心に激痛が走る3連敗の夜だが、負け方は悪くなかったとみている。決して気休めではない。


その理由の前に、先に昔話を書く。9月30日は1964(昭和39)年、阪神がリーグ優勝した記念日だった。大洋を大逆転しての優勝で奇跡と言われた。


大洋はシーズン残り6試合で3勝すれば優勝だった。阪神が逆転するには大洋との直接対決4試合に全勝し、残る3試合に2勝が条件だった。


実際、大洋に4戦全勝した。残り3試合の相手はすでに順位の決まった5位・国鉄と6位・中日2試合。国鉄戦が雨天中止となった9月28日、評論家だった青田昇が甲子園球場室内練習場を訪れ、監督・藤本定義を直撃している。青田はこの2年前(1962年)、2リーグ制初優勝時に、コーチとして藤本を支えた間柄で、気心が知れていた。


「向こうが勝とうと張り切ってきてくれる方が楽だよ」と藤本が打ち明けた。「のんびりやられると、こっちが硬くならされるのでかなわん」。さらに「受けて立つのじゃいかん。自分から相手をたたく気構えが必要だな」。青田は<これだ、これだ。この気持ちだ>と評論原稿で記した。


そして、阪神は残り国鉄に勝ち、中日に勝って優勝を決めたのだった。


「こっちが硬くなる」とは、下位の広島に苦しむ今の阪神ではないか。クライマックスシリーズ進出の望みがない広島はのびのびとプレーしているように映る。優勝を争う阪神はどこか硬かった。


青田は囲碁の言葉「取ろう取ろうは取られのもと」を引用して評論原稿を書いている。青田も藤本も碁を打った。余談だが、巨人監督・川上哲治と藤本が碁を打つ写真も残っている。


監督・三原脩率いる大洋が阪神に4連敗したのは受け身だったからだと指摘した。そして阪神に向け<「負けられない」という消極的心理心理と「勝ちたい」という積極的心理は違う>と強調していた。


この夜は前夜までとは違った。1回裏の攻撃からヒットエンドランや中野拓夢の好走塁(外飛二進)など積極性が見られた。7回裏もランエンドヒットで走った近本光司が遊ゴロで二塁に生き残り、同点を呼んだ。8回裏は代走・植田海の勇敢な二盗があった。9回裏もあと一打まで追い詰めた。前夜に書いた「挑む」姿勢が見えていたではないか。


プロ野球創設時、巨人初代監督を務め、黄金期を築いた藤本は名将で知られる。阪神監督としても62、64年優勝で黄金期を築いた。青田もまた希代の勝負師だった。


藤本が言った「受けて立つ」ではなく「自分からたたく」。青田の書いた<積極的心理>。今に通じる教訓、警句として心に留め置きたい。