【小説】長谷川さんのこと


最近、いつの間にか仕事がきつい。その上、通勤時間も長い。

毎晩、夜遅くに帰ってきて、布団に入る。

強い酒を飲んで、寝るせいか、いつも明け方に目が覚め、うとうとしていると、不思議な夢を見る。

たいていは小さい頃の夢だ。

昨日は小学生の頃の夢を見た。

その日は、小さい女の子が箱を持って下駄箱のある入り口に立っていた。

あれは何の光景だっただろうか。


小さい頃、ひどく古いアパートに住んでいた。

風呂なしのひどくグラグラする汲み取りのトイレしかないアパートである。

定期的にバキュームカーが来て、糞尿を汲み取っていた光景が思い浮かぶ。


その当時、うちのアパートの近くに、近所でも一番大きなパン屋兼雑貨屋があった。

今思い出してみると、なんでもない小売店なのだけれども、当時はとても大きなお店に見えた。

その雑貨店を営んでいたのが、長谷川さんというご一家で、その長谷川さんのうちには、僕と同い年の女の子がいた。

僕は彼女と幼稚園のとき、同じ組だったと記憶している。

小柄な体に、長い黒髪で、黒い瞳がくりくりしていた。

何を考えているのか分からず、彼女はいつもぼうとしていた。


その彼女の雑貨店が、僕が小学校低学年のときに、リニューアルされた。

大手製菓メーカーの資本が入ったのか、今で言うコンビニのような作りになっていた。

そのことで、僕は心密かに長谷川さんのことをうらやましく思っていた。

自分もこんな店の息子だったら、賞味期限の切れた菓子パンを好きなだけ食べてみたいものだと思ったりしたものだ。


ところが、しばらくして、僕が昔住んでいた、その界隈で近所で連続放火事件があるという話を聞いた。

毎月、月末になると、30日か、31日に放火事件があるというのである。

その頃、僕はすでに別の丁目に住んでいたので、この放火の件を他人事のように聞いていた。


それから、しばらくして、長谷川さんのお店が放火されたというニュースを聞いた。

自転車で彼女の店の前を通りかかると、店はびしょ濡れで真っ黒に焼け焦げていた。


それからしばらくして、長谷川さんは、小学校の校舎の端の下駄箱のある入り口で募金箱を持って立っていた。

長い黒髪、くりくりとした黒い瞳で黙って箱を持って、人形のようにじっと立っていた。

その後、一週間ぐらい、彼女はずっと入り口に立っていた。

僕は彼女がひどく気の毒に思えた。

しかし、今思い出してみると、僕は彼女のために1円も募金をした記憶がない。

当時、僕は20円のガチャガチャがしたくて、その10円が足りなくて、友達に10円を借りて、翌日、その友達が母の前で、「彼に貸した10円を返してください」と言われて真っ青になっていた頃だ。

そんな頃だから、彼女のために募金するという発想がない。

1円より小さな硬貨は、当時すでに流通していなかったのである。

月収30万円のサラリーマンが3万円を寄付しようと思うことは難しい。

それと同じくらいに、当時の近所の子供にとって、10円の中の1円は希少だったのだ。

それ以前に、当時の僕には、かわいそうな人を見て、かわいそうだと思いながら、自分で何とかししようという発想が浮かばなかった。


先日、僕は、明け方に、布団の上で、上の光景を思い出した。そして、とても残念に思った。

もし今だったら、1万円でも募金したのだろうが、当時、そう思わなかった自分がとても歯がゆく思われた。

貧乏な生まれの人間にとって、貧乏性は貧乏以上に厄介な代物である。

貧乏は努力で克服することが出来るが、貧乏性は努力で克服することがとても難しい。

僕は今も貧乏性に振り回されている。

先日の四川省の大地震で遅ればせながら、小銭を募金をするのがやっとなのである。

遠い昔の思い出。

ときどき、小さい頃のことを思い出しては、上のようなことを残念に思うのである。


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【言葉】ダンマパダと福音書 その1
テーマ:言葉

仏教の最初期の書であるダンマパダとキリスト教の経典である新約聖書に収められた福音書の共通点について、以下記す。ダンマパダの方が成立時期が古いと思われるので、こちらから先に掲載する。ダンマパダは中村元訳であり、福音書は新共同訳である。


「花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流していくように、-
花を摘むのに夢中になっている人が、未だに望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。」(ダンマパダ 4 47,48)

「愚かな金持ち」のたとえ(ルカによる福音書 12 13-21)



「愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。」(ダンマパダ 5 73)

「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコによる福音書 12 38-40)



「一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。」(ダンマパダ 5 75)

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書 6 24)



「人々は多いが、彼岸に達する人は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。」(ダンマパダ 6 85)

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイによる福音書 7 13-14)

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカによる福音書 13 24)



「賢者は欲楽をすてて、無一物になり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。」(ダンマパダ 6 88)

「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイによる福音書 19 21)



「功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。」(ダンマパダ 8 108)

「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」(ルカによる福音書 11 42)



「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」(ダンマパダ 12 158)

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書 7 5)



「他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。」(ダンマパダ 18 252)

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太には気がつかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。」(マタイによる福音書 7 3,4)


【翻訳】キリスト教徒のための「老子」入門 その1
テーマ:翻訳

新約聖書を参考にしながら、「老子」を創作的に翻訳する。必ずしも原文に忠実ではない。
なお、本文の次の()内の訳は中公文庫における小川環樹氏によるものである。


第2章

「天下、皆、美の美為ることを知る、これ、悪なるのみ。皆、善の善為ることを知る、これ、不善なるのみ。」
(天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこから悪(みにく)さ(の観念)が出てくる。(同様に)善を善として認めると、そこから不善(の観念)が出てくるのだ。)

toraji.com訳
「世の人々がそろって美を美として褒め称えるとき、あなたがたは気をつけなさい。
そこから醜さは生まれてくるのだ。
また、世の人々がそろって善を善として褒め称えるとき、あなたがたは気をつけなさい。
そこから偽善は生まれてくるのだ。」


第3章

「(是を以て聖人の治は、)其の心を虚しくして、其の腹(ふく)を実(み)たさしめ、其の志を弱くして、其の骨を強くす。」
((それゆえに、聖人の統治は、)人民の心をむなしくすることによって、人民の腹を満たしてやり、かれらの志(のぞみ)を弱めることによって、かれらの骨を強固にしてやる。)

toraji.com訳
「心の貧しい人々は幸いである。あなたがたは満たされる。
望みの少ない人々は幸いである。あなたがたは丈夫な体を得る。」


第4章

「道は沖(ちゅう)なり。而(しこ)うして之を用うるに或は盈(み)たず。」
(「道」はむなしい容器であるが、いくら汲み出しても、あらためていっぱいにする必要はない。)

toraji.com訳
「神の国を何に例えよう。それは汲めども尽きない容器に似ている。
それは一見空っぽのようでいて、いくら汲み出しても尽きることなく、改めて満たす必要もないのだ。」


第5章

「天地は仁あらず。万物を以て芻狗(すうく)と為す。」
(天と地には仁(いつくし)みはない。(それらにあっては)万物は、わらでつくった狗(いぬ)のようなものだ。)

toraji.com訳
「天に人の情けを求めてはならない。天は神の玉座である。
地にも人の情けを求めてはならない。地は神の足台である。
天地において、あなたがたはわら細工の狗に過ぎない。」


「聖人は仁あらず。百姓(ひゃくせい)を以て芻狗(すうく)と為す。」
(聖人にも仁(いつくし)みはない。(かれにとって)人民どもは、わらでつくった狗のようなものだ。)

toraji.com訳
「聖人に向かって「主よ、主よ」と言う者が皆、憐れみを受けるわけではない。
そう言いながら天の父の御心を行わない者に対しては、聖人はきっぱりと言う。
「あなたたちのことは全然知らない。わら細工の狗ども、わたしから離れ去れ。」」


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【翻訳】キリスト教徒のための「老子」入門 その2
テーマ:翻訳

第7章

「天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。」
(天は永遠であり、地はいつまでもある。どうしてそうであるかといえば、自身の命を育てようとしないからだ。だから、あんなに長く生きているのだ。)

toraji.com訳
「天も、地も、自らの命を得ようとしなかったために、永遠の命を得た。」

参考
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うがわたしのために命を失う者は、それを得る。」
(マタイ 16 25)

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
(マタイ 6 27)


「是を以て聖人は、其の身を後にして而も身は先んず。」
(それゆえに聖人は(人の)背後に身をおきながら、実はいつも前方にいる。)

toraji.com訳
「聖人はいつも最後にやって来て、最初に迎えられるものだ。」

参考
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
(マタイ 16 25)

「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
(ルカ 20 44)

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカ 14 11)


「其の私無きを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。」
(かれは個人的なことのために力を出さない。まさにそのために、かれの個人的なことがなしとげられるのではないか。)

toraji.com訳
「自分のために力を発揮しようと思う者は、かえってそれを成し遂げることが出来ない。」

参考
(マタイ 16 25 先述)


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【日記】早川義夫さんのライヴを見ました。

昨日は早川義夫さんのライヴを見ました。

3月19日の「音楽が降りてくる夜」という公演です。
http://www15.ocn.ne.jp/~h440/live.html


今働いている場所が八王子の奥地にあって、そこから会場の外苑前まで、定時に出てもぎりぎりぐらい。

仕方がなく、特急あずさに乗ったら、中野あたりで列車事故が発生して停止。

なんでも、前の車両のドアが走行中に開いたとか。

無茶苦茶じゃ。(´・ω・`)


けっきょく、10分遅れで、到着。

雨の中、何とか、間に合ったんじゃけど、お金を下ろしてなかった。

どうしようかと思ったら、チケット代とちょっとぐらいはある。

まあ、ええわ、と思うて、ワンドリンクで生ビールを注文。

で、つまみに、生ハムをつまむ。

美味いのう。(^ω^)


それから、しばらくして、ライヴ開始。

早川さんは濃いグレーのジャケットに赤いシャツを着てらっしゃっていた。

何曲か歌って、ジャケットを脱いで、歌いだした。

ああ、いいなあ、知ってる曲ばかりだ。

口の中で一緒に歌いながら、聞いている。

ピアノの音がとてもよいですね。

ずんずんと響いてくる。

やっぱりCDよりも、生の音のほうがいい。

普段、なかなかライヴに行かないので、ついついその事実を忘れてしまう。


そのうち、「純愛」のイントロが聞こえてきた。

ああ、この曲をやってくれてよかったなあ。


♪君と自転車に乗って 買い物に出かけよう

 ただそれだけで 幸せになる

 壊れても不思議はないのに 僕らは仲良しだよね

 だから困るね せつなくなって

 純愛の花が咲く

 純愛の鐘がなる

 ふたりはひとつになる


 最高の幸せと 最高の悲しみが

 僕らを襲う 嵐のように

 なぜに僕らは求め合い なぜに僕らは憎み合う

 心の底では 信じているよ

 純愛の花が咲く

 純愛の鐘が鳴る

 ふたりはひとつになる

 「純愛」(作詞・作曲:早川義夫)


この歌をよく聞いていた頃、僕は彼女と自転車に乗って、出かけた。

彼女の自転車を僕が漕いで、彼女が後ろに乗っていた。

そしたら、彼女のかかとが、車輪のスポークに挟まって、車輪が歪んでしまった。

いつまでも、こんなことをしていられたら、幸せだなあと思っていた。

けれども、僕の生き方よりも、人生の時間がたつのが早くて、気がつくと、僕はいつの間にかまた独りぼっちになってしまっていた。


それからしばらくして、同じアルバム「花のような一瞬」の収録曲「グッバイ」も歌ってくれた。


♪残酷な歌を聴かされて 君と最後の食事

 テーブルには紫の花が いっぱい咲きこぼれていた

 全力で愛さなかったから 君を見失ってしまった

 生きていくのが 恥ずかしくなるほど

 思いっきりふられて 打ちのめされる

 どうしてもなじめないものがあって 好きなところだけ愛してた

 何か得体の知れないものが 始終僕を襲っていた

 すべてを愛せなかったから 都合よく愛していただけ

 天国から地獄まで 真っ逆さまに突き落とされ

 みごとに捨てられ 君を失う

 バイバイ グッバイ バイバイ グッバイ

 バイバイ グッバイ バイバイ


 突然狂いだしては君を泣かせ 何度も飛び出してはドアをたたき

 心が離れていかないから 別れることもできなかった

 それでも君はうまくいくよと 好き同志ならうまくいくよって

 どこまでも優しく どこまでも強く

 燃え尽きていくのを じいっと待っていた

 いつも いつも

 君だけを 思ってた

 バイバイ グッバイ バイバイ グッバイ

 バイバイ グッバイ バイバイ

 「グッバイ」(作詞・作曲:早川義夫)


このアルバムが発売されたのが、’96年だから、もう12年も僕はこれらの歌を聞いていた。

その間に彼女と出会い、一緒に暮らし、そして見失ってしまった。

時が流れるのは早いものだね。


その後、休憩を挟んで、何曲か、歌ったあとに、ゲストで、鈴木亜紀さんが3曲歌った。

これがまた早川さんと違った素敵な歌で、とってもよかった。

昔、初めて矢野顕子さんの歌を聞いたときに、すごいなあと思ったけれども、彼女にも何かワンアンドオンリーな魅力を感じました。

今度、CDを買おう。


それから、また、早川さん。

最後ぐらいに、早川さんが4月の新宿ライヴのチケットが出口で売ってるという話をしていた。

しまった、お金が足りないなあ。

でも、チケットはぴあでも買えるだろうからまあいいかとあきらめる。


最後は、アンコールで、早川さんが「サルビアの花」を歌って、おしまい。

なんとも素敵なライヴでした。

ライブハウスと違って、細長いバーの隅で歌っていたので、なかなか正視して聞いてられなかったのだけど、こういう聴き方もいいのかもしれない。

歌を聞いている間、ずいぶんたくさん考えごとをしてしまった。

でも、メモれないから、考えた先から忘れてしまった。

でも、一度でも考え付くと、いつかまた思い出すから、大丈夫だろう。


それから、帰ろうかと思って出口を見ると、早川さんがいるではないですか。

どうも、出口でDVDや書籍の販売をして、サインをしてくれるらしい。


しもうた。お金がないわ。(`ω′)!


しかたなく、いったん、外に出て、道路の向こうのコンビニでお金を下ろしました。

帰りに信号待ちして、冷や冷やしたけど、間に合った。

でも、戻ってくると、顔が汗をかいているのに気がついた。

トイレに入って、顔を洗って、あれこれして、これでよしと思って、出てくると、すでに販売が終わってました。


待ってー。(´;ω;`)


何とか、係りの人に頼んで、早川さんに引き返してもらって、本とDVDにサインと握手をしてもらいました。

以前に何度か、メールでお話させていただいたので、toraji.comですと名乗ったら、にっこり笑って、また握手してくれました。

どうして、こう、僕はいつもいつも手際が悪いのだろう。(´;ω;`)

4月の新宿ライヴのチケットを買うのも忘れてしもうたし。

なんとか、チケットを手に入れて、また歌を聴きたいです。

今度のライヴは、鈴木亜紀さんとジョイントライヴだそうです。

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4月29日(火・祝) 愛は伝染する

http://www15.ocn.ne.jp/~h440/live.html


会場 新宿ゴールデン街劇場(東京都新宿区歌舞伎町1-1-7 マルハビル1階 03-5272-3537 新宿ゴールデン街内花園三番街花園神社裏手。JR新宿駅東口より徒歩10分。西武新宿駅より徒歩8分。地下鉄都営新宿線・丸の内線新宿三丁目駅より徒歩5分)地図a、地図b
出演 鈴木亜紀(Vo,P)/早川義夫(Vo,P)
開場 午後4時30分 開演 午後5時
発売 前売3500円 当日4000円(限定60名様。当日券は販売状況によります)
予約・お問合せは OFFICE HALまで。http://hal.coco.co.jp/officehal/
申し込みはメールで(件名に「4月29日ライブ」と記入) hal@coco.co.jp
携帯からは http://hal.coco.co.jp/officehal/m/
メールのない方は、アイピーエー 03-5790-0049までお問合せ下さい。

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楽しみじゃのう。(^ω^)

みなさんも、ぜひ見に来んさいや。


じゃあの。(`ω′)!


注:本文中の歌詞の引用については、以前に早川さんご本人からご承諾をいただいています。




【日記】鈴木亜紀さん&早川義夫さんライヴを見ました。(^ω^) (一部)


アンコールで、亜紀さんがお祭りの歌を歌う。

この歌は自分の地元のお祭りの歌だそうで、その地元では女性は不浄なので祭りに参加してはいけないのだそうな。

亜紀さんは「トラウマを歌にするとよい」と言っていました。

これはよくわかりますね。

僕もよく自分自身の胸の中にあることを文章にしますが、そうして出来た文章は多くの人の共感は呼ばないのだけれども、自分ではとても納得のいくものができる。

で、そういうものが不思議と、少数の人たちから強い共感を得たりする。

そういうものが、結局は名作として残るのだと思う。


ライヴが終わって、帰りに亜紀さんのCDを購入。

前に外苑前で見たあとで、レコード屋で探したんだけど、見つからなかったんですよ。

ようやく買えました。当分、うちのCDプレーヤーの中をぐるぐる回っていることでしょう。

とても、満足な一日でした。


ところで、今日のライヴのタイトルは、「愛は伝染する」でした。

早川さんがつけたタイトルだそうです。

僕はよく、不幸や憎悪は感染するって思う。

【人生】不幸とは何か?
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10038119907.html

憎しみは人から人へ簡単にうつってしまうではないですか。


とは言え、他人との接触を避けてしまうと、愛もいつまでたっても伝染してこないですよね。

たとえば、人と接しない仕事をしていると、嫌な人とは出会わないけれども、好きな人とも出会わない。

昔から、常々思うのだけれども、愛と憎しみってなかなか切れない。

表裏一体なのかもしれない。

やっぱり両者は預金と借金の関係なのかもしれない。

【思索】愛から憎みを差し引いて、なお残るもの

http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10042086324.html


それでも、僕はジンゴイズムは好きではないので、愛は持っても、憎しみは持ちたくない。

人を憎まないで暮らしたい。


自分が日本人と韓国人のハーフだからそう思うのかもしれないけれども、特に、いろんな民族(純血種の人たち)が対立しているのを見ると残念だなと思う。

昨日も書いたけれども、正義って勝ち取ったり、独り占めしたりするものではないと思う。

【断片】日々、気付き、しばらく考えては、消えていくこと その15

http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10091809914.html

「我々の方が正義だ」という主張は、それ自体、どこか変だ。

最近のチベット問題の報道などを見ていても思うのだけれども、正義は棒倒しの旗じゃない。

正義って、何か別のもの(悪)と対立したり、雌雄を決するようなものではなくて、すべてのステークホルダー(利害関係者)が共有するものだと思う。

そういう意味で、正義は和や愛に似ているものなのではないかしら。

愛が国境や民族の枠を超えて、伝染するとよいのだけれども。


【映画評論】ヒョンジェ その1
テーマ:映画評論

先日、「ヒョンジェ」という映画を観ました。Satomiさんがブログで紹介していた映画です。とてもよい作品だったので、それについて書いてみようと思います。

映画の公式サイトは以下。

ヒョンジェ公式サイト
http://www.hyungje-movie.com/

ストーリーは上のサイトの「ストーリー」を参照。
キャスト、スタッフなども同様に参照。


この作品は1968年に発生した川崎シージャック事件から始まります。この冒頭において、ある男(金山一彦)がクルーザーを乗っ取り、ライフルを振り回しているところを、警察の狙撃手・加納靖史(奥田瑛二)によって射殺されます。

シージャック事件と聞いても、30代前半以下の人にはあまりぴんとこないかもしれません。私は’71年生まれですが、小さい頃、ハイジャック事件やシージャック事件という言葉をよく聞きました。当時は冷戦時代で、学生運動などが盛んな時代でした。で、共産主義革命やその他の思想のために、立てこもりやハイジャックなどを起こす若者がよくいました。また、銭湯に行くと、連合赤軍などの指名手配犯のポスターが張っていたものです。

ところで、この「川崎シージャック事件」というのは、おそらく、以下の「瀬戸内シージャック事件」と呼ばれた実在の事件をモデルにしたものと思われます。

瀬戸内シージャック事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ただ、この瀬戸内シージャック事件は在日問題や政治活動とは関係ありません。しかし、映画の中では、次第に在日問題との関連が明らかにされていきます。この在日問題の部分については、同じく、以下の実在の事件をモデルにしたのでしょう。

金嬉老事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AC%89%E8%80%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6

つまり、劇中における「川崎シージャック事件」とは、「瀬戸内シージャック事件」と「金嬉老事件」を合成して作られた架空の事件ということでしょう。ですから、この映画を観るとき、年配の人なら、あの頃の時代背景を考えながら観るのでしょうが、若い人はそのあたりがぴんとこないかもしれません。彼らには、映画を観ていても、単に「若者がクルーザーを乗っ取り、ライフルを振り回して暴れていたら、射殺された」ぐらいにしか見えないかもしれません。

ところで、些細なことですが、この映画を観ていて気になったのが、時代考証の部分。予算の都合などから仕方がなかったのかもしれませんが、’68年のシージャック事件のシーンで出てくるパトカーの年式が新し過ぎたのが気にかかりました。’80年代後半以降の六代目マークⅡのような平べったい形の車が使われていたのですが、’60年代後半というと、私は生まれていませんが、現役のパトカーとしては、二代目トヨペット・クラウンや410ブルーバード(共に製造は’67年まで)など、丸みのある型が多かったのではないでしょうか。このシーンは幸い役者さんの出演部分ではないので、DVD化されるときには、撮り直すとよいかも。また、人質の女性たちの水着も、ゴーゴーを踊り狂ってるような’60年っぽいデザインだとよかった。

このシージャック事件において、狙撃手が犯人を狙撃します。銃弾は胸部に当たり、犯人は亡くなります。


さて、時代が変わって、それから11年後の’79年。高校生の若者たちがバンドを組んでロックを演奏をしています。また、彼らは近所の朝鮮高校の不良学生たちに睨まれており、しばしば喧嘩を売られたりしています。そのバンドのリードボーカル加納純(高野八誠)で、彼の父が実は先のシージャック事件において犯人を狙撃した加納靖史です。彼は警察をやめ、妻を若くして亡くし、今は大阪の町工場で働きながら、酒びたりの日々を送っています。

バンドはキャロル風で、劇中でも「ファンキーモンキーベイビー」を何度も歌っています。キャロルの解散は’75年ですが、その4年後でもヤンキーの間でもかなり人気があったのだろうと思われます。私は永ちゃんと同じ広島出身なのですが、広島でも永ちゃんの人気はかなり高かったです。その後、’80年代になると、BOØWYのヤンキー人気が高くなります。(ボーカルの苗字が加納なのは、外道の加納秀人と関係があるのでしょうか。)

この頃は、本当にヤンキーが多かった。私が生まれ育ったのは、いわゆる部落がある地域で、部落の人や在日の人が多かったのですが、ヤンキーも多かった。ちょうどこの映画のような感じですね。ただ、この映画と私の生まれ育った環境の決定的な違いは、在日の人とそうでない人の区別が付くか付かないかでしょう。

在日がこういったドラマの題材として取り上げられると、この映画のように大阪などの都心部、特にコリアタウンと呼ばれるような密集地に住む在日の人が登場することが多いようです。彼らは出自を隠さず、本名で暮らしていることが多いようです。また、政治的な意識の強い人が少なからずいるようです。

そのためか、メディアを通じて在日のことを知った人の中には、在日の人はみなこういった暮らしをしているのだと思っている人が少なからずいるようです。しかし、実際には、こういった人たちは、都市部のような、在日の人が多い地域に住んでいる人に多いのではないかと思います。そういった地域では、集団で暮らしている分、組織的な自衛策が講じやすかったり、民族教育に熱心だったりして、比較的自分たちの出自を名乗りやすい環境にあるのではないでしょうか。

上の話は、逆に言えば、田舎に行くほど自分が在日であることを公言して暮らすのは難しいということなのかもしれません。私の母は在日韓国人ですが、私自身、小さい頃から、こういう在日社会になじみがありません。これはのちに考えてみたことなのですが、私の母が意図的にその関わりを避けていたためだと思われます。この点については、以前にも自分のブログにも何度か書きました。


また、先述のとおり、私が生まれ育った町は部落がある地域で、在日の人が多かったのですが、この映画の登場人物のように本名を名乗っている人を見たことがありません。少なくとも、中学の卒業アルバムを見ても、本名で名前が掲載されている子は一人もいないように思います。それらしい名前の人は多いのですけれどね。

先述の「金嬉老事件」の犯人、金嬉老も故郷・静岡の田舎で、日本名を名乗って暮らしていたようです。

「私の整備士手帳では本籍・静岡県掛川市、名前も金岡安広という日本名になっています。

「朝鮮人では就職できない。お願いだから朝鮮籍にしないで欲しい。」

刑務所の十合という幹部職員にそうお願いして、わざわざ作ってもらったものです。」

「われ生きたり」 金嬉老 (新潮社 1999年)

つまり、同じ、在日と言っても、都心部と、田舎では置かれていた環境がかなり異なるように思われます。




(お断り:以下の記事はDVDなどを見ながら書いている訳ではないので、細かいところで実際の内容と違っているところや、シーンが前後しているところがあるかもしれません。気になる方は映画を観て確認してください。)

バンドで歌っていた加納純らは、ある日、朝高の学生たちに襲撃されます。その後、橋の下(?)で灯油缶などで作った自家製のドラムを叩く一人の青年に出会います。それがキム・ヨンチョル(ハ・ヨンジュン)です。この時点で純はヨンチョルが在日であることを知りません。

その後、再び、彼らは朝高の学生たちに襲撃され、逃げた先で朝高側にいたヨンチョルと出会います。そして、純は、朝高の学生たちに受けた怪我を理由にしてバンドを降りたドラマーの代わりに、ヨンチョルをバンドにスカウトします。しかし、ヨンチョルには、本物のドラムがありません。そのため、彼らはドラムを買うためのお金を作ることにします。

ところで、この映画では、朝高の学生が日本人学生を襲うシーンが多く描かれていますが、私自身は、朝高と日本のバンカラな高校の間で、しばしば抗争が繰り返されていたという話を何度か聞いたことがあります。小さい日本人の兄弟が朝高の学生らに取り囲まれて怖い思いをしたとか、逆にチマチョゴリを着た朝鮮学校の女の子がチマチョゴリを切り裂かれたとか、双方のいろいろな経験談を間接的にではありますが、聞いたことがあります。

当時、何故、学生たちの間でそういった争いが繰り広げられていたのかを考えてみると、いろいろな要因があったのだろうと思います。特に、以下の理由が大きいのではないでしょうか。

1.日韓の民族問題
2.冷戦構造(資本主義と共産主義、右翼と左翼の対立、’60年代の学生運動の名残)
3.学生同士の対立(当時、リーゼントのツッパリ、不良が流行っていたことも考慮する)
4.都心部の人口密度(満員電車でのトラブルを想像すれば分かるように、人口が過密になると争いごとは連鎖的に生じやすくなるものです)

私も同時代に生きていましたが、この映画の主人公たちと同世代ではありません。また、田舎でのんびりと暮らしていたこともあって、当時の彼らの世代の感情は、日本人であれ、在日であれ、なかなか理解しにくいところがあります。しかし、想像してみるに、当の本人たちは上のような原因を明確に区別して争っていたわけではないのではないかと思います。ただただ血の気の多い若者が、政治問題や民族問題やいろいろな問題に関わるうちに、何らかの暴力事件に巻き込まれ、いつの間にかお互いにその連鎖が止まらなくなったというケースが多かったのではないでしょうか。

少なくとも、こういった個人的、日常的な争いにおいては、日本人が悪い、在日が悪い、どのイデオロギーが悪いというような話ではないように思います。


さて、話は変わって、同じ’79年、ある銀行で人質事件が発生します。銀行にはシャッターが降りており、中をうかがい知ることが出来ません。銀行の周りを、11年前の川崎シージャック事件のように、警察の特殊部隊が取り巻いています。その後、強行突入が行われ、事件が解決します。

その際に、全員でいっせいに射撃をすることによって、狙撃手の誰が撃ったか分からないようにすると言う配慮が為されます。これは11年前の川崎シージャック事件において、ある狙撃手が犯人を射殺して、批判を浴びたことに対する反省によるものでした。

この劇中の人質事件も、同年の以下の実在の人質事件をモデルにしているものと思われます。

三菱銀行人質事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E9%8A%80%E8%A1%8C%E4%BA%BA%E8%B3%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

それぞれの事件の解説にも書いてあるように、先述の「ひとりの狙撃手が個人的に社会的な非難を浴びないようにする」という点なども、この実在の二つの事件(瀬戸内シージャック事件、三菱銀行人質事件)の因果関係を参考にしているようです。

ところで、個人的な話ですが、私もこの実在の事件である「三菱銀行人質事件」はなんとなく覚えています。当時はやたらと銀行強盗が現れました。成功率はきわめて低いのにも関わらず、次々と事件が発生しました。おそらくは3億円強盗事件が迷宮入りしていることで、自分も上手くやれば、何とかなるんじゃないかと考えていた人が少なからずいたのかもしれません。また、私自身、物心ついた頃からこういう事件が多かったので、世の中では銀行強盗が昔からずっとあり、これからもあり続けるものなのかと思っていました。しかし、今考えてみると、あの時代独特の現象のような気がします。

三億円事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%84%84%E5%86%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ところで、劇中の事件において、野次馬に混じって、一人の男の姿が目撃されます。

それが、川崎シージャック事件において、犯人を射殺し、社会的な非難を浴びた加納靖史でした。現場において、彼の姿に気がついた女性記者、沢嶋美希(坂上香織)はその姿をカメラマンに撮影させます。そして、後日、彼を訪ね、11年前の事件の真相を尋ねます。しかし、彼は黙して語りません。


以下、続く。


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