一昨日、桜井聖良さんのブログに、憧れたレーシング・ドライバーとしてアイルトン・セナと書いたことを紹介した。
今日、No.1レースクイーンちなってぃーこと美波千夏さんが、アイルトン・セナのドキュメント映画を見て泣いたとブログに書いていたので、ちょいとセナについて、自分の記憶だけで振り返ってみよう。
アイルトン・セナは、1983年に英国F3チャンピオンに輝き、1984年にトールマン・ハートからF1デビューした。
1983年、英国F3でセナと戦ったドライバーが、今は母国英国でF1放送の解説をしている、マーティン・ブランドルだった。
1984年、大雨の中でスタートが強行されたものの、途中で打ち切りとなったモナコグランプリで、チェッカーフラッグが振られた時に、一番最初にコントロールラインを通過したのがセナだった。
セナは、自分が勝ったと思った。
しかし、ご存じのように、レースが途中で打ち切られた場合は、チェッカーフラッグやレッドフラッグが振られた前の周回の順位がレース結果となるため、前の周回で一番早くコントロールラインを通過した、マクラーレン・タグ・ポルシェのアラン・プロストが優勝となり、セナは2位入賞となった。
このレースは、規定周回数の75%に達しない段階で打ち切られたため、ハーフポイントレースとなった。
当時は、9、6、4、3、2、1のポイントシステムで、アラン・プロストには 4.5ポイント、アイルトン・セナには3ポイントが与えられた。
この 0.5ポイントが後にプロストに悲劇をもたらし、チームメイトだったニキ・ラウダに、 0.5ポイント差で年間チャンピオンの座を奪われたのだった。
1985年、セナはロータス・ルノーに移籍して、エリオ・デ・アンジェリスのNo.2ドライバーとなるが、この移籍をトールマンは無効とし、セナのレースへの出場を認めないように提訴したのだった。
トールマンの提訴は却下されて、セナはロータス・ルノーのドライバーとなった。
しかも、トールマンは当時のタイヤサプライヤーだったピレリと揉めて、ピレリはタイヤ供給を止めてしまったため、タイヤがなくなり、1985年前半は出場出来なかったのだった。
ミシュラン(グッドイヤー?)に対し、トールマンにタイヤを供給するよう依頼したのが、今ではF1を私物化する極悪人となり下がったバーニー・エクレストンだったのだ。
バーニーはこの頃は善人で、自らがジャック・ブラバムから買収したブラバムを運営する傍ら、資金に苦しむティレルを援助したりする等、F1に多大に尽力していたのだ。
しかし、ここでも後の遺恨の要因が生まれるのだ。
ロータスの創始者コーリン・チャップマンから手腕を認められ、1981年にロータスからF1デビューしたのが、後に「イケイケマンちゃん」と呼ばれた、ナイジェル・マンセルだった。
しかし、マンセルの後ろ楯だったコーリン・チャップマンが1982年末に急死し、後にロータスの全実権を握ったのが、監督のピーター・ウォーだった。
このピーター・ウォー、マンセルが大嫌いだったようで、マンセルはことごとく冷や飯を食わされたのだった。
契約期間満了となった1984年末、セナにロータスのシートを奪われる格好でウィリアムズへ移籍したマンセルはセナのことを憎むようになり、いわゆる「セナ・マン対決」が、ここから始まったのだった。
この当時のロータスのマシンは、黒い車体に金色の文字でJSPと書かれた、実に見た目がカッコイイマシンだった。
そして、JSPの黒いロータスのマシンを駆り、雨の中で行われたエストリル・サーキットでのポルトガル・グランプリで初優勝したのだった。
セナが挙げた41勝の最初の勝利が雨の中でのレースだったため、「雨のセナ」と呼ばれるようになった。
セナの台頭で、エースドライバーだったエリオ・デ・アンジェリスはNo.1の座をシーズン途中でセナに奪われ、結局翌年ブラバムに移籍することになるが、そこで悲劇が起きたのだ。
1986年、フランスのポール・リカールでのマシンテスト中に、エリオ・デ・アンジェリスは事故死してしまった。
エリオ・デ・アンジェリスは、貴族を表す「デ」と言う冠名を持つドライバーで、ピアノを弾くのが上手い、まさに御曹司だったと言う。
晩年、ティレルで片山右京と組んだアンドレア・デ・チェザリスは、父がマルボロのイタリアでの偉いさんと言う御曹子だったし、イケメンで日本にもファンが多かったアレッサンドロ・ナニーニは、父がイタリアのナニーニ製菓のオーナーと言う御曹子だった。
エリオ・デ・アンジェリスのファンからは「エリオが死んだのは、セナのせいだ」と、セナは憎まれたのだった。
1986年、晴れて名実共にロータスのNo.1ドライバーになったセナ。
ロータスは、セナのチームメイトに、英国人ドライバーのデレック・ワーウィックを起用する方針だったが、能力が拮抗するドライバーがチームメイトになることをセナが嫌がったため、まったく無名だった英国人ドライバー、ジョニー・ダンフリーズと言う、父が爵位を持つ御曹子を起用して、実質的にセナのワンマンチームとした。
しかし、セナはルノーエンジンの力不足を痛感し、当時ウィリアムズにエンジンを供給し、多くの勝利を挙げていたホンダのエンジンを欲しがるようになり、監督のピーター・ウォーにも告げずに、ホンダの桜井さんとコンタクトを取ったのだ。
後に、監督のピーター・ウォーと桜井さんを逢わせたのも、セナだった。
結局、ホンダは1987年はウィリアムズとロータスの2チームにエンジンを供給することになるが、ホンダがロータスに対してエンジンを供給するにあたって出した条件が、中嶋悟さんを起用することだったのだ。
当時34歳だった中嶋悟さんが、日本人初のF1通年参戦ドライバーとなったのは、こうした背景があったのだ。
この続きは、気が向いたときに書くことにしよう。
明日かも知れないし、来年かも知れない(爆)
今日、No.1レースクイーンちなってぃーこと美波千夏さんが、アイルトン・セナのドキュメント映画を見て泣いたとブログに書いていたので、ちょいとセナについて、自分の記憶だけで振り返ってみよう。
アイルトン・セナは、1983年に英国F3チャンピオンに輝き、1984年にトールマン・ハートからF1デビューした。
1983年、英国F3でセナと戦ったドライバーが、今は母国英国でF1放送の解説をしている、マーティン・ブランドルだった。
1984年、大雨の中でスタートが強行されたものの、途中で打ち切りとなったモナコグランプリで、チェッカーフラッグが振られた時に、一番最初にコントロールラインを通過したのがセナだった。
セナは、自分が勝ったと思った。
しかし、ご存じのように、レースが途中で打ち切られた場合は、チェッカーフラッグやレッドフラッグが振られた前の周回の順位がレース結果となるため、前の周回で一番早くコントロールラインを通過した、マクラーレン・タグ・ポルシェのアラン・プロストが優勝となり、セナは2位入賞となった。
このレースは、規定周回数の75%に達しない段階で打ち切られたため、ハーフポイントレースとなった。
当時は、9、6、4、3、2、1のポイントシステムで、アラン・プロストには 4.5ポイント、アイルトン・セナには3ポイントが与えられた。
この 0.5ポイントが後にプロストに悲劇をもたらし、チームメイトだったニキ・ラウダに、 0.5ポイント差で年間チャンピオンの座を奪われたのだった。
1985年、セナはロータス・ルノーに移籍して、エリオ・デ・アンジェリスのNo.2ドライバーとなるが、この移籍をトールマンは無効とし、セナのレースへの出場を認めないように提訴したのだった。
トールマンの提訴は却下されて、セナはロータス・ルノーのドライバーとなった。
しかも、トールマンは当時のタイヤサプライヤーだったピレリと揉めて、ピレリはタイヤ供給を止めてしまったため、タイヤがなくなり、1985年前半は出場出来なかったのだった。
ミシュラン(グッドイヤー?)に対し、トールマンにタイヤを供給するよう依頼したのが、今ではF1を私物化する極悪人となり下がったバーニー・エクレストンだったのだ。
バーニーはこの頃は善人で、自らがジャック・ブラバムから買収したブラバムを運営する傍ら、資金に苦しむティレルを援助したりする等、F1に多大に尽力していたのだ。
しかし、ここでも後の遺恨の要因が生まれるのだ。
ロータスの創始者コーリン・チャップマンから手腕を認められ、1981年にロータスからF1デビューしたのが、後に「イケイケマンちゃん」と呼ばれた、ナイジェル・マンセルだった。
しかし、マンセルの後ろ楯だったコーリン・チャップマンが1982年末に急死し、後にロータスの全実権を握ったのが、監督のピーター・ウォーだった。
このピーター・ウォー、マンセルが大嫌いだったようで、マンセルはことごとく冷や飯を食わされたのだった。
契約期間満了となった1984年末、セナにロータスのシートを奪われる格好でウィリアムズへ移籍したマンセルはセナのことを憎むようになり、いわゆる「セナ・マン対決」が、ここから始まったのだった。
この当時のロータスのマシンは、黒い車体に金色の文字でJSPと書かれた、実に見た目がカッコイイマシンだった。
そして、JSPの黒いロータスのマシンを駆り、雨の中で行われたエストリル・サーキットでのポルトガル・グランプリで初優勝したのだった。
セナが挙げた41勝の最初の勝利が雨の中でのレースだったため、「雨のセナ」と呼ばれるようになった。
セナの台頭で、エースドライバーだったエリオ・デ・アンジェリスはNo.1の座をシーズン途中でセナに奪われ、結局翌年ブラバムに移籍することになるが、そこで悲劇が起きたのだ。
1986年、フランスのポール・リカールでのマシンテスト中に、エリオ・デ・アンジェリスは事故死してしまった。
エリオ・デ・アンジェリスは、貴族を表す「デ」と言う冠名を持つドライバーで、ピアノを弾くのが上手い、まさに御曹司だったと言う。
晩年、ティレルで片山右京と組んだアンドレア・デ・チェザリスは、父がマルボロのイタリアでの偉いさんと言う御曹子だったし、イケメンで日本にもファンが多かったアレッサンドロ・ナニーニは、父がイタリアのナニーニ製菓のオーナーと言う御曹子だった。
エリオ・デ・アンジェリスのファンからは「エリオが死んだのは、セナのせいだ」と、セナは憎まれたのだった。
1986年、晴れて名実共にロータスのNo.1ドライバーになったセナ。
ロータスは、セナのチームメイトに、英国人ドライバーのデレック・ワーウィックを起用する方針だったが、能力が拮抗するドライバーがチームメイトになることをセナが嫌がったため、まったく無名だった英国人ドライバー、ジョニー・ダンフリーズと言う、父が爵位を持つ御曹子を起用して、実質的にセナのワンマンチームとした。
しかし、セナはルノーエンジンの力不足を痛感し、当時ウィリアムズにエンジンを供給し、多くの勝利を挙げていたホンダのエンジンを欲しがるようになり、監督のピーター・ウォーにも告げずに、ホンダの桜井さんとコンタクトを取ったのだ。
後に、監督のピーター・ウォーと桜井さんを逢わせたのも、セナだった。
結局、ホンダは1987年はウィリアムズとロータスの2チームにエンジンを供給することになるが、ホンダがロータスに対してエンジンを供給するにあたって出した条件が、中嶋悟さんを起用することだったのだ。
当時34歳だった中嶋悟さんが、日本人初のF1通年参戦ドライバーとなったのは、こうした背景があったのだ。
この続きは、気が向いたときに書くことにしよう。
明日かも知れないし、来年かも知れない(爆)