1年目のシーズンを終えた小幡が『夢先生』として、小学校5年生の児童37人と交流しました。


「ボールを投げ上げて落ちるまでの間に、体育館の壁に向かって走ってどっちが速いか競争したり。子どもたちも小幡選手も楽しそうでした」


岐阜県土岐市の市立泉小学校に取材に出向いた虎番菊地峻太朗の報告です。横浜出身の菊地自身も、この日の子どもたちと同じ小学5年生のときの2005年に、プロ野球選手とふれあったことがあります。


「内川さんが野球教室をしてくれたんです」


ただ、内川から直接の指導は受けられなかったらしい。


「僕は捕手だったので、内川さんと一緒に来た別の選手に教えてもらいました。でも、その選手が誰だったかは覚えてなくて」


子どもは純粋だけど、そのぶん『残酷』でもあります。翌06年も横浜から2人の選手がやってきて、また野球教室を開いてくれたのですが、そのときも同じパターンでした。


「門倉投手が来る予定でした。でもちょうどその時期、球団と契約更改交渉でもめていて、巨人にFA移籍したので、代わりに野中(信吾)さんが来てくれたのは覚えてますが…」


そのときのもう一人も記憶の外になっています。児童との交流後、小幡は「テレビで活躍する姿を見せたい。それがモチベーションになります」と誓ったそうです。名前が残る選手になって覚えていてもらおうな。『もう一人』にならないように頑張ろう。


球史に名を残したレジェンドの一人、通算代打本塁打の世界記録(27本)を持つ高井保弘さんが亡くなりました。6年前に、オフ企画「プロ野球三国志」で連載させていただいたとき、見せてもらった『高井メモ』は今も強烈に印象に残っています。


「江夏はグラブに左手首が深く入っているときはカーブ。手首が出ていればストレート。グラブが丸くふくらんで、手首のスジが見えるときはフォーク」


球団別に投手のクセをまとめたノートが5冊。さらに、ふだんは対戦しないセ・リーグの主力投手をまとめたノートが1冊。


「セの投手も日本シリーズで対戦するからね。研究しとかな」


さらりと言ってのけた言葉には重みがありました。高井さんは1982年に引退後、小料理店や整体院を経営するかたわら、評論と解説の仕事はしてきたものの、指導者としては一度もユニホームを着ていない。「引退直後のオフに南海から一度だけあった。穴吹(義雄)さんが監督になったとき」。しかし、西宮市内で小料理店を始めたばかりでこれを断ると、「次がなかったんや。次に誘いがあったらそのときはやってみようと思ってたんやけどね」。


長女の美和さんは元宝塚月組の松波美鶴で、同期に天海祐希がいる。


「月組に配属された11人に『飯食わしたる。みんなでおいで』と言うてごちそうしたことがある。祐希ちゃんは、あのころから元気な子やった。店でも一番はしゃいどったな」


現役当時は怖そうだったけど、すっかり優しいおじちゃんになっていた高井さん。グラウンドに復帰していたら、どんな顔を見せてくれていたのか。指導者としての顔も見たかった。