構造」の「ヴェンチュリーカー」(「ウイング・カー」、「グランド・エフェクト・カー」とも言う)を開発し、実戦投入した。


当然他のチームも模倣しようとしたのだが、ゴードン・マーレイは初めはヴェンチュリー・カーを模倣せず、テールにファンをつけたBT46B 「ファン・カー」を投入し、周囲をビックリさせた。


しかし、他のチームからファンによって吹き上げられた砂塵によって吸気口が塞がれ、エンジンがオーバーヒートするとクレームがつき、たった1戦で使用禁止となったが、この頃からゴードン・マーレイが様々なアイディアを次々と考案するのだ。


この1978年、ニキ・ラウダはバーニーがオーナーとなってから初めてとなるチャンピオン・タイトルをブラバムにもたらすが、この年を持ってニキ・ラウダは1度現役を引退する。


ニキ・ラウダは「フェラーリのマシンに乗ったから、チャンピオンになれたと言われたくなかった。ブラバムでチャンピオンになったことで、私の力量が証明されたと思う。」と述べたと言う。


ニキ・ラウダは現役引退後、念願だった母国オーストリアでチャーター機専門の「ラウダ・エアー」を設立するが経営はあまり上手く行かず、そこに大金をちらつかせてドライバーへのカムバックの話を持ちかけたのが、当時のマクラーレンの監督ロン・デニスだったのだ。


ロン・デニスは、ブラバムからゴードン・マーレイを、ウィリアムズからホンダのターボエンジンを同様の手法で引き抜いたが、これは当時のスポンサーだったマルボロのバックアップがあったからで、ロン・デニス自身を「金の亡者」呼ばわりするのはおかしい。


今のバーニー・エクレストンは、まさに「金の亡者」だが…。


1982年、ニキ・ラウダはマクラーレンから現役にカムバックし、1985年まで在籍した。


1983年末にルノーを追われ、1984年にマクラーレンに戻ってきたアラン・プロストに、ニキ・ラウダは帝王学を授け、1984年は 0.5ポイント差で自身がチャンピオンに輝いたが、アラン・プロストに「これからは、君の時代だよ…」と言い、1985年アラン・プロストが初のチャンピオンになったのを見届けて、現役を引退した。


アラン・プロストは若い時から速かったが、自らのつまらないミスによるクラッシュも多く、結局ルノーではチャンピオンになれなかった。


そのため、ルノーから追放された上に「国賊」呼ばわりまでされて、母国フランスからスイスに移住することになったのだ。


老獪なドライヴィングから「プロフェッサー」と呼ばれるドライバーになったのは、ニキ・ラウダから帝王学を学んで以降のことだ。


ネルソン・ピケは通算23勝を挙げ、1981、1983、1987年の3回チャンピオンに輝き、アラン・プロストは通算51勝を挙げ、1985、1986、1989年のやはり3回チャンピオンに輝いたが、どちらもニキ・ラウダから「チャンピオンになる」ための帝王学を学んだからだ。


1980年代に入り、このネルソン・ピケによってブラバムは第二期黄金時代を迎えるが、ここから先は、気が向いた時に書くことにしよう。


ブログの閉鎖が先か、アイルトン・セナ、ブラバムの続編が書けるかは、私自身にも分からない…。