2025年10月某日、久しぶりに倉賀野浅間山古墳の墳丘まで行ってみた。散歩がてらの訪問でカメラも持参していない。この古墳は墳丘全体が私有地であり、立ち入り禁止区域です。一部は畑として利用されているので高崎市役所の名前で立入禁止の看板を立てられている。おそらく所有者からの設置依頼があるのでしょう。それだけ墳丘に無断で登る人が絶えないという事だと思います。

 

赤い彩色土器の検出場所

↑彩色土器の検出場所

 

訪問した日は、田んぼのあぜ道を伝わって前方後円墳のくびれ部南西側まで行ってみた。墳丘の周囲では埴輪のかけらをたまに見かける事がある。当日も5個ほど拾いました。おそらく墳丘の上部に設置してあった円筒埴輪が崩れて落ち、周囲に散乱しているのだと思います。拾った土器片を自宅に持ち帰り、後日、歯ブラシで洗浄してみた。その結果、5個のうちの2個に採色が有る事が分かりました。しかもハケ跡もはっきりと残っています。水に濡れると鮮やかな赤茶色が浮かび上がってくる。この古墳では過去にも埴輪片を拾っているが、採色埴輪を見つけたのは初めてです。

 

赤い土器片5

↑手前2個に赤色彩色とハケ跡がある(クリック拡大)

 

赤い土器片6

↑彩色のある部分の断面と表裏(クリック拡大)

 

補足:彩色のある土器片2個の彩色面の下部は何れも黒い色している層がある。さらにその下部には通常の土器色である明るい色の層がある。これは彩色された部分は通常の粘土の上に特殊な粘土を重ねた上で、彩色を施したと推定できる。もう一つの可能性は黒い部分はすべて顔料が焼成されたときの色である可能性もあるか。顔料は焼成するときの温度や粒度によって色が変化するという。ただ、そう考えても表面は現に赤色に発色しているので疑問が残る。そもそも顔料はどのくらいの厚みで施されたのかという点も分からない。また、このような出土事例について調べてみたが情報は得られなかった。知識のある方がいたらご教授頂きたい。

 

ところで、彩色に使われた顔料はなんだろうか? 赤い色は神聖な色として、旧石器時代、縄文時代から土器や木製品の表面に塗られたり、墓に埋葬するときに上から振りかけたりしたという。古墳時代までの赤色顔料として知られているのは、辰砂()、②ベンガラ、 ③鉛丹の三種類がある。だが、鉛丹は主に奈良時代以降であり、古墳時代前期の古墳出土品では考えられない。西日本では弥生時代の終わり頃から赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになる。古墳時代はじめには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになった。奈良県の大和天神山古墳の竪穴式石室には41kgの辰砂が使われていたのは有名です。一方の東国では辰砂の使用例はそれ程多くはない。辰砂を産出する場所が少なかったのかも知れない。群馬県富岡市の丹生地域には辰砂の産出跡がある。「丹生」という地名は水銀を産出したことに由来し、日本では各地にあるようだ。西日本では多用されているが、主に石室の内部に使われており、当時としても貴重品であったことが想定できる。

 

補足:辰砂(朱)とは赤色の由来となる主成分が硫化第二水銀であるものを指す。少し暗めだが鮮やかな赤色であることが特徴。顔料の色はまずその成分で決まるが、顔料粒子の粒度や形状によっても変化するという。朱は特に粒度により色が変化する代表的な顔料である。

 

古墳を装飾する円筒埴輪は大量に設置されており、彩色する顔料は希少品ではなく、もっと手ごろに入手可能な顔料であったはずです。その顔料として可能性が高いのはベンガラです。「弁柄」や「紅殻」とも表記します。ベンガラとは、土中の酸化第二鉄を主成分とする赤色の無機顔料のことです。天然では赤鉄鉱として産出されている。インドのベンガル地方で良質なものが産出することから、日本ではベンガラと呼ばれるようになったと言う。鮮やかな赤色ではなく、少し茶色っぽい落ち着きのある色合いが特徴。赤褐色とか赤銅色とも呼ばれます。しかし、ベンガラは燃焼温度と調合により、黄、黒、緑、紫といった様々な色合いをつくることもできるそうです。また、ベンガラは空気中でも安定的な酸化状態で、化学変化が起こりにくく、耐熱性、耐水性、耐光性、耐酸性のいずれにも優れている。経年変化にも強く、日光による褪色がほとんど無い。つまり先の画像の色は造られて当時とあまり変わっていないという事です。

 

群馬県渋川市の金井東裏遺跡では大量のベンガラが出土している。この遺跡は5世紀代の集落跡で、西暦495年榛名山の古墳時代一回目の噴火による火砕流・火山灰に埋もれて終焉している。祭祀の最中に火砕流に埋もれてしまった「甲(よろい)を着た古墳人」が発見された事は記憶に新しい。彼は渡来系形質を持つこと、歯のエナメル質分析から長野県伊那谷で幼時を過ごした可能性があることも判明している。

この遺跡で発見されたベンガラの形態は直径10㎝くらいの玉に固められているので赤玉と呼ばれています。赤玉は酸化鉄を含んだ土をこねて丸めたもので焼成されていない。使うときは水に溶かして使用されたらしい。金井東裏遺跡では120個もの赤玉が出土している。

 

赤玉出土金井東裏遺跡

↑赤玉出土状況(群馬県金井東裏遺跡)

 

赤玉ベンガラ2

↑赤玉の大きさ

 

赤玉ベンガラ

↑博物館に展示されている赤玉(群馬県埋蔵文化財調査センター発掘情報館)

 

以下は埴輪をベンガラで赤く彩色した事例です。私が倉賀野浅間山古墳で拾った埴輪片と色合いがそっくりです。なお、倉賀野地区の遺跡では赤玉は発見されていない。この古墳は金井東裏遺跡よりも100~150年ほど時代が遡るので、当時、赤玉として顔料を保管していたのか定かではない。

 

三重県飛塚古墳の赤い円筒埴輪破片

↑赤い彩色のある円筒埴輪破片(三重県飛塚古墳)

 

三重県飛塚古墳赤い家形埴輪

↑赤い彩色のある家形埴輪(三重県飛塚古墳)

 

赤い彩色のある埴輪

↑赤い彩色のある人物埴輪(群馬県上芝古墳)

 

このように知識の上ではベンガラの使用実績は証明されているが、実際に身近にある古墳で手にしてみると、当時の人々の色に対する憧れやこだわりが感じられて感慨深いものがあります。人工的な構造物が非常に少ない当時において、大古墳の墳丘表面に立ち並ぶ色鮮やかな彩色埴輪群はさぞかし壮観であった事でしょう。

 

保渡田八幡塚古墳

↑保渡田八幡塚古墳5世紀後半築造(復元形)クリック拡大

 

 

 

【参考・引用】

■高崎市ホームページ 浅間山古墳

群馬県埋蔵文化財調査事業団ホームページ

           金井東裏遺跡 甲(よろい)を着た古墳人だより第2~6号 PDF

■東京国立博物館1089ブログ  はにわにも色がある!

■三重県埋蔵文化財調査報告355 飛塚古墳発掘調査報告 PDF

■カミノブログ 「ベンガラってなに?」 

倉賀野浅間山古墳は自宅からは見えないが比較的近所にあります。かなり以前になるが、古代史記事を書き始めた頃に「倉賀野・佐野古墳群(3)-浅間山古墳と賠塚-」で投稿したことがある。今見ると恥ずかしい記事ですが・・・

 

↑倉賀野浅間山古墳の位置

 

倉賀野浅間山古墳10

倉賀野浅間山古墳パノラマ画像(南西面) クリック拡大

 

倉賀野浅間山古墳墳丘長172mは群馬県で2番目、東日本では3番目の規模を誇る前方後円墳です。二重周濠を含めた全長では東日本で最大規模の可能性がある。特に後円部の外壕の幅は40~60mと非常に広い。同時代の太田天神山古墳(墳丘長210m)の外壕幅よりも広いと思います。墳丘は前方部の高さが非常に低い古墳時代前期の特徴を持っている。削平される以前の前橋天神山古墳に形が良く似ています。築造されたのは4世紀後半で末期と判定されているが、個人的には中葉に近い時期だと思います。

 

倉賀野浅間山古墳後円部2

↑2025年2月現在の後円部墳丘 クリック拡大

 

↑埋葬部の調査は行われていないが、墳丘表面の観察調査は行われている。後円部墳頂は平坦で雑木で覆われており、明らかな盗掘跡らしき乱れはない。前方部二段、後円部三段築造と観られるが、墳丘表面も果樹栽培などで変形しており、近所にある同時代の大鶴巻古墳ほど保存状況が良くない。円筒埴輪の設置があったようで墳丘を歩くと破片を見る事ができる。以前5cm四方のハケ跡、朱色彩色のある破片を拾った事があります。ただ原型を留めるような大きな円筒埴輪の出土は無いという。後円部上部には安山岩の葺石が散乱している。また後円部と周濠の境界には葺石が積まれている部分があるので、耕作で削り取った葺石を近代に積み上げたものと思われます。

 

大鶴巻古墳15

↑大鶴巻古墳(墳丘長123m) クリック拡大

 

倉賀野浅間山古墳の至近距離にある同族墓と推定する大鶴巻古墳です埋葬部は同じく未調査ですが墳丘の保存性がよく、段築構造が明確に残っている。典型的な古式古墳です。高崎市教育委員会は築造順序を保留しているが、倉賀野浅間山古墳よりも一世代先行する古墳だと思います。

 

なお、倉賀野浅間山古墳の墳形は4世紀末築造の奈良県佐紀陵山古墳(207m)と似ていると言われている。考古学者によると墳丘規格プランは同一の可能性があるという。明治大学の若狭徹教授は倉賀野浅間山古墳は「佐紀型」、太田天神山古墳を「古市型と分類しているので、畿内王権との関係性において、両者は異なる王権勢力と親和性があったと考えられる。

畿内王権の推移については詳細に触れる余裕はないが、古墳時代前期後半では佐紀古墳群の勢力が王権を掌握し、優位であったと判断できる。しかし古墳時代中期初頭に入ると古市古墳群の勢力が優位になり、王権を掌握したと推測できる。つまり、倉賀野浅間山古墳太田天神山古墳の築造時期、築造順序、および、各々の墳形は畿内王権の推移とぴったり整合するのです。当時としては東国の辺境である群馬県の大首長が畿内王権と繋がりを持っていた証拠となるでしょう。

以下は2古墳の墳丘形状比較です。

 

倉賀野浅間山古墳と佐紀陵山古墳の墳形比較

佐紀陵山古墳(左)と倉賀野浅間山古墳(右)の墳形比較 クリック拡大

 

両者とも後円部のほうが相対的に大きく、前方部長は短く、前方部端の開き幅が少ない。ただ佐紀陵山古墳の方が墳形の保存性が良く、倉賀野浅間山古墳は耕作で周囲が削れらて痩せている事が良く分かります。参考に古市型と呼ばれている太田天神山古墳の墳丘測量図を以下に示します。

 

大田天神山古墳墳丘測量図

↑大田天神山古墳の墳丘測量図

 

古市型では後円部直径と前方部端幅がほぼ同等か、後者の方がやや大きい形状になります。くびれ部の幅も広く、全体にずんぐりした形が特徴です。こうして比べると前方後円墳も設計プランに多くのバリエーションがあることが分かります。

 

倉賀野浅間山古墳は見た目以上に墳丘周囲の削平が進んでおり、前方部のトレンチ範囲調査を行えば180m以上の墳丘長になる可能性もあると思います。不自然な前方部の墳丘端の画像を以下に示します。

 

倉賀野浅間山古墳前方部端

↑耕作地拡大のために削り込んだ前方部墳丘端 クリック拡大

 

 

以下、古墳の画像を時代変遷で示します。

 

倉賀野浅間山古墳1947

↑国土地理院航空写真アーカイブより引用 クリック拡大

 

1947年の画像では二重の周濠であることが水田の地割りでよく分かります。ただ外壕の正確な範囲は地割りでは不明確です。特に墳丘西側は近くを流れる粕沢川の河岸段丘と重なっていて分かりにくい。古墳築造時から河岸段丘と外壕を重ねるのは不自然なので、粕沢川による浸食は後世によるものだと思います。東側は旧中山道に北東端が架かっているのは確実です。全体の形は馬蹄形と言われるが、該当するのは内壕だけです。外壕はむしろ手作りの食パン断面のような形をしています。後円部の周濠幅が極端に広く、前方部は狭いという特殊な形状です。一般に周濠の幅は外壕では一定である場合が多い。内壕と外壕の境界には幅9~10mの中堤が存在する。中堤には葺石が設置されているが、埴輪はまだ検出されていない。外壕の外縁部では時代が下る石製模造品が出土しており、祭祀が5世紀初頭まで行われていたとみられる。

 

倉賀野浅間山古墳住宅造成が始まる前の内堀と外掘りの地割り

↑高崎市史より引用 クリック拡大

 

↑1968年頃には旧中山道が外壕と接する部分から開発が始まっています。前方部墳丘は畑の開墾で墳頂が削られているのがよく分かります。前方部端もかなり水田耕作の為に削られているようです。耕作が機械化すると削平が進む傾向にあります。

 

倉賀野浅間山古墳19981

↑高崎市史より引用 クリック拡

 

1998年頃には後円部の外壕は商業施設と宅地でほぼ破壊されている。この方位から見るとアンバランスなほど前方部が短い。前方部端の削平は現在の地割り以前のものだと思われる。

 

2015年4月11日撮影

 

↑2015年の様子は動画で参照できます。考古学者 矢口裕之氏の投稿動画を引用している。動きが少ないが静止画なみに観察できる。

 

倉賀野浅間山古墳2023年

↑高崎新聞記事アーカイブより引用 クリック拡大

 

↑2023年の墳丘。現在でも宅地開発は進行しているが、2015年以降の開発ペースは落ちており、大幅な違いはない。この地域は住宅調整区域の農地であるが、外壕は恐らく白地で宅地化が可能なのだと思われる。内壕は青地で地目変換できないか、国指定史跡の指定を受けているので開発は出来ないのでしょう。指定を受けると土地の売買は出来るが、所有者は環境保全が義務付けられる。

 

 

 

次稿に続く

 

【参考・引用】

■新編高崎市史 資料編1 原始古代1 

■高崎市ホームページ  浅間山古墳

■「五世紀のヤマト王権と上毛野」白石太一郎 講演録

■『古墳とヤマト政権』 白石太一郎 著 文春新書

■『古墳とその時代』  白石太一郎 著 山川出版社 

■『東国から読み解く古墳時代』 若狭徹 吉川弘文館

Youtube 「倉賀野古墳群浅間山古墳」矢口裕之氏の投稿動画

■高崎新聞 記事アーカイブ「倉賀野浅間山古墳」

■産経新聞 記事アーカイブ「空から測量で3次元データを作成 - 奈良県・佐紀古墳群 -」

■国土地理院 航空写真アーカイブ 高崎市南部1947年

■GoogleMAP

 

ここ数年では珍しく腰の調子がよい。極端に疲労しない限り痛みは出ないようだ。ただ自宅周辺ばかりだとコースに飽きる。そこで今月は少し出張してみた。自宅からは3kmほど離れた高崎城の城郭跡周辺です。現地までは自動車移動して歩きます。

 

高崎城跡地

↑高崎城跡地の現状(上が南西、右が北西) クリック拡大

 

高崎藩は飛び領地を含めると8万2千石の城下です。従って城はそれ程大きくはなかったようです。でも城郭面積はけっこう広く、5万坪以上ある。城郭内に高崎市の公共施設は大方入っています。市役所、裁判所、図書館、保健所、国立高崎総合医療センター、中学校、城址公園、多目的ホール等があります。入っていないのは警察署とスポーツ・イベント施設くらいでしょう。民間施設では郵便局、NTT東日本、JT等がある。特に城址公園(高崎公園)は堀の外にもあり、合わせると総面積は6万坪はあると思います。

 

高崎城城郭周囲を歩く11

↑江戸時代の高崎城郭と現代地図の合成(上が南西、右が北西) クリック拡大

 

↑最外殻のお堀内が城郭範囲です。水色はお堀、緑色は土塁、黒色は通路です。現在残っている外周のお堀は、当時のものから比べると幅が縮小しているようです。二の丸本丸を囲むお堀は全く残っていない。建築物も追手門(正門)が残っているだけです。城郭外周だけを歩いても、一周すると40分くらい掛かります。

 

以下は歩いているコース周辺の紹介です。

 

高崎城城郭周囲を歩く1

↑クリック拡大

↑城郭周りだけではつまらないので、烏川の対岸にあるサイクリング道を入れて歩いている。聖石橋を渡って対岸に渡り、前方に見える和田橋で城郭に戻ります。サイクリング道は自転車ではよく通る道だが歩いた覚えはない。散歩の家族連れがちらほらいます。正面の山は榛名山です。

 

高崎城城郭周囲を歩く2

↑クリック拡大

↑河川の対岸から広角で撮影しても、城郭の南西面は全てが画角に収まりません。おそらく1Kmくらいあると思います。河川敷の樹木で見えないが、南西面は高さ20mほどの崖になっている。天然の要害です。正面建物は国立高崎総合医療センターと高崎市役所です。

 

高崎城城郭周囲を歩く6

↑クリック拡大

↑城郭東側のお堀です。現在の水深は極浅い。内側には土塁が延々と連なっている。城郭南西面を除いて三方にこのお堀が巡っています。本来の堀幅は並行する道路部分を含んでいたようです。歩くのは主に堀の外側道路ですが、街中に入ることもある。

近辺の街並みは、かっては高崎の中心部でしたがドーナツ現象で今は閑散としています。いずれ取り壊されて再開発されるでしょう。高崎の中心街は高崎駅の裏口であった東側に移ろうとしています。

 

高崎城城郭周囲を歩く4

↑クリック拡大

↑本丸のあった場所です。現在はNTT高崎支社と税理士事務所が建っている。

 

高崎城城郭周囲を歩く10

↑クリック拡大

↑明治6年に撮影された本丸周囲の土塁上に建つ三階櫓(右端)です。高崎城には高層天守閣は無かったもよう。高さがあるのは三階櫓です。当時の江戸幕府は華美な天守閣を禁止していました。高崎藩は遠慮して三階櫓という名目で幕府の建築許可を取っていたらしい。でもそれは高崎だけの事ではない。地方の城に本来の天守閣などは珍しく、殆どが二階櫓三階櫓です。それでも土塁上にあるので、かなりの高さはあったようです。実質的には天守閣ですが、撮影翌年には解体されている。因みに手前広場にいるのは軍人です。明治時代の城郭は陸軍歩兵部隊の駐屯地になっていました。前述の国立病院の前身は陸軍病院です。

 

高崎城の構成図

↑クリック拡大

↑高崎城内の構成図を見ると、三階櫓烏川寄りの隅っこにあり、本丸二の丸には各々大きな御殿があったようです。特に本丸の土塁内側は南北150m、東西120m四方の広大なスペースがあります。御殿の面積も相当広い。

 

高崎城城郭周囲を歩く92

↑クリック拡大

本丸北東位置の発掘調査説明会の風景(2009年頃)。質素な天守閣に比べて本丸を囲むお堀の規模は巨大でした。城の防御性は高かったようです。

 

高崎城城郭周囲を歩く7

↑クリック拡大

三の丸の北東端の一角を占めるNTT東日本支社ですが、本社機能も有しているそうです。高崎市は地震や水害が少ないのでNTTはリスク分散のために本社機能の一部を高崎市に置いている。

 

高崎城城郭周囲を歩く5

↑クリック拡大

↑高崎市役所は城郭の三の丸南端部にあります。高崎は風が強いので、倒れないように北西方向に流線形で建てられている(というのは嘘ですが北西を向いているのは本当です)。

なお、撮影のために城郭の中に入っているが、普段は周囲のお堀端道路を歩くだけです。

 

 

 

 

追記1)

高崎城は別名和田城と呼ばれる」という記述を見る事があるが、これは全くの誤解です。高崎城和田城が廃城になった以降に、家康の指示で伊直政が新たに築城した城です。立地が重なっているというだけで高崎城和田城とは無関係です。和田城は鎌倉時代の三浦氏の流れをくむ和田氏の城だが、築城は15世紀の初めで、堀と土塁で囲まれた中世の館程度の規模であったらしい。井伊直政高崎城築城は1世紀後であって和田城は廃墟になっていたという。従って和田城を修復して高崎城としたというのも誤りです。高崎城の城郭南西面に和田城時代の痕跡が残っていた時期もあるが、現在は消失しています。また、高崎には和田、上和田、下和田という地名がある。これは和田城に因んでいるのは確かだが、和田氏とは無関係の地域です。

 

 

追記2)

高崎城というと築城した井伊直政が有名ですが、エピソードとしては、第三代将軍徳川家光と将軍の座を争った実弟松平忠長が蟄居させられた城として知られている家康の孫でありながら兄家光との確執から切腹を命じられた経緯がある。亡くなったのは28歳です。幕府からは再三の更生の機会を与えられ、本人も誓紙を出すなど反省の態度を見せたが、結局、行状は治らなかったようです。先に亡くなった父秀忠も彼を見放していたという。彼の乱行は、織田信長の妹おの娘である母おの過度な甘やかし説、または、統合失調症説があるそうです。結局、家光が将軍になったのは家光の乳母春日局家康への直訴が影響したと言われている。家康も当初は春日局に会う事はなかった。だが江戸城でお忠長への溺愛ぶりを見て気持ちを変えたという。忠長の自制できない性質は幼少期に培われた可能性はあるでしょう。

 

ウォーキング中に彼の墓を見に行ったことがある。高崎駅のすぐ近くにある大信寺という寺に墓はありました。ビルの谷間にある場違いな雰囲気の墓です。昭和初期までは唐門で覆われていたようですが、昭和20年の空襲で焼失したそうです。今は五輪塔が周囲から見えます。

 

徳川忠長の墓唐門

↑松平忠長の現在墓と昭和初期の唐門(大信寺)

 

唐門の背後にある松は「わたかけの松」と呼ばれたそうです。忠長大信寺の伽藍の手すりに片足をかけ、立腹を切って出した腹わたを投げつけたら、この松の枝に引っかかったという話が伝わっている。

その怨念によって此の松は決して江戸に向かって枝を延ばさなかったという。今は松も残っていません。これは大信寺で自刃したという伝承ですが、後世に創作された逸話です。実際は高崎城内で切腹したのが史実です。自刃の間は高崎城解体時に長松寺の書院として移築されたと伝わるが、これも材木が利用された程度の事だと思います。幕府が今の墓を作る事を許可したのは43回忌の事だという。亡くなっても長らく罪人扱いだったのです。なお遺品である、愛用の硯箱、姉千姫(豊臣秀頼正室)から贈られた秀頼の陣羽織(袈裟)、および、自刃で使用した短刀は寺に保管されているそうです。

 

 

【参考・引用】

■新編高崎市史 近代編

■高崎市ホームページ 

■高崎新聞 記事アーカイブ

■ウィキペディア

高崎市には烏川という河川が市の南部を流れています。河床上には大きな岩が幾つか露出している。岩が流域を形成する岩盤から剥がれた物である場合は珍しくはない。しかし其れとは違う異質な岩らしい。古くは「烏川三石」と呼ばれていたそうです。しかし今では忘れられて、知ってる人など殆どいない。そこで、現地に足を運んで目視で確認するとともに、過去の状況も併せて調べてみた。

 

 

(1)聖石(ひじりいし)

先日投稿した「高崎城の城郭周辺を歩く」という記事で使ったのが聖石橋です。その名前は下流100mの河床にある聖石に由来する。聖石橋は昭和6年(1931年)に造られた古い橋です。2007年の拡幅工事を経て現在に至ります。

 

聖石場所google

↑クリック拡大

↑GoogleMAPには聖石橋の下流に聖石の位置が表示されるが、姿は見えない状態です。

 

聖石の場所見えない

 

↑現在の聖石の写真を撮りたくて橋の上から双眼鏡で探しても全く見当たりません。上からのドローン画像でもこの解像度では見えない。河川の中州の土砂と周囲のつる性の雑草に埋もれているようです。また場所が分かっても雑草は背丈を超えており、歩いて行くのは不可能かも知れない。そこで過去画像を集めてみました。

 

2019年の聖石2

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↑2019年の聖石。土砂が堆積して埋もれているのが分かります。また植物の繁殖の繰り返しで、砂利の上に土が出来ている。周囲から見えなくなったのは、この頃からのようです。現在は雑草主体ですが、やがて生え始めている樹木に覆われてしまうでしょう。

 

1998年頃の聖石

↑クリック拡大

1998年(平成10年)の聖石。この画像はおそらく群馬大学の火山地質学者早川由紀夫氏の撮影だと思います。溶岩特有の色と質感が分かります。河床に土砂が溜まり始めていて急速に露出部が少なくなっている。私は中学生の頃、聖石に乗った覚えがあります。たしか此の画像よりも1mくらい地上部に露出していて、よじ登った記憶がある。

 

1936年頃の聖石

↑クリック拡大

1936年(昭和11年)の聖石です。右端にいる女性と比べても、かなり地上に露出している。私が子供の頃、聖石は上流に向かって転がって移動すると言われていた。この話はどうやら嘘だったようです。1998年画像と比べても摩滅しているだけで転がった形跡はない。地層の調査からは、聖石は少なくとも数百年間移動はなかったと言われている。背景の橋は完成から5年後の真新しい聖石橋です。

 

1900代初頭の聖石

↑クリック拡大

↑写真集「高崎百年」からの引用画像。はっきりした撮影時期は分からないが、たぶん明治末期~大正時代のものだと思います。岩の上部に丸い穴が空いているが、高瀬舟を繋ぎ止めるための穴だという。現在、この穴はなく、全体の岩の形もかなり異なっている。鉄道高崎線が開通する明治17年以前は、河岸場のある倉賀野から高崎間は烏川を船で荷物を運んでいた。だが河床が浅くて大型船は倉賀野までしか使えず、高瀬舟に乗せ換えて運んだという。この画像は聖石の説明板にも印刷されている。

 

烏川三石の説明版

↑クリック拡大

聖石の史跡説明板です。これがあることは聞いていたが、探すのに苦労した。烏川右岸の聖石町にある小さな児童公園の中にありました。聖石はおろか聖石橋も見えない公園です。設置の意味がないし、こんなところに置くから皆に忘れ去られてしまうのだと思う。もっとも、今後は完全に土砂に埋もれて再び姿を見る事が無いかも知れません。

 

 

(2)赤石(あかいし)

高崎市下佐野町にある定家神社付近の河川中央部にあります。私の記事の中で良く使う佐野橋からの風景写真にも写っていました。

 

佐野橋

↑クリック拡大

↑橋から500ⅿほど下流に赤石が小さく写っています(丸印内)。

 

佐野橋赤石拡大

↑赤石拡大像

 

トリミング拡大しても質感や色が分かりません。そこで歩いて接近できる場所を探してみた。烏川左岸は高い崖の連続なので河川水面まで下りられる場所は殆どありません。また右岸は崖は無い代わりに雑草で覆われていて水面に近づけない。

 

佐野赤石

↑クリック拡大

下佐野町の定家神から400ⅿほど下流で河川に降りられる道が見つかった。気味の悪い竹藪の中を歩かないと到達できないが、踏み跡はありました。でも女性にはお勧めできない道です。降りた場所から210mmの望遠ズームで撮影した赤石です。背景は榛名山

 

佐野赤石拡大

↑クリック拡大

↑トリミング拡大した赤石画像です。名前ほど赤くないが、少し赤身を帯びている。質感は溶岩であることが分かります。昭和初期にはもっと大きかったらしいが、大水の時に水流が乱れて川岸を削るので上部を壊した経緯があるそうです。

 

赤岩2

↑クリック拡大

↑参考として群馬大学の火山地質学者である早川由紀夫氏が撮影したドローン画像を添付します。岩の質感が分かりやすい。周囲の土砂が少ない時の画像で、二つに分離して見えるが一つの巨大な岩であることが分かます。おそらく地上に出ている部分は、此の画像で全体の10%程度でしょう。前出の私の撮影した最新状態では数%しか露出していないと思います。

 

話は変わるが、私の高校時代の同級生に当地に住んでいた赤石という人物がいる。今思えば赤石とは、この岩から苗字を採ったのだと思う。この付近には赤石姓が何軒かあり、小字(こあざ)にもなっている。

 

 

 (3)川籠石(こうごいし) 

高崎市下佐野町にある一本松橋の上流260ⅿくらいの河川の中にあります。名前の由来は「川越石かわごえいし」であったものが、訛って「川籠石こうごいし」になったそうです。橋が無くて渡し船だった時代、水位の高い時の渡しは危険でした。そこで川越石の水面露出ぐあいで渡れるかどうか判断したそうです。

 

下佐野川籠石

↑クリック拡大

↑ここでも、接近して撮影できる場所を探したが、枯れた雑草が繁茂していて近づけない。結局、260ⅿ離れた一本松橋から望遠ズームで撮りました。

 

下佐野川籠石拡大

↑クリック拡大

↑トリミング拡大した川籠画像です。やはり砂岩とは異なる質感の溶岩であることが分かります。この岩も赤石と同様の理由で昭和初期に右岸の根小屋村住人によって上部が破壊されたという。渡船可否の指標であった岩なので、左岸下佐野村の住人とは本件で争いになったと地元地誌に記録されているそうです。

 

川籠石2

↑クリック拡大

↑前述の赤石と同じく、火山地質学者である早川由紀夫氏が撮影したドローン画像を添付します。上から撮影すると水面下の部分が見えて、その巨大さがよく分かります。左側の水面に露出している小さな岩も、地下では繋がっている一つの巨岩です。

 

 

烏川三石と呼ばれた此れらの岩は源流部を含めた流域にはない組成の巨石です。どうやって此の地に運ばれたのか不思議です。地学が趣味の私にとって興味を抱かせるテーマですが、此れらの岩が壮大な地質史を物語っているのは確かです。本稿は群馬県平野部の地質に関する記事を書くためのネタ収集記事でした。予備記事であって本来目的の記事は別途投稿するつもりです。

 

 

 

【追記】2026年2月17日

烏川の新柳瀬橋を自転車で渡っていて、橋のすぐ下流の水中に石の露頭と思われるものを見つけた。今まで何度も通っている場所であるが、気が付かなかった。場所は高崎市倉賀野町と岩鼻町の境界地点です。これが他の三石と同じような起源なら烏川三石」は「烏川四石」になるかも知れません?

 

高崎市岩鼻町にある河川内の石

↑高崎市岩鼻町にある河川内の石(GoogleMAP)クリック拡大

 

河川内に直線的に並んでいるので、人口構造物(橋梁基礎コンクリート施工跡)の可能性もある。しかし、それにしては河川に対する角度がおかしいので自然石の露頭かも知れません。

 

高崎市岩鼻町にある河川内の石拡大

↑トリミング画像(GoogleMAP)クリック拡大

 

高崎市岩鼻町にある河川内の石8

↑現地での撮影画像(北西から)クリック拡大

 

高崎市岩鼻町にある河川内の石9

↑現地での撮影画像(南西から)クリック拡大

 

橋の上から渇水時に観察すると水中で石は繋がっているように見える。水中に没している部分も恐らく一体のものでしょう。全体的な質感は溶岩のようには見えない。特に二層に分かれた下層は砂岩のような堆積岩に見えます。最後の画像を見ると左側の三角形の岩を除くと、不自然な形、割れ方が顕著なのでコンクリートの基礎跡にも見える。ただ、自然石を人為的に加工している可能性もあります。実際に他の烏川三石も増水時の水流の乱れを防ぐために人為的な加工があるそうです。従って現時点では自然の物か否か判然としません。

 

 

 

【参考・引用】

高崎市ホームページ「聖石橋の歴史」

高崎河川国道事務所ホーム かわづくり「聖石(昭和11年11月)」(画像調整実施)

高崎市 市制100周年記念写真集「高崎百年 ~20世紀時間旅行1900-2000」聖石(画像調整実施)

■ブログ「風景に書き込まれた歴史を読み解く火山地質学者 早川由紀夫氏「聖石/赤石/川籠石」

■ブログ「隠居の思ひつ記」史跡看板散歩「聖石」

■マイブログ記事「交通の要衝 高崎・倉賀野の歴史(2/2) - 倉賀野河岸編 -

■GoogleMAP画像

前稿『痕跡は明確だが調査記録のない古墳「御堂塚古墳」』で佐野屯倉の管掌者健守命の陵墓は漆山古墳、または、御堂塚古墳と推定できると記載した。しかし、もう一つ有力な候補があります。

 

佐野屯倉と緑野屯倉の推定範囲0

↑佐野屯倉と緑野屯倉の推定範囲(佐野屯倉の範囲は不明確)

 

↑前稿でも使った図面にその古墳は記載されている。漆山古墳御堂塚古墳佐野屯倉の推定範囲の烏川北岸ですが、もう一つの候補は南端にある山名伊勢塚古墳です。すぐ南を流れる鏑川の対岸は緑野屯倉になる。だが、健守命の子孫であることが碑文で明確な山上古墳は至近距離にある。従って地理的には山名伊勢塚古墳は有力候補と言えます。

 

↑山名伊勢塚古墳の位置

 

漆山古墳のある烏川北岸は屯倉範囲が不明確です。一説によれば北限は高崎駅東側から倉賀野町を含むという考え方もあります。一方、それ程広がりは無いと見るむきもある。北に行くほど古墳の密度は薄くなる。古代においては墓地と生活地域はそれ程離れる事は少ない。だが、北岸域は江戸時代から栄えてきた土地柄だけに、古墳密度の薄さは当てにはならないかも知れません。江戸時代、明治時代に削平されている可能性が高いからです。

 

山名伊勢塚古墳12

↑7~8世紀の金石文に登場する佐野三家の推定範囲図(高崎市教育委員会)

 

↑冒頭の図面では烏川北岸の屯倉範囲は狭いものとして記載している。これに対して上画像は高崎市教育委員会が作成した佐野屯倉のイメージ図です。佐野屯倉(佐野三家)は烏川両岸に跨るといった認識は、和名類聚抄などの文献から地域の郡域、郷名域をもとに推定している。この推定のほうが正しいとすれば、御堂塚古墳漆山古墳はむしろ屯倉領域の中心にあり、山名伊勢塚古墳は辺境にあると言えます。

 

20221105ウォーキング13

↑佐野屯倉を流れる烏川(左岸は高崎台地、右岸は岩野谷丘陵に挟まれた谷地)

 

佐野屯倉の産業という観点でみると、この地は稲作に適した土地ではなかった。烏川北岸は高崎台地という井野川が運んだ榛名火山の降下物が堆積した土地で標高が高い。烏川という河川がありながら渇水の地でした。南岸は烏川が削った谷地で幅が狭く水害が多い土地柄です。従って北岸では養蚕などの布生産、南岸は石材、木材、瓦や土器等の窯業生産が主流だったと思われます。南岸の岩野谷丘陵には凝灰岩の露頭が多数あり、石切場となっている。周辺の古墳石室はこの凝灰岩で作られています。また、烏川鏑川が合流する地域には「木部町(きべまち)」という地名がある。これは木材の生産に携わった部民の痕跡です。「木部町」は大阪府池田市、島根県益田市にもある。埼玉県には字名で幾つか残っています。

 

 

 

以下に山名伊勢塚古墳の概要について記載します。

 

通称   山名伊勢塚古墳(やまないせづかこふん)

     ※上毛古墳総覧の多野八幡村47号墳

     ※石室の模様積みと八角墳で知られる伊勢塚古墳は南側河川対岸にあって本古墳とは異なる。

所在地  群馬県高崎市山名町伊勢塚775

形態    前方後円墳

墳丘長  約65~70m ※前方部テラス面を含めると70m。

出土遺物 円筒埴輪片、朝顔形埴輪片、形象埴輪片、須恵器片、金銅製馬具、小札甲、鉄鏃

築造時期 西暦575~600年くらい(推定)

現状    現存するが形状改変が著しく墳頂部が無い。盗掘を受けている。

発掘調査 2002~2006年に専修大学により墳丘主軸及び前方部テラス面の調査実施。

     埋葬部は石室羨道部前庭のみで石室内は未調査。

 

概要】

山名伊勢塚古墳は山名古墳群の一角にあり、烏川南岸の片岡地域では唯一の前方後円墳。山名古墳群の中で最大の規模の墳丘長65~70mを有する。二段築成の墳丘には葺石があり、円筒埴輪や形象埴輪の設置がある。円筒埴輪は2条3段が中心で、北側くびれ部検出のものは4条5段もある。後円部には南に開く横穴式石室があり、近在の岩野谷丘陵に産する凝灰岩の切石を積み上げた両袖型横穴式石室である前方部には、墳丘下段に基壇工法によるテラス面が存在し、石積み施設、埴輪列があって祭祀場と見られる。墳丘周囲には周堀が存在した可能性がある。6世紀後半の特徴をもつ遺物が多いが、新相(TK-209)の須恵器や鉄鏃が混じることから、築造時期は6世紀後半だが、6世紀終末期まで追葬が行われていた可能性がある。

 

山名伊勢塚古墳1960

↑1960年の山名伊勢塚古墳

 

↑1960年の周辺の開発以前の画像でも墳丘の状態は現在とほぼ変わらず、墳丘の改変は近年ではないと判断できる。

 

山名伊勢塚古墳8

↑2002~2006年発掘中の山名伊勢塚古墳(航空写真)

山名伊勢塚古墳墳丘図

↑山名伊勢塚古墳の墳丘図(石室を除く白抜部が調査範囲)

 

山名伊勢塚古墳4

↑発掘中の山名伊勢塚古墳(遠景は山名古墳群)

 

山名伊勢塚古墳3

↑後円部から見た墳丘(2010年)

 

山名伊勢塚古墳7

↑後円部から見た北側面

 

山名伊勢塚古墳6

↑前方部から見た北側面

 

山名伊勢塚古墳1

↑前方部正面の遠景(2010年)

 

山名伊勢塚古墳2

↑前方部正面の近景(2010年)

 

山名伊勢塚古墳11

↑石室羨道部入口(右)と羨道部前庭(左)

 

山名伊勢塚古墳10

↑墳丘表面の円筒埴輪と朝顔型埴輪

 

山名伊勢塚古墳9

↑墳丘表面の形象埴輪(人物埴輪片からの復元形)

 

山名伊勢塚古墳の概要は以上。

 

 

 

山名伊勢塚古墳は、発掘調査の結果から推定する築造時期でも漆山古墳とほぼ並行しており、健守命の墓の候補となり得る。だが考古学者の評価でも漆山古墳を推す人と山名伊勢塚古墳を推す人に二分されている。漆山古墳山名伊勢塚古墳の両方を発掘調査した専修大学の土生田純教授は漆山派です。

一方、発掘当時、高崎市教育委員会の学芸員であり、現在、明治大学文学部史学専任教授である若狭徹氏は、山名伊勢塚古墳佐野屯倉の管掌者にふさわしいと述べている。ただ、若狭氏は山上古墳の墓碑にある系譜の捉え方が異なる。健守命とは祖先を神格化したものであり、実在した屯倉管掌者の事績を象徴する存在と見ている。明確には言い切っていないが、架上系譜の疑いがあるという事でしょう。確かに墓碑系譜の中で「命(みこと)」と呼ばれるのは健守命だけです。他の登場者は実名で記載されている。若狭氏の指摘は説得力があります。土生田純教授は両方の古墳を調査していますから、考古学術的には説得力はある。一方の若狭徹氏も群馬県の古代史には精通している実力者ですから無視はできません。笑

 

私個人的には、山名古墳群佐野屯倉の管理に携わった労働者の墓域の可能性が高いと思っている。その中の盟主的陵墓である山名伊勢塚古墳佐野屯倉管掌者にふさわしいと思います。何と言っても確実な子孫の墓である山上古墳が至近距離にあるのは強みだと思う。

しかし一方で、漆山古墳の一歩抜き出た規模90m級という古墳サイズを説明しようとすると、この地域に大きな権力を保持した屯倉管掌者であるのは疑いない。また漆山古墳の周囲にある数えきれないほどの佐野古墳群に埋葬された人たちがどんな労働に従事していたのか説明しようとすると、やはり屯倉管理に結び付けるのが順当と言えるでしょう。数からして一般の地域住民とは考えにくい。首長クラスの古墳について、あえて想像力を働かせれば、以下のような系譜が想定されると思います。

 

     御堂塚古墳ーーーーーーーーー漆山古墳

     (健守命?)      |  (健守命の継承長男で北岸地域を管掌) 

                |

                ーーー山名伊勢塚古墳

                   (健守命の次男で南岸地域を管掌) 

 

個人的には健守命はやはり実在したと思う。土生田純教授も若狭徹教授も御堂塚古墳の埋葬者の位置付けには全く触れていません。もちろん認識はしている筈ですが無視している。でも、漆山古墳山名伊勢塚古墳よりも先行するという私の推測が正しければ、健守命の陵墓にふさわしいと思います。健守命は権勢が大きいから神格化されたのではなく、佐野屯倉の初代管掌者であったから神格化されたのだと思います。築造時期の古さが決め手になる。墳丘規模が漆山古墳よりも小さい事は問題にならないと思います。

 

以下の系譜は山上古墳墓碑に記された系譜です(○印は墓碑では記述省略されている推定世代)。

 

 健守命ーーーーーーーーーーー黒売刀自の父ーーーー黒売刀自(娘)ーーー

初代管掌者  山名伊勢塚埋葬者   山上古墳初代埋葬者    山上古墳追葬者    |

                                              |ー長利(子:放光寺僧)

 

地理的な観点から、山上古墳の初代埋葬者と追葬された娘の黒売刀自は、山名伊勢塚古墳の埋葬者子孫である可能性は非常に高いと推定できる。黒売刀自は勢多郡域に嫁いで長利を生んでいるが、亡くなると生家の墓に埋葬されるのが当時の風習です。刀自とは結婚した主婦を指す言葉です。

なお、山上古墳は山寄せ形式の小型円墳ですが、墓が小さいのは地方にも朝廷の薄葬令が浸透していることが主因でしょう。推定築造期は650~655年くらいです。大化改新(646年)以降であり、名目的には屯倉は廃止されて、公地公民制の時代になっている。ただ、これは日本書紀の脚色・誇張に乗った論であり、大化改新は一気に達成された訳ではない。地方の屯倉は大化改新以降も7世紀末まで存続したというのが定説になっています。黒売刀自の父も佐野屯倉の管掌者であったと思いますが、7世紀中葉までの権力規模とは異質なものに変容していたと思います。これは古墳規模が小さい事の二次要因です。

 

【補足】

大化改新で施行されたとされる公地公民制とは「日本の土地と人民は国家(=天皇)が直接支配する」という法理念。従って国土の全てが朝廷直轄地であるから屯倉の設置は意味を成さない事になる。国造や屯倉管掌者を含む地方豪族たちも例外ではなく、やがて評制(こほりせい)という地域を統治する地方官人に組み込まれる事になる。さらに大宝律令(701年)からは国郡里制に移行する。これらの過程では地方豪族間の相克があり、弱い豪族は淘汰され、全てが官人として採用された訳ではない。評制国郡里制による地方の政治的動揺については別稿で記事にする予定。

 

 

 

【参考・引用】

■新編高崎市史 資料編1 原始古代1 

群馬県古墳総覧 2017 群馬県教育委員会文化財保護課監修

■高崎市ホームページ 山名古墳群、山名伊勢塚古墳

■「2008年度 高崎市山名伊勢塚古墳発掘調査報告書」

  専修大学文学部考古学研究室、高崎市教育委員会 文化財保護課

■論文「立評をめぐる地方氏族の政治行動~群馬県における後期古墳の動態と上野三碑の建碑から

 若狭徹 駿台史学第 165号 75-99頁 2019年

■マイブログ記事「痕跡は明確だが調査記録のない古墳「御堂塚古墳」

■マイブログ記事「健守命の墓か?「漆山古墳」 現地説明会(1/2~2/2)

■マイブログ記事「佐野三家の出自について (1/3~3/3)

■マイブログ記事「新川臣の墓「桐生中塚古墳」 (1/3~3/3)

■マイブログ記事「多胡の羊(1/11~11/11) 」

■漆山古墳  現地説明板地図の画像編集

■国土地理院 航空写真アーカイブ 高崎市南部1960年

■GoogleMAP

 

群馬県高崎市上佐野町に顕著な痕跡を残す削平済古墳がある。痕跡は墳丘跡を囲む生活道路と周壕を囲む道路にはっきりと残っている。このような事例は現代の住宅地においては非常に珍しいと思います。土地区画整理事業が行われる以前に宅地化が進んでしまい、区画整理に取り残されてしまった地域であったため、このような痕跡が保持される事になったと思います。以下にGoogleMAPで古墳位置を示す。

 

↑古墳の位置

 

↑削平された前方後円墳の痕跡(エクレールというアパート2棟が後円部)

 

 

御堂塚古墳13

佐野古墳群(西側)と倉賀野古墳群(東側)  クリック拡大

 

↑削平された御堂塚古墳(おどうづかこふん)は佐野古墳群という群馬県では最も濃密な古墳群に属する。群の中では最大級の前方後円墳です。付近には古い大型古墳の多い倉賀野古墳群も存在する。しかし、濃密だったのは過去の話で、現在まで残存している古墳は僅かしかない。宅地開発と上越新幹線建設の影響で殆どが削平されており、発掘調査された古墳は更に少ない筈です。

 

通称   御堂塚古墳(おどうづかこふん)※上毛古墳総覧の佐野村10号墳

所在地  群馬県高崎市上佐野町寺前477

形態    前方後円墳

墳丘長  65~80m

出土遺物 七鈴鏡、刀剣、勾玉、管玉 ※何れも学術発掘出土ではない

築造時期 西暦560~575年くらい(推定)

現状    削平により消滅(消滅時期は昭和初期)

 

御堂塚古墳1935年上毛古墳総覧地割り図

↑昭和10年の上毛古墳総覧に記録されている御堂塚古墳地割り図(数字は番地)

 

↑今昔マップで確認すると明治40年~昭和9年の地図には山稜マークはある。従って昭和10年(1935年)の上毛古墳総覧の製作調査時には墳丘は残っていたため、佐野村10号墳として記録されたと思われる。完全なる削平は昭和初期と伝わるが昭和10年以降であろう。

 

御堂塚古墳10

↑1948年(昭和23年)の御堂塚古墳の削平跡  クリック拡大

 

↑削平されたのは昭和初期であるが、1947~1948年の航空写真には墳丘跡と周濠の地割りが確認できる。周濠は一重のように見えるが、細い堤で区分された二重周濠の可能性もある。周濠、墳丘跡地は農地だけで建造物、道路はない。墳丘は周辺道路建設用の土取りに利用されたと思われる。

 

御堂塚古墳漆山古墳位置

御堂塚古墳と築造時期の近い古墳  クリック拡大

 

御堂塚古墳12

御堂塚古墳築造時期の近い付近の古墳画像(1947年)  クリック拡大

 

御堂塚古墳は南側に隣接する漆山古墳とほぼ同じ規模であった事が写真で確認できる。1947年には漆山古墳は完全に残存しているようにも見えるが、実際は前方部の半分は削平されている。現在、前方部は残っていない。近年、古墳の土地所有者から高崎市に寄贈されたので、今後は保護されるでしょう。なお漆山古墳の墳長は従来70mと推定されていたが、90mあることが最近判明した。確かに周濠の地割りで見ると御堂塚古墳よりも大きい気もします。宅地化が進んでしまって古墳の正確な範囲調査が従来出来ていなかったのでしょう。蔵王塚古墳の方は1957年に発掘記録されているので墳丘は残っている筈だが、画像で見ると墳丘の有無は明確でない。蔵王塚古墳は群馬県最大級の円墳です。

御堂塚古墳漆山古墳と築造時期が近く、両者とも前方後円墳であることから地域の盟主であることは間違いない。両古墳の距離から各々の埋葬者は血縁親族の可能性もあると思われる。なお、前述の御堂塚古墳の築造時期は専修大学によって発掘調査された漆山古墳の築造時期から推測している。築造順序は、御堂塚古墳(6世紀第3)蔵王塚古墳(6世紀第4四半期)漆山古墳(6世紀終末期)と推定します。推定根拠は以下2点を上げます。

①七鈴鏡の出土

七鈴鏡大和高田市の三倉堂遺跡の木棺群から出土しているが、この木棺は年輪年代法で6世紀初頭と判定されている。七鈴鏡自体が5世紀末期~6世紀中葉の出土例が多く、出土した御堂塚古墳は6世紀築造であるが、末期ではなく中葉に近い可能性が高いと推定できる。漆山古墳は出土遺物、石室特徴から6世紀終末期と判断されている。

 

②築造位置の変遷

この地域の古墳は同型で時代が前後する場合、西北(河川上流)から南東方向(下流)に築造される事例が多い。北側にある御堂塚古墳漆山古墳に先行する可能性がある。

 

 

二つの古墳の築造時期、順番にこだわる理由は次のような経緯によります。

専修大学の考古学者土生田純教授は、漆山古墳の埋葬者山上古墳の墓碑に出てくる佐野屯倉の管掌者であった守命(たけもりのみこと)であろうと推定している。この推定が正しいとすると、守命は初代管掌者ではなく、先代に御堂塚古墳の埋葬者がいた可能性が出てくる。または、御堂塚古墳守命の墓である可能性もある。以下に山上古墳の墓碑に記載される系譜に御堂塚古墳埋葬者を追加して各死亡推定時期(赤字)を記述してみた。各世代間を20~30年とすると、墓碑が作られた681年から逆算した系譜の死亡時期と古墳築造時期は整合性がある。

 

 御堂塚古墳埋葬者ーー健守命ーーーーーー黒売刀自の父ーーー黒売刀自(母)ーー

佐野三家初代管掌     佐野三家管掌        山上古墳初代埋葬者       健守命子孫   |

   570          590   625    655      681    |

                                                 |ー長利(子:放光寺僧)

                                                 |

                新川臣ーー斯多々弥足尼ーーー大児臣(父)ーーー

                  中塚古墳埋葬者   新川臣娘     新川臣孫

                   640年   660年     680年    

 

本稿の推測・結論として、御堂塚古墳漆山古墳は、どちらかが佐野屯倉の管掌者である建守命の墓の可能性が高いと言える。墳丘規模から言えば後者の方がふさわしいかも知れませんが、その場合も御堂塚古墳埋葬者は屯倉の管掌を司る初代盟主であったと考えられる山上古墳の墓碑には681年に埋葬された長利僧の母親は建守命の「子孫」であると記載されており、何代目の子孫か明示していない。従って明確な結論を下すのは難しいでしょう。

 

私自身は守命は埼玉県と神奈川県の屯倉の管掌に携わった吉志氏(壬生吉志、多胡吉志)と推定している。吉志氏上毛野国に入ったのは御堂塚古墳の埋葬者が初代である可能性があります。従来、関東地方の屯倉は書紀の記録よりも下る6世紀終末に始まる考えられてきたが、時代が遡る可能性があるでしょう。

 

佐野屯倉と緑野屯倉の推定範囲0

↑佐野屯倉と緑野屯倉の推定範囲 クリック拡大

 

日本書紀安閑紀2年(535年)に出てくる緑野屯倉は古墳群から至近距離の藤岡市北部です。書紀には出てこないが、山上古墳墓碑に記述される一方の佐野屯倉(佐野三家)も現在の上下佐野町・山名町周辺であるのは確実です。関東の屯倉の始まりは安閑紀という書紀の記述は案外正確なのかも知れません。御堂塚古墳の築造が6世紀第3四半期であれば時期的に矛盾しないからです。

 

御堂塚古墳11

御堂塚古墳の墳丘長の計測  クリック拡大

 

御堂塚古墳は学術的な発掘は行われておらず、昭和初期の周辺道路工事によって削平されたと伝わる。前方後円墳の地割りが墳丘跡と周濠跡を囲むように現在でも道路に痕跡が残っている。しかし、全てが私有地のため立ち入ることは出来ない。現在の区割りの痕跡から、墳丘長65~70m、後円部径約40m、前方部幅約25m程度と判断できる。しかし、墳形が後述する本来の漆山古墳と同型だとすると、元の墳丘長は80m程度なのは確実だと思います。

出土品には、七鈴鏡(しちれいきょう)、刀剣勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)があったと伝わるが、正式な発掘調査ではないため資料的価値は限定的です。七鈴鏡は近隣の神明山西光寺に保管されている。おそらく地域住民による拾得物が近所の寺に預けられたものでしょう。

 

御堂塚古墳15七鈴鏡

高崎市重要文化財に指定される七鈴鏡

 

↑この鈴鏡は古墳の封土を昭和初期の道路工事で崩した時に出土したという。保存状態が良好で振ると良い音色がするという。直径は10.8cmある。古墳の副葬品として納められる鏡は、比較的規模が大きく、地域の中核的な古墳から出土する事が多い。群馬県は鈴鏡の出土が最も多い地域です。だが、各首長が生産していたとは考えにくいので、地域に生産工房があったのでしょう

 

群馬県古墳築造年表

↑該当地域の古墳築造年表(黄色線範囲) クリック拡大

 

想像になるが、広域に勢力を張る同時期の大首長、例えば七輿山古墳(6世紀中葉)や綿貫観音山古墳(6世紀第4四半期)の埋葬者が生産を司り、地域の小首長に下賜された可能性はあると思う。特に後者は築造時代が御堂塚古墳とほぼ一致する。

 

 

 

 

【補足1】守命の陵墓と推定される漆山古墳の実態規模

漆山古墳は前方後円墳の後円部が残存しているが、残っているのは僅かであり、本来の規模は以下の画像で示す通り。墳丘の周囲全周が削られて非常に小さくなっている。また周濠は墳丘規模に比べて幅が狭い特殊な形状です。従って、隣接する御堂塚古墳も地割りだけで本来の墳丘規模を推定するのは危険と言える。一般的に言える事だが、地割ができる以前に墳丘の破壊や改変があれば、地割からの推定は意味がない。確実なのは古墳周囲のトレンチ溝調査に尽きる。

 

漆山古墳墳丘図2

↑漆山古墳の最新古墳範囲調査結果

 

↑等高線の入った点線範囲が現在の残存部。赤線範囲が本来の墳丘範囲。後円部の現墳丘周囲にトレンチ溝を掘って範囲確認している。宅地で占められている前方部側は発掘不能なので、古墳形状の理論的な設計プランから終端を決定している。

 

漆山古墳5

↑Google3D画像における墳丘範囲(黄色点線) クリック拡大

 

 

【補足2】上毛古墳総覧御堂塚古墳(佐野村10号墳)記述

上毛古墳総覧は、1935年(昭和10年)に群馬県が全国に先駆けて実施した、県内に所在する古墳の一斉調査の記録。県内の古墳8400基について、各市町村別に古墳の名称、形状、発掘の有無、所在地や面積、所有者や出土品等の情報が記録されている。調査を主導したのは行政であるが、担当したのは地域の学校の教職員が中心であった。調査対象は、地域住民に古墳と認識され、かつ、調査時点で古墳の墳丘が明確なものが対象となっている。本来、古墳であっても、認識されていないものは掲載されていない。従って、記録されていない古墳も多数存在する。群馬県には少なくとも1万3千基の古墳が存在していたとされる。なお、1935年の調査結果は1938年に刊行された。

 

上毛古墳総覧佐野村10号墳

↑群馬県立図書館デジタルライブラリーより抜粋    クリック拡大

 

上毛古墳総覧御堂塚古墳」項には明治8年に発掘されたと記載されているが、この当時の発掘は歴史専門家による学術的発掘ではなく破壊に近い。墳長は未記載で面積のみ記載されている。現在の面積単位に換算すると5700平方メートルになるが、墳丘面積なのか周濠を含むのか不明。備考を見ると石槨(石室)は大正11年に道路工事のために除去されたとある。昭和10年の調査の時点でどのように古墳が残存していたのか不明確です。

 

 

【参考・引用】

■新編高崎市史 資料編1~2 原始古代1~2 推定古墳築造時期の参照

群馬県古墳総覧 2017 群馬県教育委員会文化財保護課監修

■高崎市ホームページ 高崎市重要文化財一覧

■群馬県立図書館デジタルライブラリー「上毛古墳総覧1938年発行」画像転載

■漆山古墳 現地説明板地図の画像編集

■「2024年度 高崎市漆山古墳発掘調査現地説明会資料」2024年8月31日

 専修大学文学部考古学研究室、高崎市教育委員会 文化財保護課

■マイブログ記事「健守命の墓か?「漆山古墳」 現地説明会(1/2~2/2)

■マイブログ記事「佐野三家の出自について (1/3~3/3)

■マイブログ記事「新川臣の墓「桐生中塚古墳」 (1/3~3/3)

■マイブログ記事「多胡の羊(1/11~11/11) 

■国土地理院 航空写真アーカイブ 高崎市南部1947、1948画像抜粋

■GoogleMAP

 

高崎市を流れる烏川(からすがわ)は五街道の一つ中山道と、明治時代に始まる鉄道高崎線と交わっているそのため川には古い橋が多い。特に高崎市と藤岡市を跨ぐ地域には古い橋梁が残っています。

 

高崎市岩鼻町にある河川内の石5

↑ポタリングコースの新柳瀬橋から見る柳瀬橋(以降、全画像がクリック拡大)

高崎市と藤岡市をつなぐ県道前橋長瀞線にある柳瀬橋ですこの橋は昔の橋によくあるタイプでポニートラス橋梁という。昭和5年(1930年)竣工と意外に古く、土木遺産にも登録されているそうです。

 

柳瀬橋高崎側

↑柳瀬橋の高崎市側

ポニートラス構造の上部構造体が10連結されている。正確にはポニーワーレンス構造と言うらしい。鋼材を三角形と柱で組み上げた上部構造体で左右両端が繋がっていないのが特徴です。天井がないので解放感がある。鉄道専用橋では天井が鋼材で繋がっているトラス構造が多く、650m上流にあるJR高崎線烏川橋梁もそのタイプです。なお下流側の脇にある歩道橋は1977年に追加された。本線橋には自動車専用の標識は無いが、非常に狭くて危険なので誰も歩く人はいない。時たま歩道橋の存在を知らない自転車が乗り入れて恐怖を味わっているくらいでしょう。

 

柳瀬橋構造図

↑橋梁構造図(歴史的鋼梁検索hpより、左が高崎市側、右が藤岡市側)

群馬県には明治43年(1910年)に造られたJR信越本線上碓氷川トラス橋が現存するが、僅か46mしかない。残っている本格的なトラス橋梁は1930年の柳瀬橋350mとJR高崎線烏川橋梁417mになる。この2つは現在ある長い国産トラス橋では国内最古とも言われています。なお柳瀬橋は、上流に新柳瀬橋が出来て国道17号からは外れたが、今でも交通量がけっこう多い。この橋も築後100年になろうとしている。行政では2029年までに架け替えに着手する事が決まり、接続道路の拡幅工事が既に始まっている。接続道路の位置は現状と変わっていないので、架け替え工事中は通行止めになり、通行車両は迂回する事になるでしょう。

 

高崎線烏川橋梁2

↑↓烏川に架かる4つの橋梁(フォトライブラリよりサンプル版を転載)

高崎線烏川橋梁1

↑手前上流側から順に、①JR高崎線下り鉄橋、②JR高崎線上り鉄橋、③新柳瀬橋、④柳瀬橋

画像の4つの橋梁には少し込み入った築造経緯があります。混乱しやすいので、以下に時系列に箇条書きにしてみました。ただ、一般道路橋と鉄道橋には築造上の直接関係は無いようです。

 

(1)画像手前最上流の現在の下り線の更に上流側に初代の高崎線鉄道橋(単線)が明治17年(1884年)5月に開通。画像等は残っていないがトラス構造であったらしい。

 ※日本で最古、最長の鉄道橋であったが、当時のトラス橋は国産ではなく輸入されたものらしい。

 ※1909年以前の高崎線は日本鉄道という私鉄であり、横浜に輸出用の生糸を運ぶ目的で開業した。

  この私鉄が1909年に国有化され、国鉄(日本国有鉄道)となる。

 ※渇水時には一ヶ所だけ残っている初代橋脚の基礎跡が現在でも見えることがある。

 

烏川初代橋梁基礎跡2

↑初代高崎線烏川橋梁(単線)の痕跡(GoogleMAP3D画像を編集)

※初代橋梁は、その後の橋とは違い河川に対して斜めに架かっていた。駅間を直線的に結べて速度を落とさず通過できるメリットはあったが、河川内の橋長が長くなり増水に弱かったらしい。

 

(2)初代の高崎線鉄道橋(単線)が明治17年(1884年)9月の河川増水で橋桁流失。築造後、僅か半年で損壊しているが直ぐに修復された模様。その後も複数回の損壊が発生しているが何れも修復されている。

※修復工事中は両岸に仮駅を創って船で物資を運搬している。運輸業務を止められない重要路線であった。

 

(3)初代の高崎線鉄道橋(単線)が明治43年(1910年)8月の増水で橋脚倒壊。修復不能となったため、現在の上り線のある位置の上流側に二代目鉄橋が1910年に造られた。初代と同じく単線としての新規築造。単線時代は1884年から1930年まで続く。

※現在、二代目鉄橋の橋脚等は残っていないが、両岸の橋台と地上部に線路跡スペースが残っている。

 

烏川二代目鉄橋橋台高崎市側

高崎線烏川二代目橋梁の高崎市側橋台(4travel.jpサイトより転載)

烏川二代目鉄橋橋台藤岡市側

↑高崎線烏川二代目橋梁の藤岡市側橋台(廃鉄の処女Ⅱブログサイトより転載)

 

(4)中山道柳瀬橋は1930年まで木桁橋(もくげたきょう)であった。場所も現在よりも140mほど下流の江戸時代の渡し船のあった位置に架けられていた。しかし、付近には重要軍事施設の日本火薬岩鼻製造所があったため、現在の位置に鉄橋として造り直される。1930年7月に開通して現在に至る。

※火薬製造の搬入搬出には烏川橋梁から近い倉賀野駅まで岩鼻軽便鉄道(私鉄→後に国有化)を使っていたが、将来の道路運搬も考慮して柳瀬橋を強化したと思います。なお岩鼻軽便鉄道については本ブログ記事で詳細に記述している。

 

柳瀬橋旧銘板

↑1930年竣工の記載があった築造時の銘板は壊されている(左側は独立歩道橋)

 

柳瀬橋延伸銘板

↑藤岡市側の銘板は1952年に橋梁が延伸された時のもの

 ※当初は7連結であったが、新たな河川堤防工事に伴い1952年に藤岡市側に3連結が延伸された。さらに1977年に下流側に独立した歩道橋が追加されて現在に至る。

 

(5)二代目鉄橋(単線)の下流側脇に複線化された上り線が三代目鉄橋として新規に造られ、1930年10月に開通して現在に至る。脇の二代目鉄橋は複線化された下り線として継続使用される事になる。

 

烏川橋梁上り線2

↑1930年開通の上り線三代目橋梁(YouTube「車窓マニア」よりキャプチャー)

 ※上画像は2024年に電車前面から撮影された画像なので、上流側右隣にあった二代目橋梁は既に撤去されている。なお、この線路は徒歩で近寄る事は禁止されていて道路もありません。

 

(6)1931年に八高線高崎線下り線に乗り入れたため、下り線鉄橋は八高線も併用して現在に至る。

※高崎線との合流地点は八高線北藤岡駅から150mほど倉賀野駅寄りの場所。八高線は単線。

 

(7)国道9号から17号に改変された柳瀬橋は幅が狭く、渋滞が酷かったため、1969年に上流に新柳瀬橋が造られた。当初は国道17号のバイパスの位置付けであったが、後に正式国道17号となり、現柳瀬橋県道13号線(前橋長瀞線)に格下げされた。

 

(8)現在の上り線鉄橋位置にあった老朽化した二代目鉄橋(下り線)は1970年に廃線撤去となる。1970年に、1910年に流失した初代橋梁跡の脇に下り線鉄橋が新たに造られた。1971年に開通して現在に至る。

※1930年の複線化時に隣り合っていた上下線路が160m離れる事になる。

 

高崎線単線旧下り線跡

↑左側の現在上り線の脇に残る旧下り線の線路跡(中央)、右側は現下り線

 ※新しい鉄橋を架ける場合、JR高崎線のような重要路線の運輸業務を止める訳にはいかない。従って、新橋は旧橋とは別な場所に掛け直す必要がある。上画像の旧下り線の線路跡も将来の現下り線橋の架け替えに備えて保持しておく必要があると思われる。

 

高崎線単線時代の橋台

↑旧下り線の線路跡下に残る橋台(画像は何れも藤岡市側)

 

高崎線烏川橋梁の築造順序

↑高崎線烏川橋梁の築造順(廃鉄の処女Ⅱブログサイトより転載)

※高崎線烏川橋梁は1884年初代橋から1971年現存橋までの築造経緯を纏めると上の図の通りとなる(四代目線とは1971年開通の現行下り線のことを指す)。

※本画像は廃線について踏査取材している「廃鉄の処女Ⅱ」というブログから転載しています。詳しい取材結果についてはURLリンクからブログアクセスが可能です。

 

(9)2024年頃に現柳瀬橋の老朽化対策として、2029年までに架け替え工事に着手する事が決定。先行して接続道路の拡張が進行中。完成すれば柳瀬橋はちょうど100年間の運用になる。

 

 

以上