難問は2種類ある。
ひとつは問題自体を解き明かすのが難しい問題。
もうひとつは問題自体は私にとって自明だがそれを解決するのが難しい問題。
前者は例えば数百年誰も解けなかった数学の問題など。
後者は例えばある地域における伝統的な悪習をやめさせるにはどうしたらいいかというような問題。問題そのものは私にとっては自明でもそれを地域社会の人たちにやめさせることは容易ではないのだ。
いわゆる差別問題、難民問題、マイノリティ問題などが容易に解決しないのはそれらが後者の意味での「難問」だからだ。
賢い人が関心を持たない問題は賢くない人たちで考えなければならない。
多くの人が関心を持たない問題は少ない人たちで考えなければならない。
貧しい人にしかわからない問題は常に資金不足との戦いである。
立場の違う人が考え直さなければ解決しない問題を私が考え直しても仕方がない。
他人の足を引っ張りたがる人が関心を持つ問題は足を引っ張られないように取り組む必要がある。
誰でも参加できて誰でも発言できる問題は難問だ。それに取り組む者は応募者全員と面接をしなければならない採用担当者のようだ。
あの賢い人が一緒に考えてくれたら、
あの裕福な人たちが出資してくれたら、
あの人が考え直してくれるだけでいいのに、
せめて彼らには足を引っ張らないでもらいたいのだが、
そんな策で済むのならばとっくに解決してるだろう、
そう思う問題がまさに難問なのだ。
「そんなのこうすればいいじゃないか」と誰しもが思うのにそのように解決しないのが難問なのだ。
「そんなことどうでもいいじゃないか」とみんなから言われる問題こそが難問なのだ。
「そんな古臭い風習はやめてしまえばいいではないか」と言いたくなる問題がいつまでも解決しないのはなぜか。
「そんなの裕福な人が貧しい人に施せば簡単に解決するじゃないか」と言われる問題が簡単に解決しないのはなぜか。
「そんなの賢い人なら簡単に解けるよ」と言われる問題が簡単に解決しないのはなぜか。