先月の28日、色々な持病を抱えていた父が亡くなりました。
28日の朝方まで持てば頑張った方だ、と言われて、最悪病院側での看取りになると、看護師さんが言って下さり、看取り出来ない覚悟で27日の夕方に帰宅しました。
28日の朝、頑張って朝を迎えました、と言う電話をいただき、朝イチから、昼過ぎまで母と2人で父の傍に居りましたが、来客予定が入り、病院を後にして、来客を迎えました。
その日の夕方、病院から急激にバイタルが落ちてしまい、危篤と言われて慌てて病院へ駆けつけましたが、先に大急ぎで病院へ向かって着いた弟だけが、何とか看取りにギリギリ間に合いました。私と母は最期に間に合いませんでした。
享年満86歳、自分の父親と同じ位の一生でした。そして継母の月命日で、母の兄も同じ月命日でした。色々あったらしいのですが、晩年は継母の名前を呼びながら、色々な思いを馳せていました。祖母(継母)が、もう、苦しまなくて良いよ、と、迎えに来てくれたかと思うと、祖母に感謝です。←私はこの継母の祖母しか知りません。
病歴は、最初50代の頃、高血圧で仕事中に倒れ救急車で病院へ運ばれるも、異常は無く病院からそのまま帰宅。70歳代になり、大腸がんで転移があると言われて、手術と抗がん剤の服用で様子見でした。手術から半年で、あともう少しで抗がん剤の服用が終わるという時に、また、大腸に病変が見つかり再度手術。それでも、癌は寛解しました。病院からは『もう、来なくて良いよ。』と言われて、安堵しました。
ただ、生まれつき心臓の奇形←手術する程では無かった。で、慢性心不全を患い、何度もカテーテルでのアブレーション手術を行い、様子見でした。そしてリウマチに罹患し、いつの間にか腎臓もかなり悪くなっていました。そのうち椎間板ヘルニアと脊柱管狭窄症の手術をしました←父と娘で同じ傷病(笑)その時に腰椎すべり症も発症していましたが、身体的理由でこちらの手術は出来ませんでしたが、インドア派の父は、弟からのお下がりのタブレットで麻雀したり、時代劇の再放送を沢山録画して鑑賞し、痛みと付き合いながら過ごしていました。
いつの間にか、リウマチが酷くなり、腰椎すべり症で歩きづらかった父は、杖を使えなくなりました。←手と手首がメインで痛かったので。それでも『こわい、こわい。』←北海道弁で、身体が辛い時に使う言葉です。と、言いながら、着替え等の日常生活もリウマチに段々侵されて、段々出来なくなり、パジャマで1日を過ごしていました。
痛みが酷くなる一方で、痛みの為に寝ている体位を変えるのも、私達では難しくなり、食事も利き手の右手が全く使えなくなり、かろうじて使えた左手にカツカレー用のスプーンで食事をしていました。
そんな中、母と弟と私の3人で、一度入院して、担当医師の元で痛みを抑える為に入院させようという話しになりました。担当医には、多少寿命が短くなったとしても、痛みを取り除いてやりたい、と、QOL優先での入院をお願いしました。勿論、父には『家族では、痛みを与えずに世話をするのが難しくなって来たから、一度入院して、先生の元で、病院じゃなくちゃ出来ない治療があるから、入院して痛みを取り除いて貰わないか?』と、私から話しを切り出しました。父は何かを決心したかの様に、今迄より大人しく←普段は入院を嫌がる。入院について同意してくれました。
腎臓の数値も悪く、ステロイドの投与に限界がありましたが、3人で話し合い、身体にダメージが来るけど、ステロイドの増量をお願いしました。その後暫くしてから、突然、急性悪性リウマチ憎悪になってしまった、と言う連絡が入りました。
嫌いなリハビリも家に帰る為に頑張っていた矢先でした。その後免疫抑制剤を多用をすると、感染症になりやすく、特に肺炎になると、そのまま亡くなる事になる、と言われて居ましたが、とうとう肺炎になってしまいました。本人はリウマチの痛みと肺炎の苦しさでパニックを起こしてしまい、鎮静剤を使う事になりました。鎮静剤を使うと意識が落ちて、意思疎通が出来なくなり、そのままバイタルが落ちて亡くなります、と言われ、来客の為に早退していた弟も一緒に3人で病院へ向かい、最期の会話をしました。
当の本人は痛みと肺炎の苦しさでパニック状態でしたが、何とか会話をして鎮静剤を投与して貰い、眠った様になりましたが、耳は聴こえている、と言われたので、色々話しかけました。
そして私の微かな望みでもあった、肺炎の奇跡的な回復は叶わず、最終的には肺炎で激動の一生を閉じました。
28日の夜、霊安室の前を通り、葬儀屋さんから、一度自宅に行きますか?と言われ病院から自宅へ向かい、自宅前で車のドアを空けて、父にはもう分からない、最期の帰宅をさせてもらい、とても近所にある、葬儀屋さんの施設に向かいました。
通夜までの3日間、私と母がそれぞれ体力が無いので、2日間程、父には申し訳無かったのですが、1人で斎場で休んでいて貰いました。
9/30夕方のお通夜には親族、私達親族を含めて8人と、弟の知り合いのご夫婦が参列してくれて、私の中学生時代からの親友が息子君を連れて、線香を手向けに来てくれました。で、親族で晩ごはんを食べる前に、お線香をあげに行ったら、何やら茶色い物が仏前に上がっていました。
父のひととなりを斎場の担当者さんが、弟にインタビューした時に、過去の父の好物がケンタッキーで、若い頃は1食でお酒を飲みながら1人で10ピースは少なくとも食べていた話しをしたらしく、それを聞いて、斎場の進行担当者さんが『お話し聞いていたので、思わずあげちゃいました〜。』との事で、自腹なのか経費なのかは分かりませんが、お供えして下さり、感謝すると同時に、私達家族でさえ思い付かなかったお供え物に、父には『良かったね、大好物を供えて貰えたね。』と話しかけました。
翌日の告別式には、私の彼氏が会社を休んで、小樽から早朝に向かって来てくれました。棺に花を入れる時の、伯母の涙が本当に寂しそうでした。←父方の親族は喧嘩分かれをしていて、伯母にとっては最期の親族を喪いました。私は父に『生きて家に連れて帰れなくてゴメンね。』と、話しかけました。殺しても絶対死なないねと、従姉妹達から言われていた頑丈だった父の面影は遺影にしかなく、棺に横たわる父は、本当に老いた、ただの老人でした。ゴメンね、と、告げた時に、絶対葬式では泣かないと思っていたのに、思わず涙が出てしまいました。すると、後から私の肩をポンポンとたたき、彼氏が慰めてくれました。心底ほっとしました。
出棺の時に、従姉妹のお姉ちゃんの旦那様と、弟と、私の彼氏が、斎場の男性陣と共に、車に乗せてくれました。彼氏に手を振り、火葬場へ。
初めて行く火葬場でした。建て直ししてから数年しか経過しておらず、厳かなりに静かで今風でした。
火葬炉へと送り出し、火葬が終わるまで、広々としたロビーで待ちました。食堂は激混みで、売店で飲み物だけ購入し、待ちました。
アナウンスで、収骨の準備が出来た事を知らされました。指定された区域に行くと、喪主の母と弟が迎えに行き、骨となった父と先に対面しました。
膝下と肩から下の骨が殆ど残っていませんでした。きっと、リウマチで破壊されたのだと思われましたが、偶然足の指らしき骨が3個程残っており、箸渡しをして骨壺に納めました。しかし、膝上と骨盤の骨がしっかりしており、斎場の方が喉仏を先に避けて、大腿骨から砕きながら収骨しました。予想通り骨太でした。最期、頭蓋骨を綺麗に納めていただき、火葬場を後にしました。
葬祭場に戻り、49日繰り上げ法要をして、無事に見送りが終わりました。
自宅には祭壇が無いので←費用から削った。昔、虎之介が居た頃に使っていた、虎之介の引っ掻きキズがある、古いテーブルを出し、遺骨と遺影と遺牌等、お供え物やら並べて、力尽きました。
初めてのお葬式を出し、翌日金曜日の朝から、役所への届け出と必要な公的書類を貰いに行きながら、あちこちに電話をかけて、必要な手続きを終えて、あとは灯油絡みのクレカの手続きをして、残すは土地建物の名義変更と車の名義変更ですが、車の方は必要公的書類が出来上がるまでに、2週間程かかる為に、明日は法務局←パソコンでの予約が出来ないので押しかけ(笑)。に行って予約を入れ、後は出来る時に順を追って手続きする予定です。
後になりましたが、私が父に個人的に感じていた、怒りや怨み←怖い(笑)や申し訳無かった事等の諸々の負の感情は、父が死んでしまった病室に居た時、ふとした瞬間に綺麗に無くなり、代わりに温かい感情に包まれました。とても不思議な感覚でした。父も、魂だけになり、本当の私の辛さや苦しみを感じ取り赦してくれたのかも知れません。そう思うと救われた気がします。きっと、虎之介も迎えに来てくれたと思います。
長くなりましたが、ここまで読んで下さりありがとうございました。