あるところに貧しい夫婦がいた。貧しい夫婦は貧しい家庭を営んだ。その貧しい家庭に2人の子供が生まれた。2人の子供たちも貧しくして育った。さて、その2人の子供が大きくなって、それぞれ独り立ちした。
ある日、兄のAさんがこう言った。
「私は、小さい頃、貧しかった。」
すると、周囲から批判の声が上がった。すなわち、「あなたより貧しい人はいくらでもいる」と言うのである。
さて、それに対して、弟のBさんはこう言った。
「私の両親は貧しかったが、貧しい家庭を営みながらも、私を一生懸命に育ててくれた。」
すると、周囲からは批判の声は上がらなかった。すなわち、「あなたの両親より貧しい人はいくらでもいる」と言う人はいないのである。
「私より貧しい人」はいくらでもいるのに、「私の両親より貧しい人」は1人もいないというのは妙である。ある夫婦が貧しければ、その息子も貧しいのが普通である。この両者の違いはどこからくるのだろうか。結論から言えば、貧乏とは相対的なもの、もっといえば、体感的なものなのだろう。それは当事者にとっての体感的であるかもしれないし、聴衆側にとっての体感的であるのかもしれない。別の言い方をするならば、前者の言い方には、自分に同情を要求するような思惑が感じられるのであって、それが聴衆の否定的な気持ちを引き起こすのである。それはともかくとして、問題はその思惑は常にあるとは限らないということである。
論語に「等しければ貧しからず」とある。これは言い換えれば、貧しさは相対的なものであるということである。貧しさを絶対的なものとして捉えると、今にも飢え死にしそうになっているアフリカ難民以外は貧しいとは言わないということになる。しかし、この貧しさの絶対化が成り立たないことは、豊かさの絶対化が成り立たないことを考えれば分かる。世界一貧しい人以外は貧しいと言わないのであれば、世界一の金持ち以外は金持ちとは言わないのだろうか。つまり、ビル・ゲイツやウォーレンバフェット以外の60億人の人間は誰も金持ちではないのだろうか。一般的な感覚から言えば、フェラーリの1台でも持っていれば十分に金持ちである。では、世の中に、フェラーリを持っている人間はどれほどいるのだろうか。彼らが金持ちであるのならば、同様に貧しい人も相当数いるはずである。ところが、世間のどこを探しても、そんな人はどこにもいないことになっているのである。
結局のところ、貧しさはその地域社会における相対的な差によって生まれる。社会全体が豊かであっても、その社会の中で落差があれば、精神的な貧しさは生じる。今日の日本における格差社会を考えてみると分かりやすい。現在の日本社会は、格差社会と言いながら、飢え死にした人の話はまるで聞かない。飢え死にした人は絶対に貧しい人だが、飢え死にした人がいない社会に絶対貧しい人がいないわけではない。ある金持ちがなんでもない日常の話をすると、わりと貧しい人から「それって自慢?」という冷やかしが起こる。しかし、金持ちの人にとってはそれが日常であって、自慢でもなんでもない。面白いことに、それと同じことは、逆の立場においても起こりうる。ある貧しい人がなんでもない日常の話をすると、わりと裕福な人から「それって貧乏自慢?」という冷やかしが起こる。しかし、貧しい人にとってはそれが日常であって、自慢でもなんでもない。自分の話が自慢かどうかは、言い手の問題だが、他人の話が自慢に聞こえるかどうかは、聞き手の問題である。