<昭和平成取材ノート/スクープの舞台裏>


衝撃大ニュース、33歳掛布の若すぎる現役引退…。この時期になると選手の引退報道が多くなってくる。88年のシーズン中に明らかになったミスタータイガース・掛布雅之の現役引退は衝撃的だった。33歳という若さ…掛布に何があったのか。トラ番、掛布番を5年担当し、当時ニッカンのパ・リーグキャップを担当していた元大阪・和泉市長の井坂善行氏(66)は「周辺からの情報はあったが、まさかシーズン中に決断するとは」と振り返った。


球場の記者席に常設してある固定電話が鳴ったのは、試合開始直前のことだった。


「掛布が引退や。惜別の原稿を書け。早版から突っ込むので、8時必着。50行でまとめてくれ」


デスクの早口な指令を聞いただけでも、社内が騒然としているのが分かった。目の前では大阪球場での南海-近鉄戦が始まろうとしていた。82年から5年間、トラ番として、そして同じ昭和30年生まれの縁もあって掛布番を務めてきた私は、ミスタータイガース・掛布の現役引退が明らかになった88年はパ・リーグキャップに異動していた。


原稿の中味はともかくとして、そのスピードには自信があったが、さすがに現役引退を決断した掛布に贈る言葉は、いろいろなことが走馬灯のように思い返され、いつになく時間がかかったことを思い出す。


もちろん、その日の紙面は掛布一色だったから、取材していた南海-近鉄戦のことは全く記憶にない。試合が終わり、南海・難波駅から帰ろうとしたが、まっすぐに帰る気がせず、ショットバーに立ち寄った。


それは、88年7月13日のことだった。3月のオープン戦時に飲酒運転が発覚し、当時の久万オーナー代行から「欠陥商品」とまで言われ、シーズンに入っても不振が続いた。そして、シーズン真っただ中のその日、フロント、村山監督と話し合った結果、掛布が引退を申し出たことが明らかになったのだった。


幸いというか、この衝撃的なニュースをスクープした社はなかった。ただ、トラ番、掛布番時代からの人脈で、掛布の周辺からの情報はたくさん舞い込んできた。もちろん、その中には「引退決意」もあった。しかし、まだ33歳。しかも、夏場のシーズン真っ盛りの時期に…。掛布番としてスクープ出来なかったことより、なぜ…という思いで水割りを飲んだ夜だった。


言い訳をするわけではないが、「青天のへきれき」でもなかった。80年に左ヒザの故障に泣き、オフにはトレード報道まで出たことから一念発起。翌81年からは5年連続全試合出場を果たした。毎年抱負を聞かれても「全試合出場」と言い続けてきた掛布だったが、86年開幕直後の4月20日、ナゴヤ球場で中日のルーキー・斉藤学から死球を受け、手首を骨折。連続試合出場が663で途切れ、私の知る限り、掛布の緊張感がプツリと切れた瞬間ではなかったかと思っている。


そこからケガ、故障が続いた。そして、88年のシーズンは村山監督との確執も伝わってきた。


「これはヤバいな。カケちゃんの性格からすれば、ひょっとして…」


引退が明らかになる前の6月、デスクには「8月になったら掛布の周辺取材に入ります」と伝えていたが、私の予想をはるかに上回るスピードで、「孤高のミスタータイガース」掛布雅之は、自らの決断で現役引退へと進んでしまっていたのである。