曽我富男君・通称“喜八”の霊前で弔辞を読んだ。
前日に言われ、一晩悩み、考えて、何とか書き上げた。
女房の前で、一度だけ練習をした。
その時、すでに胸の詰まるのを覚えたが、大丈夫だろうと・・・。
霊前に立ち、遺影を見たら、言葉が出なくなった。
何だよ!こんな筈じゃない!と思ったが駄目だ。
暫く沈黙の内に何とか切り出した。
前半は、殆どが涙声・・・。
中ほどは何とか乗り切ったが、終わりに来て、またもやこみ上げてきた。
最後は“惜別の歌”を歌って締めるつもりだった。
歌は原稿なしで、遺影に向かい、高らかに歌おうと思って遺影を見た!
遺影を見たらこみ上げてきてしまった。
歌が始められない・・・。
「俺を泣かすなよ!喜八」と叫びそうになった。
沈黙・・・深呼吸して、何とか歌い始めた。
途切れ途切れになってしまったが、何とか歌いきった。
両親の葬式の時は、喪主を務めたが泣かなかった。
友の死とは、こんなものなのか?
鼻水と涙が頬を伝った 寅次郎
弔辞
秋深く落葉しきりの季節、それに合わせるかのごとく散り急いだ曽我富男君。
何時もの通称で呼ばせてくれ。 喜八!まだ早いじゃないか。
喜八が居なくなると困るんだよ!皆が。 纏まれなくて。
思い起こせば、俺達は終戦まもなく小学1年生に入った。
喜八とはその時から始まった。
俺は岐阜の空襲で焼き出され白鳥に来た。
よそ者だったが、いじめることなく良く面倒を見てくれた。
食うものもない、住む所もない俺たちに、喜八の親父さんは大工で、古い家を解体して、家を建ててくれた。
小屋のような家だったが、本当にうれしかった。
何もない時代だったが、元気だけは一杯だった。
中学に進み、共に野球部に入り当時の大会を総なめにして白鳥中学の黄金時代を築いた。喜八は一塁手で快速の持ち主だった。
運動会の100m競争ではついに勝てなかった。
社会人となり、暫く野球と離れたが、40歳頃から、共にソフトボールに夢中になった。
シニアソフトボールでは、全国大会も何度か経験してきた。
広島、香川、大阪、志摩、伊豆長岡、石和、小松などで戦ってきた。
試合ばかりでなく、行く先々で美味しいお酒も沢山戴いてきた。楽しかったなー!
酒にまつわる武勇伝を語りだせば、一晩では語りつくせない。
喜八は、チームでは、早くからキャプテン、監督を務め、みんなを牽引してくれました。
時にはかんしゃくも起こしたが、普段は陽気な性格で、人あたりが良く、人をまとめるのが上手かった。
そのリーダーシップは、同級生のまとめ役でも発揮され、喜八の居る所は常に笑いがあり、楽しい存在であった。
喜八は6年前にソフトボールを引退した。
まだ出来るのにと思ったが、病魔はすでに襲い掛かっていたようだった。
それでも、同窓会にはきっちり出て来て、存在感を示し、楽しませてくれた。
一月ほど前に会った時、今年一杯持つかなー・・・と自嘲気味に言っていた。
冗談を言うなよ!弱音を吐くんじゃねぇよ!気持ちで負けるな!と話したばかりだった。 今年の正月は十分超すだろうと思っていた。
だが自分の体は自分が一番よく知っていたのだろうか?
それは、冗談でも、弱気でも無かった・・・。
雑用に追われ、じっくり話せなかった事に悔いが残る。
長年付き合ってきて、推察できなかった自分が何とも情けない。
言い訳じみた愚痴話で、ごめんよ!
瀬木!話に来い!と呼び付けてほしかった。
そんな事で遠慮する間柄じゃ無かった筈だ。
昨晩の通夜、そして今日、実に多くの人がお別れに来てくれた。
これは喜八が如何に多くの人に愛されていたかの証拠であろう。
いや、如何に多くの人を喜八が愛してきたかの証であろう。
素晴らしい人生だった。
だが、願わくばもう少し、共に生きてほしかった。
黒田に次いで、喧嘩相手、相談相手が居なくなってしまった。
淋しいよ!
だがこれも一時の事か。
いずれ我々もそちらに向かう。
それまでの別れだ。
♪ 別れといえば昔より、この人の世の常ナルを、
流るる水に比むれば、夢恥ずかし涙かな。
安らかに・・・いってくれ。
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