○恋(こい)は訓読みであり、愛(アイ)は音読みである。
愛(アイ)は外国語(中国語)である。
今、あなたの目の前に、以下の英語の問題があるとしよう。
【問】 "I love you."を日本語に訳せ。
そのとき、あなたは何と訳すだろうか。
ある人はこう訳すかもしれない。
【答】「私はあなたを愛しています。」
すなわち、直訳である。
ところで、実際に、恋人に向かって「あなたを愛しています」という人が何人いるのだろうか。実のところ、「愛しています」は言いにくい。本来のやまとことばではないからだろう。「人類愛」や「隣人愛」が、日常会話において、ぴんと来ないのも、同じ理由であろう。なお、愛の訓読みは「いと(おしい)」である。
○「彼女」(she)という日本語は近代までなかったのだそうな。西欧化にあたり、「彼」と対になる言葉として作られたのだろう。
(「◆西欧語からの訳語「かのおんな」の「おんな」を音読した語。」(大辞泉))
で、この彼と言う言葉も、元々は「[代]遠称の指示代名詞。あれ。」(大辞泉)であって、男性を差す言葉ではない。そのせいか、昔から、「彼女」と言う言葉に違和感を覚える。改めて思ったのだが、日本語の場合、男性であれ、女性であれ、三人称は「彼」でいいんじゃないだろうか。
○文章の価値は、単語と単語の組み合わせ方で決まる。美しい単語は固形スープに似ている。それを文章に混ぜれば、誰でも簡単に美味しいスープが作れてしまう。しかし、誰が作ってみても、味は同じになってしまうのだ。
○美しい言葉(美辞麗句)は文章の固形スープである。それを混ぜると、誰でも美文が書けるのだが、誰が書いても同じような美文になってしまうのだ。(再録)
良い言葉は文章の固形スープである。それを混ぜると、誰でも良い文章が書けるのだが、誰が書いても同じように良い文章になってしまうのだ。
スピリチュアルな言葉は文章の固形スープである。それを混ぜると、誰でもスピリチュアルな文章が書けるのだが、誰が書いても同じようにスピリチュアルな文章になってしまうのだ。
○美しい歌を歌うのと、歌を美しく歌うのは、似て非なる行為である。美しい歌を歌うことは誰にでも出来るが、歌を美しく歌うのは誰にでも出来るわけではない。
良い言葉で文章を書くのと、言葉で良い文章を書くのは、似て非なる行為である。良い言葉で文章を書くことは誰にでも出来るが、言葉で良い文章を書くのは誰にでも出来るわけではない。
【参考】「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」(芥川龍之介 「侏儒の言葉」)
○文章には魂が宿る。文章における魂とはアフォリズムである。肉体に魂が宿るように、文章にはアフォリズムが宿る。ある文章が死んでしまうのは、アフォリズムが抜けてしまうからである。それは生前美しかった人の遺体に似ている。アフォリズムの抜けた文章は、もはや誰も反論することの出来ない「正論」を告げるのみである。正論は常にアフォリズムを含まない。それゆえに正論は常に死に体である。しかし、そんな正論でも生き返ることがある。生き返った正論を我々は我田引水と呼ぶ。
○言葉の生命 = アフォリズム - 処世訓
生体から生命を奪って死体にすることは出来る。死体に生命を与えて生体にすることは出来ない。死んだものを生き返らせることは出来ない。
アフォリズムから生命を奪って処世訓にすることは出来る。処世訓に生命を与えてアフォリズムにすることは出来ない。死んだ言葉を生き返らせることは出来ない。
○言葉には生命がこもると言うが、ほとんどの場合、それは感じ取れない。ところで、言葉は圧縮することが出来る。言葉をどんどん圧縮していくと、だんだん言葉の生命が見えてくる。言葉を極限まで圧縮するとアフォリズムになる。それゆえに、アフォリズムはとても生き生きしている。それはまさに「地の塩」である。
○人間は知的生命体と呼ばれる。人間はいつただの生命体から知的生命体になるのだろうか。人間はアフォリズムによって知的生命を得る。
「初めに言(ことば)があった。」(ヨハネ 1-1)
生命は両親から、知的生命はアフォリズムから。
○アフォリズムが人間を作り出し、人間がアフォリズムを作り出す。鶏か卵か。
【参考】「どのような場合においても、われわれは「思考」という言葉によって、文の”生命”を意味する。それは、それがなければ、文は死んでしまい、単なる音声の羅列か、または一連の書かれた図形に過ぎなくなってしまうようなものである。」(ウィトゲンシュタイン 「断片」 143)
○何かしらを批判するときに、殺傷力の強い言葉は使わないこと。
(噴飯モノ、小賢しい、卑怯、姑息、稚拙・・・。)
それが相手を傷付けてしまうからというよりも、自分が中身のない言葉を書いてしまわないために。殺傷力の強い言葉は美辞麗句と同じくただの常套句である。批判に殺傷力の強い言葉を混ぜると、誰でも鋭い批判が出来る。しかし、誰がやっても同じような批判にしかならないのだ。あなたは美辞麗句を使わないで美しい文章を書けるだろうか。あなたは殺傷力の強い言葉を使わないで批評できるだろうか。もっと抽象化していうならば、あなたは常套句を使わないで文章を書けるだろうか。