1990年代にタイガースの球団経営に携わった元阪神球団社長の三好一彦氏(90)が、「三好一彦の遺言」でかつて全力を注いだ球団経営を振り返り、今に伝え遺す阪神昔話を語った。第3話は甲子園球場に設置されていたラッキーゾーンの撤廃。その後、阪神の野球が変わった。


1991年のシーズン終了後、甲子園球場の外野フェンス前に設置されていた金属製の柵が外された。いわゆるラッキーゾーンの撤廃だ。


長い間、ファンに親しまれた甲子園名物との別れ。これは即ち空中戦からの撤退を意味した。同時に外野のフィールドが広がり、走力と守備力を生かした野球への転換を求める決断でもあった。


このころの阪神打線はすっかり小型化し、両翼91メートル地点から右、左中間へ伸びたこのラッキーゾーンの『うまみ』を生かし切れない。そんな現実も背景にあった。


しかし、撤廃の動機は「野球規則に則ったもの」とはっきりしていた。


三好「後楽園球場に合わせてラッキーゾーンを作り、東京ドームに合わせて撤去したということになりますかね。選手の体格も変わりましたし、用具も改良されましたから」。


撤廃当時の記者会見で三好は次のように説明したという。


<ラッキーゾーンは戦後、プロ野球の復興に伴い、野球の醍醐味であるホームランを出やすくするために、当時巨人の本拠地後楽園球場の広さ、両翼90メートル、中堅120メートルに合わせて設置したが、環境の変化により撤去することになりました>


戦前、甲子園球場で記録された本塁打はわずか9本。これを受けて47年、ラッキーゾーンが設置された。


その後、野球規則により両翼325フィート(現在320フィート=97メートル)、中堅400フィート(121メートル)という基準(いずれも下限)が設けられた。


現在の甲子園は両翼95メートル、中堅118メートル。概ね基準を満たしている。


三好「当時の高野連の牧野(直隆)会長から『打者最高のスイングで打ったボールがフェンスを越えるのが本当のホームラン。今は金属バットで出過ぎ。これはホームランではない。元の広さに戻すべきではないか』という意見もありました」。


少し時代を遡ると、日本一となった85年の阪神の年間本塁打数は219。ストライクゾーンが下がり、低めを積極的に取るようになった翌86年は184。


以後、バースや掛布が相次いでチームを去り、打力はさらに下降線をたどっていった。


だが、このチーム状況に関係なく、三好は球場サイズの見直しを考えていた。


参考にしていた後楽園球場が東京ドームに生まれ変わり、千葉マリンスタジアムやグリーンスタジアム神戸など、新サイズの球場が次々と誕生していく中、甲子園だけが『旧サイズ』のまま取り残されていた。


三好「東京ドームが開場した昭和63年に前任の見掛社長に話をしたんですが、なかなか前に進まなかった。私が社長になったことで行動を起こしたということです」。


ラッキーゾーンの撤廃は結果として92年の大躍進を生んだ。広くなったフィールドを新庄や亀山らの若い選手が駆け回り、投手陣はノビノビ投球。チーム防御率は91年の4・37から2・90へ改善され、阪神の野球は大きく変わった。


三好「足の速い選手がハツラツとしたプレーをして、投手は生き生きとした投球をするようになった。それまでのアウトロー一辺倒の投球からイン攻めをするようになってね」。


しかし、失ったものもある。言うまでもなく野球の華である本塁打の数だ。


最近は一発歓迎の傾向がみられ、千葉(ZOZOマリンスタジアム)にはホームランラグーンが設置され、本塁打が出やすくなった。福岡ペイペイドームもホームランテラスを設けている。


野球規則に従い撤去した甲子園のラッキーゾーン。数年前、復活の話が浮上したが、実現には至っていない。


仮に復活すれば、佐藤輝は何本のホームランを放つだろうか。夢は膨らむが、「それは想像したことがないですね」と三好。


高校野球の聖地でありタイガースの根城。厳然たる威容を誇る甲子園球場は、今の姿が最も美しい。