柳宗悦の著書「手仕事の日本」を読んでから焼き物(各種食器)が気になる様になりました。

イメージ 1


この本にはかつて日本に存在した様々な「手仕事」の記録が掲載されておりますが、私達現代の生活を営む一般生活者に必要不可欠であり、日常生活の中で気軽に触れる事が出来る「手仕事」による品と言えば、毎度毎度の食事の際に触れる食器ではないでしょうか。

てな訳で、何か有名な窯(何せ無知なんで)の食器が欲しいなあ、手軽なの無いかなあ、でも八木橋(熊谷市の老舗デパート)辺りにわざわざ買いに行くのは何か違うな。やはり食器との出会いは偶然がいいな。そうだな旅先での偶然の出会いを待つかな。こんだ旅行に出た時に旅先で焼き物を買い求め、思い出と供に毎度の食事を頂けたらどんなに楽しいだろうか等と妄想を膨らませておりました。

所詮ものは形骸であり、大切なのはやはりものとはどう出会い、どう接し、どう付き合うか。そのものを作った作り手に思いを馳せるのもまた楽しい。それにより使い手もより充実した毎日が送れるのではないでしょうか。高価で有るとか貴重であるとか、ものに支配され、使い手がものに操られる様では本末転倒であります。

食器は使えば割れちゃうもんですから、まあ予算は1つに付き、せいぜい数千円ですね。高価な食器に気を使い、ビクビクしながらご飯を食べても美味くない。昔、私なりに奮発して購入したマウンテンバイク乗ってた時、駐輪する度に盗難が気になり、ロックを3つも掛けてそれでも気になりました。出掛けて食事して居ても、駐輪したマウンテンバイクが気になるんです、バカですねえ(笑)しかもコンビニ等の僅かな駐輪時間でも毎回ロックを3つ(´д`|||)夏の熊谷の馬鹿げた暑さの中で、コンビニの駐輪スペースで汗ダラダラかきながらチャリンコにチマチマと3つもロックを掛ける。それでも結局盗まれたのです。

今はもうママチャリです。鍵もひとつしか掛けません。スゴイ楽。スゴイストレスフリー。チャリのストレスは俺には不要なストレスだったのです。高価なものを買っても、結果、それがストレスの元では意味がありません。要するに僕には高価なマウンテンバイクは身分不相応だったんですね。

話を食器に戻します。因みに私は現在ご飯茶碗、3個をローテーションしてるんですが、その内、2個は縁が欠けてしもた。

しかしかつて、千利休は例えば欠けた茶碗の「欠けた部分」にこそ世の中の面白味が在り、それが侘び寂びであると説きました。物事全てに、不変の完全無欠を求めても、それがどれだけの事でしょうか。

だのでそれに習い、欠けたご飯茶碗を棄てずに使うとります( ´△`)

そして生涯物事全ての「所有」を出来る限り忌避し続けたさすらいの僧、良寛は茶碗すらひとつしか所持して居なかったそうです。そんな良寛に比べて欠けたご飯茶碗とは言え、3個をローテーションして居る私は大富豪であります(笑)

そんな手仕事に対する憧れを持ち始めて居た某日、某お店で有名な窯元の直売セールを開催して居る所に偶然、出会せたのです。

場所は旅先ではありませんでしたが、計らずもなこの偶然の出会いを啓示と捉え、売り場を覗いてみました。

しかし私はド素人。

トライアンフ・ボンネビルとカワサキW650の見分けは一瞬で付いても焼き物はどれを見ても何が何やら。私の焼き物知識は、有田焼が白くて絵が青い磁器だ位の知識だよ。あと信楽焼がタヌキとか。焼き物詳しくなりたいな。見てすぐ「これ伊万里だね」とか言ってみてえ。

そんな中で予算と直感と用途で数点お買い上げしてみました。


イメージ 2

イメージ 3

※沖縄の焼き物・壺屋焼き。丼の魚モチーフは壺屋焼きのお約束だそうです。絵の枠は筋彫りしてあり立体的。ぐい呑みも絵柄に段差が在り手触りが楽しい。元より伝わる朝鮮や大陸の技術を沖縄独特に昇華。もう1枚お皿も購入。壺屋焼き、風情が良い。沖縄の夜風を思い出しました。



イメージ 4

※京都の清水焼きのぐい呑み。沖縄の壺屋焼きと違い、滑らかな手触りで、細かい華やかな絵柄。花の絵がぐい呑みの内側にも付けて在り、お酒を注ぐとまた風景が変わるんでしょうねえ。

イメージ 5

※備前焼きの徳利。上薬をかけないザラッとした肌。一目で「侘び寂び」な印象の陶器です。赤い所は土に含まれる鉄分が、焼き入れの際に赤くなるそうです。他にお皿も購入。備前焼きは食洗機、電子レンジ不可。上薬がかけて無いので使い込むと風合いが変化して味わいになるそうです。

今回の出会いをご縁と捉えて、大切に末永く扱いたいと思います。

次はやっぱり欠けたご飯茶碗を新しくしようかな(笑)