今日のバファローズ-カープ戦で、バファローズは懐かしい阪急ブレーブスの復刻ユニフォームを着用してました。

背中には背番号のみで、背番号の上に選手の名前がローマ字(外国人選手は母国語)で書かれておらず、白が基調で、赤い文字で胸にBravesと筆記体で書かれてましたから、第一期黄金時代後期の西本監督から、第二期黄金時代前の上田監督に受け継がれる過渡期に使用されたユニフォームですね。


思わず、今の選手の背番号から、昔の選手の名前が出て来てしまいました。

今日出場してた選手では、


5:ヘスマン→井上さん

9:坂口→森本さん

10:大引→加藤さん

12:木佐貫→大熊さん

16:平野→足立さん

18:岸田→米田さん

33:田口→梶本さん


鈴木の背番号44を見るとブーマーなんですが、ブーマーはこのデザインのユニフォームは着用してなかったからね。


3:長池さん→イ・スンヨプ(2軍)

7:福本さん→?(去年は、今ヤクルトに居る濱中がつけていた)

11:戸田さん→近藤(2軍)

17:山田さん→香月(今日は登板せず)

22:種茂さん→前田(今日は出場せず)

25:スペンサー~高井さん→?

このあたりの番号も見たいけどなぁ…。


個性的なキャラクターだったアニマル(背番号50)も、このデザインのユニフォームは着用しませんでした。


ホークスが南海のユニフォームを復刻した時は、背番号の字体までちゃんと復刻していなかったし、ライオンズが西鉄のユニフォームを復刻した時は、あまりに古すぎて私自身が知らないデザインでしたから、帽子の「H」を始め、隅から隅まで1970年代のユニフォームをちゃんと復刻されていたのを見て、感激しました。


今日のJSports1での中継の解説者は黄金期のメンバーだった加藤さんでしたが、加藤さんは左打者、今の大引は右打者なので、あまり姿がダブらなかったですね。


上田監督が築いた第二期黄金時代は、このデザインながら、背番号の上には選手名がローマ字(外国人選手は母国語)で書かれるようになりました。


1:ウィリアムス

4:マルカーノ

14:山口さん(現阪神コーチ)

21:今井さん

24:蓑田さん(ウィリアムス引退後、1を継承)

29:河村さん

39:中沢さん


このあたりの選手は、このデザインのユニフォームは着用してないかも…。


ちなみに、何故カープ戦が選ばれたかと言うと、上田監督が就任3年目で、師匠の西本監督が率いる近鉄バファローズ(西本監督は、当時万年最下位だった近鉄バファローズを、3年で優勝に導きました)をプレーオフ(パ・リーグは、1973年~1982年まで前後期の2シーズン制を採用し、前期優勝チームと後期優勝チームとでプレーオフを実施し、日本シリーズへの出場権を争いました。これは、毎年阪急ブレーブスばかりが優勝していては、パ・リーグが面白くないと言うのがきっかけとなったもので、それくらい当時の阪急ブレーブスは強かったのでした。)で下し、上田監督は初めて日本シリーズに進出を果たしました(就任1年目は野村選手兼監督率いる南海ホークスに、2年目は金田監督率いるロッテオリオンズにプレーオフで敗れ、日本シリーズに出場出来なかった)が、その時日本シリーズで対戦したのが、広島カープだったからです。

ちなみに、広島カープはこの年のセ・リーグ優勝が、球団創設以来初めての優勝で、シーズン途中で退団したルーツ監督の後を引き継いだ古葉監督が率いてました。

後に、この古葉監督が、広島カープの黄金時代を築きます。


そして、日本シリーズでは阪急ブレーブスが4勝2引き分けで広島カープを下し、V9期の巨人の前にことごとく阻まれてきた日本一に輝きました。

この年から、阪急ブレーブスは3年連続で日本一になるのですが、この年の日本一が球団創設以来初めての日本一で、阪急ブレーブスとしての日本一は、結局この3回だけとなるのです。

阪急ブレーブスは、翌年と翌々年、日本一を阻んできた巨人を日本シリーズで下し、3年連続の日本一に輝きました。

阪急ブレーブスの4年連続日本一を阻止したのは、この年球団創設以来初のセ・リーグ優勝を果たした、広岡監督率いるヤクルトスワローズで、第7戦までもつれ込みました。

その第7戦、大杉さんがレフトポール際に放った打球を、当時レフト線審を務めていた富沢さんがホームランと判定したため、上田監督はこれに激怒し、富沢さんの交代を要求しました。

抗議による試合中断は1時間半近くに及び、当時の金子コミッショナーは上田監督に試合再開を求めるも、上田監督は富沢さんを交代させない限り、再開には応じないと主張し続けました。

最終的に、上田監督は試合再開に応じましたが、何とリリーフに、その年のドラフト1位入団だった、前年東洋大姫路高校を夏の高校野球選手権大会優勝に導いた松本を起用したのでした。

松本は、いいピッチングをしたのでしたが、これが松本のプロ野球選手としての唯一の勲章となりました。

しかし、最後に登板したエース山田さんから大杉さんがダメ押しのホームランを打ち、ヤクルトは阪急の4年連続日本一を阻むと共に、球団創設史上初の日本一に輝きました。


この騒動の責任を取り、上田監督は辞任し、梶本ヘッドコーチが監督に就任しました。

後日談ですが、当時ヤクルトの4番を打っていたマニエルは「あの打球は完全にファールで、審判のミスジャッジ。ミスター上田が怒るのは、当たり前だ…」と言ったらしいですね。


梶本監督率いた阪急ブレーブスは、初年はプレーオフで近鉄バファローズにストレート負けを喫し、その翌年はプレーオフへの出場も逸しました。

一方、上田監督は根本監督の後任として西武ライオンズの監督就任を要請されたものの、阪急ブレーブスからも同時に再就任要請を受けたため、上田監督は西武の誘いを断り、再度阪急ブレーブスの監督に就任しました。

そして、ブーマーが打撃部門三冠王の活躍を見せた1984年にパ・リーグ優勝を飾りましたが、日本シリーズで広島カープに敗れ、日本一にはなれませんでした。

これが、阪急ブレーブスとしての最後のパ・リーグ優勝となりました。

そして、1988年10月、阪急電鉄は、突然ブレーブスをオリエントリース(現オリックス)に売却すると発表しました。


翌年、オリックスブレーブスとして再スタートを切り、山田さんは現役を引退してピッチングコーチとなり、背番号17を継承した長谷川を一流投手に育て上げました。

また、南海ホークスを放出された門田さんを獲得し、ブーマー、石嶺さんと共にブルーサンダー打線を結成し、相手投手を震撼をさせたものの、黄金期の西武の牙城を崩せず、優勝は出来ませんでした。

オリックスは、阪急色を一掃するため、本拠地を西宮から神戸に移し、神戸市の育英高校出身の元巨人のV9戦士土井さんを監督として招聘すると共に、チーム名称をオリックスブルーウェーブに変更しました。

上田監督は、後に日本ハムの監督に就任しましたが、病気で満足に采配を振るうことが出来なくなり、退任しました。


しかし、土井監督は事ある毎に「巨人では…」を連発したため、阪急の野球を継承してきた選手と対立して求心力が低下し、またイチローの起用を巡ってチームフロントとも対立したため、2年で解任されてしまいました。


オリックスは、近鉄から仰木監督を招聘しました。

仰木監督は、イチローを核に位置付けると共に、ドラフトで田口を獲得し、2年連続のパ・リーグ優勝を飾ると共に、1996年にはオリックスブルーウェーブとして初の日本一に輝きました。


しかし、オリックスはイチロー、田口、長谷川等の主力選手を次々と放出したため、チームは見る見る弱体化して、阪神タイガースの暗黒時代のような「テールエンダーの常連」になり下がってしまいました。


監督もころころと替わり、チームは益々衰退の一途をたどりました。


近鉄バファローズか消滅して楽天イーグルスが出来た年、近鉄の選手とオリックスの選手を分配する、いわゆる分配ドラフトが行われ、オリックスは岩隈を除く(オリックスは岩隈も対象にしていましたが、岩隈が強硬にオリックスへ分配されることを拒否し、楽天に分配されました。)近鉄の主力選手を根こそぎ獲得しました。


楽天イーグルスは、近鉄の二軍クラス、オリックスの控えクラス、その他のチームで戦力外通告を受けた選手の集団で、チームがスタートしました。


また、この機会にオリックスはチーム愛称を近鉄が使用していたバファローズに変更し、現在に至ります。