生きていると、他人の心の傷に触れてしまうことがある。人は誰しも心に触れられたくないこと、心の闇というものがある。だから、私たちは無闇に他人の心に触れないように、お互いに配慮をしなければならない。しかし、その一方で、私は考える。人間は自己責任において、自分自身の心の傷には己のために触れたほうがよいのではないか。なぜならば、それは自分自身の人格をゆがめている潜在的な要因、つまり、元凶に他ならないのだから。
よくこう言う人がいる。
「今を生きよう。過去を振り返るな。」
しかし、それはどうだろうか。例えば、こういうことはありはしないだろうか。あるところに、Aさんという人がいた。Aさんは受験生だった。Aさんはカンニングをして一流大学に入った。その後、大学を卒業して、一流企業に就職した。その後、仕事の面白さに目覚め、一生懸命がんばり、出世した。そのとき、Aさんはこう思うかもしれない。
「今を生きよう。過去を振り返るな。」
それは本当だろうか。
また、あるところに、Bさんという人がいた。BさんはC子さんのことが好きだったが、C子さんはDさんと付き合っていた。そこで、Bさんは計略をめぐらせて、二人を仲違いさせて、別れさせた。そして、Dさんと別れて落ち込んでいるC子さんを慰めて、ついでに口説いた。そのうちに二人は付き合い始めた。そして、結婚し、子どもが出来て、今は二人で幸せに暮らしている。夏目漱石の「こころ」みたいなものだろうか。そのとき、Bさんはこう言うかもしれない。
「今を生きよう。過去を振り返るな。」
それは本当だろうか。
人間は絶えず嘘をつき、不正をして生きている生き物なのかもしれない。そうすることで、自分に有利なチャンスを掴んで生きているのかもしれない。しかし、そのたびに、その人の知らないうちに、心の中に不純物が入り込んでいるものなのかもしれない。そして、それらはだんだん蓄積してきて、長い歳月を経て、その人の心の中で凝り固まってくる。そして、あるとき、私たちは他人にこれを触られて、ぎょっとする。このぎょっとするものが、他ならない「心の傷」というものなのだろう。これは「心の胆石」とでも呼ぶことが出来るかもしれない。そんなものを放っておいたらどうなってしまうのか。
ついでに言えば、「逆鱗に触れる」という言い方もある。この言い方がされる場合、触れる方が悪いかのように言われることが多いが、問題の原因は触れられる人の方にあるのかもしれない。何故なら、この逆鱗というものは、その人の心の胆石が肥大化したものに他ならないのだろうから。
よくキリスト教徒が「悔い改めよ」という。キリスト教徒ではない、たいていの人はそういわれると、疎ましく思うものなのかもしれない。しかし、それは、言われる人の受け止め方が、言う人の思惑と違っているだけなのかもしれない。
「悔い改めよ」とはどういうことか。それは、要するに「心の胆石」を取り除けということだろう。それは他人に強要されるものではないが、そうしなければ、結局は自分の為にならないものである。それは虫歯の治療を放置しておくようなものではないか。
しかし、念のために言えば、悔い改めるというのは、心の問題の解消であって、そのために実際に何かをしなければならないのかと言えば、一概には言えないだろう。例えば、上の喩えで言うならば、Aさんはいまさら「実はカンニングをして一流大学に入りました」と同僚に告白しなければならないのだろうか。あるいは、Bさんが、これこれでC子さんを口説き落としましたとC子さんに告白をしなければならないのか。それはまた別の問題なのだろう。
諸行無常。この世は絶えず変化するものであり、運命はどんどん変化するものである。だから、AさんやBさんが上のようなことを言ったところで、いまさら取り返しはつかないだろう。人それぞれだとは思うが、余計なことはしないほうがよいのかもしれない。しかし、そんな彼らでも、反省することは出来るだろう。それが悔い改めると言うことなのではないか。そう考えてみると、ときには過去を生きるのも悪いことではないのかもしれない。
最後に言っておくが、他人の心の傷には無闇に触れないように。しかし、自分の心の傷には触れられるようなりなさい。