広島市は三角州で、砂が堆積してできたもので、人間が手を加えなければ、ほとんど砂浜だったんですよね。でも今は泳げるようなところがどこにもない。ただ一方で堤防の整備をしたおかげで洪水の被害がなくなったのも事実で。

うちの隣町は部落で元々中洲だった。で整備前はつげ義春の漫画「近所の景色」みたいな状況だったらしい。李さんの雷魚が河川の氾濫で逃げた話がありますね。それが福島川が埋め立てられて我が観音地域と地続きになり堤防ができて洪水がなくなった。

そう考えると海岸の埋め立ても仕方がないですね。人命の方が大切だし、部落差別の解消のためならなおさらのことですね。


いまさらながらTwitterをやっていて、将来日本語表記って正式にどんどん短くなるんじゃないだろうか。

「それで」が「で」になるとか、体言止めが当たり前になるとか。

私のように長文をTwitterの文字数に収めようとすると自然にそうなる。


それにしてもTwitterってネーム・ドロッピングをしてる人が多いなあ。

さらにそれを既成事実化しようとして手を替え品を替え。

田中秦延さんなどがよく言う「ウザ絡み」もそのための活動の一環なんだろうな。

でも相手にされていない時点で気がつくべきだよね。


前から思うことだけど、バブル崩壊後一番欠けているものの一つは同情だと思う。70年代は湿っぽい御涙頂戴もののお話が多かった。その反動で80年代のバブル期にはそれを否定する話が増えた。

しかしこの影響で同情というもの自体が否定的に捉えられるようになり、人々は他人に同情しなくなり、しきりと他人に自己責任と言い立て始めた。

その後バブルが崩壊し、それが30年以上続くと日本は没落し、目も当てられないほど気の毒な人で溢れかえってきた。

同情とは「情を同じくする」という意味で、それ以外の意味は含んでいない。

Twitterを見ていてもこの辺りのジレンマでおかしなことを言っている人が多い。

自分自身が困っていて助けを求めているのに同じ立場の人を自己責任だ、自己憐憫だ、努力不足だといって叩き合う。


全部あなたのことでしょうが。



「悪貨が良貨を駆逐する」という言葉があるけれども、この歳になるとこれがよく分かる。

例えば、昔フォークソングが流行ったことがあった。アングラな反戦フォークが流行り、それは鋭利でかっこいい物だったが、それに目をつけたレコード会社などが四畳半フォークを流行らせると一時的に大流行したもののすぐに飽きられてしまい、フォーク自体がカッコ悪いものになってしまった。

まさに「悪貨が良貨を駆逐する」の典型例だが、そのために本来のフォークの魅力が忘れ去られてしまった。

こういう例は枚挙に暇がないが、問題は先の同情の場合のように、この妙な商業化が人々の心を歪めてしまい世の中に悪影響を与えてしまうことだ。彼らは商業化のために受け売りを誇張しすぎなのだ。


よく御涙頂戴ものはカッコ悪いというけれども、プロの作家がお金を貰って期日内に考えた作り話と、実際に自分の人生において何十年もかけてそれをやってのけた体験談は全然別の話だ。

ただし紛らわしいのは前者の影響を受けながら後者を生きてきた人たちだ。彼らは確かに傾聴に値する人生を長年送ってきたはずなのに、いざ話を聞いてみると、月並みな演歌の歌詞の引用みたいな言葉しか出てこない。そのためにその人の人生の実像が見えてこないのだ。これは何とももったいない話だ。

太宰治の小説で、太宰が戦地の兵士が描いた小説を添削する話があるが、彼も大体同じことを言っていたと思う。


大切なことは自分の人生をときどき客観的に俯瞰して、借り物の言葉を使わないで考えてみることだ。自分の人生を借り物の言葉で説明してしまったら、それまでの努力はすべて無駄になってしまい、他人にあなたの人生自体が借り物のように思われてしまうだけだ。


これは例えば反差別、反ヘイトなどでの自己主張でも言えることだ。あまりに自分の私的感情を挟まないように気を使いすぎて何を言いたいのか分からない用語の塊みたいなことばかり言う人がいるけれどもそれこそ下手な演歌の歌詞の引用と大差がない。どうしてもっと自己体験に基づいた自分の言葉で語れないのだろうか。それは上の場合と同じことだと思う。

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