【寓話】金の卵を産む鶏
テーマ:寓話

昔、あるところに、ヨセフという男がいた。

ヨセフは養鶏業をしていたが、売り上げは芳しくなかった。

それに追い討ちをかけるように、その年、世間で養鶏業が大流行した。

同業者が増えすぎたために、その売り上げはさらに減ってしまった。

それで、ヨセフは鶏たちを見ながら、こうつぶやいた。

「いまどき卵を売ったところでいくらにもならない。

どこかに金の卵を産む鶏でもいないものか。」


さて、ある日、ヨセフは海の向こうにある国に鶏を出荷することになった。

そこで、ヨセフは鶏をたくさん船に積んで出発した。

船に乗っている間、ヨセフが鶏の世話をしていると、その中に見たこともないような美しい鶏がいることに気がついた。

その鶏はことのほか美しく、羽がうっすらと金色に輝いていた。


さて、船が出港してから数日後のこと、運が悪いことに、船が難破してしまった。

船は大破し、ヨセフはその残骸の木切れにつかまって、海に漂っていた。

そのまわりには、たくさんの鶏が浮かんでいた。

ヨセフはそれらを一生懸命捕まえては、木切れの上に救い上げた。

その中には、あの美しい鶏もいた。

しかし、波は高く、ヨセフが助けても、助けても、鶏は次々と波に流されてしまった。

それでも、ヨセフはあの美しい鶏だけは、なんとか死守していた。


それからしばらくして、ヨセフは無人島に打ち上げられた。

結局、無人島に打ち上げられたとき、助けられた鶏はあの美しい鶏だけだった。


それから、ヨセフは無人島を探索したが、食べられそうなものは何も見つからなかった。

それで、ヨセフは鶏をしめて食べようと考えた。

しかし、そのとき、ヨセフは思いとどまり、こう考え直した。

「この鶏は雌鳥だから、もしかしたら卵を産むかもしれない。

しばらくは生かしておこう。

それから食べても遅くない。」


しかし、その後、その鶏は一向に卵を産まなかった。


そのうち、空腹に耐えかねたヨセフは、ある日、こう考えた。

「では、明日まで待ってみよう。

明日になっても、卵を産まなかったら、この鶏をしめて食べてしまおう。」


翌日、ヨセフが目を覚ますと、雌鳥はうずくまって卵を温める格好をしていた。

ヨセフは喜んで、鶏を持ち上げてみると、そこには、ずっしりと重たい金の卵があった。

腹が減って今にも死にそうなヨセフはこれを手に取ると、怒って言った。

「こいつはなんて恩知らずな雌鳥なんだ。

人がせっかく命懸けで助けてやったのに、金の卵なんか、産みやがった。

恩をあだで返すとはこのことだ。」

それから、ヨセフはその金の卵を産む鶏をしめて食べてしまった。


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参考:
【思索】幸運は金、幸福は水
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10042288794.html





【寓話】豪華な補助輪
テーマ:寓話

あるところに、二人の幼稚園児がいた。

二人はそれぞれ自転車を持っていた。

平均的な家庭の子であるA君は自分の自転車に普通の補助輪をつけていた。

金持ちの家庭の子であるB君は自分の自転車に高性能な補助輪をつけていた。

(B君の補助輪はショックアブソーバーでも付いた特注品だったのだろう。)

それで、B君は自分の自転車の補助輪がいかに優れているかについて、A君にいつも自慢していた。

それで、A君は恥ずかしくなって、彼はこう考えた。

「こんな粗末な補助輪をつけているから、からかわれるんだ。よし、僕は自転車を乗りこなして、補助輪なしでも自転車を乗れるようになってやるぞ。」

そして、A君は一生懸命自転車に乗る練習をした。

そして、彼は、練習を重ねた結果、上手く乗れるようになったので、自分の粗末な補助輪を外してしまった。

すると、それを見た別の幼稚園児のC子ちゃんは言った。

「A君は補助輪がなくても自転車に乗れるのね。すごいわ!!」

すると、B君は言った。

「C子ちゃん、見てみて。僕の自転車にはこんなカッコいい補助輪が付いているんだよ。」

すると、C子ちゃんは言った。

「B君は補助輪なしじゃ走れないの?かっこ悪い!」

B君はC子ちゃんにそう言われて、恥ずかしくなってしまった。


「上のたとえ話の意味を説明してください。」

「上のたとえ話において、自転車は精神、自転車に乗れないのは精神的未熟、補助輪はそれを補うための能力である。

粗末な補助輪が付いているよりは、豪華な補助輪が付いている方がよく、豪華な補助輪が付いてるよりは、補助輪がない方がよい。」


有能さは、精神的未熟に対する補助輪としてよく機能する。

有能な人や特殊技能を身につけた人は、その能力を必要とする人たちからちやほやされる。

そして、少しぐらいわがままを言っても、彼らの間では許されるのである。

しかし、結局のところ、有能さとは心の補助輪に外ならない。

それは精神の未熟さをよく補う。


世の中に自分がいかに有能な人間であるかについて得意げに語る人がいる。

その人は、(おそらく本人は気がついていないのだろうが)、自分がいかに立派な補助輪を付けているかについて自慢しているのである。

有能さを誇る人間は、見方を変えて言えば、いまだに心の補助輪が取れていない人間である。


本当に立派な人間とは、補助輪を必要としない人間である。


世の中は有能さで渡るものではない。

// 有能な人が偉いのではなく、有能さを必要としない人が偉いのだ。

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【寓話】ブレインストーミングに求められるもの
テーマ:寓話

ある会社のある部署で新しい事業について会議を開き、アイデアを出し合うことになった。

Aさんはなかなかよいアイデアを2つと、どうでもよいアイデアをたくさん考えてきた。

Bさんはなかなかよいアイデアを1つ考えてきた。

その他の人たちは誰も何も考えてこなかった。

BさんはAさんのプレゼンを冷やかして言った。

「君にアイデアは少しはいいものもあるけれども、それ以外は全然ダメだね。無駄弾が多すぎるよ。」

するとAさんが言い返した。

「しかし、僕はなかなかいいアイデアを2つ考えてきたけれども、君はひとつしか考えてこなかったじゃないか。」

Bさんは何も言い返せなかった。


ブレインストーミングにおいては、勝率よりも勝ち星の数が大切である。


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【寓話】嫌なことを言われて、嫌なことを言い返す人は、嫌な人である
テーマ:寓話

嫌なことを言う人は嫌な人である。

嫌なことを言われて、嫌なことを言い返す人は、嫌な人である。

嫌な人でない人は、他人から嫌なことを言われると、きょとんとする。

嫌なことを言われて、反射的に嫌なことを言い返す人は、最初から嫌な人である。


以下、「嫌なことを言われて、嫌なことを言い返す人は、嫌な人である」についての寓話。

参考:
【随筆】無垢への憧れ
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10052848369.html


あるところに、A子さんとBさんという若いカップルがいた。

ある日、A子さんがBさんに以下のようなメールを送った。

「Bさん。私はあなたを愛しているわ。」

ところが、悲劇が起こった。

メール送信の途中で、悪意を持った第三者のCさんが彼女のメールを傍受したのである。

CさんはA子さんのメールを盗み見ると、いたずらでその文面を以下のように改竄して、Bさんに送った。

「以前から言おうと思っていたんだけど、私にはあなた以外に好きな男性がいます。

もうあなたとはお別れです。

さようなら。」

それを読んだBさんは一瞬びっくりしたが、これはチャンスだと思って、以下のように返事をした。

「実は僕も前から君以外に好きな女性がいて、君とは分かれたいと思っていたんだ。

浮気していたのはお互い様だから、恨みっこなしで、分かれよう。

僕から君に連絡したりしないから、君も僕に連絡しないでね。

さようなら。」

A子さんはこのメールを読んでびっくりした。

そして、インターネット業者や警察に相談したところ、自分のメールが改竄されていたことが分かった。

しかし、それに対して、Bさんからの返事は改竄されていないことが分かった。

A子さんとBさんは別れた。


あるところに、Dさん、Eさんという友人がいた。

Eさんは自分の背が低いことについて悩んでいた。

そこで、ある日、Eさんがその悩みを相談するメールをDさんに送った。

Dさんはそれを読んで、Eさんを慰め、励ますメールを送った。

しかし、そのメールもCさんに傍受されてしまい、悪意を持って改竄したメールがEさん宛に送られた。

その改竄メールは、DさんがEさんの背が低いことをからかう内容だった。

それを読んだEさんはDさんに対して腹を立てて、Dさんを非難するメールを返信した。

「お前は俺にそんな酷いことを言うのか!

それなら言うが、お前の方こそ、ただのデブじゃないか。

前から思っていたんだが、お前が部屋に入ってくるだけで暑苦しくなるんだよ。

自分のことを棚にあげて、よくも人のことをチビだの何だのと言えたもんだ。

もうお前とは絶交だ。

さよなら。」

Dさんはこの返信メールを読んでびっくりした。

そして、インターネット業者や警察に相談したところ、自分のメールが改竄されていたことが分かった。

しかし、それに対して、Eさんからの返事は改竄されていないことが分かった。

DさんとEさんは絶交した。


さて、上のような状況において、悪いのは以下の2者である。

1.他人のメールを傍受し、改竄して送るような悪質ないたずらをしたCさん。

2.浮気をしたBさんや、Dさんのことを悪く思っていたEさん。


ここで重要なことがひとつある。

それは、BさんやEさんが起こした問題は、Cさんが起こした問題とは、何の関係もないということである。

Cさんがメールを改竄したことで、Bさんは浮気をしたのではない。

BさんはCさんが改竄メールを送る前から浮気をしていたのである。


これはEさんの場合も同じである。

EさんはCさんの改竄メールに騙されて、思わず、Dさんへの悪口を口走ってしまったのだが、そこで語られていること、つまりEさんがDさんに対して前から思っていたことは事実であり、それはCさんの改竄メールとは何の関係もない。

Eさんは、前から、内心では、Dさんのことを「ただのデブだ」と思っていたのである。

それが、たまたまCさんの改竄メールをきっかけにして、表面化したに過ぎない。


私たちは、他人のと付き合いにおいて、上のような行き違いから、憎み合うことがある。

しかし、その憎しみ合いにおいて、重要なことは、お互いの憎しみは相手の憎しみとは直接関係がないということである。

より正確に言うならば、憎しみ自体は、憎しみに対する反動なのかもしれないが、そこで明らかにされる失言の中に含まれる、相手に対する潜在的な侮蔑は、表面化している憎しみとは直接関係がないのである。

ウィトゲンシュタインが言うように、「私は『にんじんが体に悪い』ということを信じている」という命題が真か偽かについては、「私が信じているかどうか」が問題なのであって、事実として「じんじんが体に悪いかどうか」は真偽に関係がない。

同じように、ある人が騙されて、あるいは勘違いをして、他人に腹を立てるとき、「腹を立てる感情」と「腹を立てる理由」は、実は関係がない。

腹を立てる理由が正当かどうかに関係なく、腹を立てる感情はそこに存在する。

逆に、腹を立てる感情がどうであれ、腹を立てる理由はそこに存在する。

「にんじんが体に悪いかどうか」という科学的な検証は、「『にんじんは体に悪い』と信じ込んでいる人間」にとっては、何の役にも立たない。

ある人が他人から嫌なことを言われて、腹を立て、嫌なことを言い返す場合、後者の嫌なことは最初から存在していたのである。


// 憎しみにおいて、重要なことは、「誰のせいで憎んでいるのか」ではなく、「誰が憎んでいるのか」である。

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【寓話】その人が悪いわけじゃない

あるところに会社があった。

その会社に、新入社員でAさんという人がいた。

Aさんには、Bさんという先輩がいた。

BさんはいつもAさんに冷たく厳しく当たっていた。

それでAさんはBさんのことが嫌いだった。

「この人さえいなければ!」

そこで、ある日、AさんはBさんに毒入りのお茶を飲ませた。

Bさんは体を壊して、会社を長く休んだ。

その後、BさんのかわりにCさんという人がAさんの面倒を見ることになった。

それで、Aさんは一安心した。

ところが、このCさんもAさんに冷たく厳しく当たった。

そこで、AさんはCさんにも毒入りのお茶を飲ませた。

ところが、前回と同じ結果になり、その後も、同じことが繰り返された。

そこで、Aさんは上司のDさんに先輩社員たちの度重なる横暴について相談した。

すると、Dさんは言った。

「ああ、それはね、私が君の教育係の先輩たちにそうするように言ったんだよ。

正直に言って、君は他の新入社員に比べて、ちょっと甘えたところがあるし、やる気のないところが目立つからね。」

翌日、Dさんは入院した。

別のお話。

あるところに、Eさん、Fさん、Gさんという人たちがいた。

ある日、EさんがFさんに嘘をついた。

Fさんはそれとは知らずに、そのことをGさんに話した。

その後、Gさんはそれを信じて大損をし、その後、それが嘘であることに気がついた。

それで、Gさんはこう思った。

「Fさんは嘘つきだ。彼のせいで僕は大損をした。僕は彼を許さない!」

翌日、Fさんは入院した。


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【寓話】ラーメン屋の看板娘

あるところにラーメン屋がありました。

脱サラした中年男性とその息子さんが経営していました。

ここのラーメンは安くておいしいのです。

で、僕はよくこの店に通っていたのです。

ところが、ある日、問題がおきました。

息子さんが交通事故で入院してしまったのです。

で、かわりに娘さんが働くことになったのですが、この娘さんというのがお母さん似で大変な美人だったのです。

それが評判を呼んで、いつの間にか、そのラーメン屋には長蛇の行列ができるようになりました。

おかげで、僕はそこのラーメンを食べるために、長い間、並ばなければならなくなりました。

僕はラーメンが食べたいのであって、娘さんに逢いたいわけではないのですが。

あるところに人気ブログがあります。

そのブログはAさんという人が書いています。

Aさんはとても理知的で面白いことを書きます。

で、僕はよくそのブログを読んでいます。

ただ、ひとつ、問題があるのです。

そのブログを書いているAさんは若くてとても美しい女性なのです。

彼女はたびたび自分の顔写真を自分のブログに貼り付けているのです。

そのためだと思うのですが、そのブログにはいつも男性たちの長蛇のコメントがつくのです。

おかげで、僕はそこのブログを読んでその感想をコメントに書いても、他の人たちのコメントであっという間に流されてしまうのです。

僕は知的なAさんと面白い話がしたいのであって、彼女の美しい容姿が見たいわけではないのですが。

昔、こういうお話を書きました。

【小説】僕の好きな先生
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10037560381.html

僕が中学の頃、むさくるしい男性の先生がいました。

全然人気がないのだけれども、物知りでお話をしていて楽しかった。

その後、この先生と同じように面白い人に何人か出会いました。

しかし、何故か、そういう人に限って、外観的に魅力的な人が多いですね。

魅力的な人との付き合いは難しい。

常に多くの人が群がっているので、その中でこの自分が親しく付き合ってもらうのはとても難しい。

人間関係はキャッチボールに譬えられます。

魅力的な人とキャッチボールをするのはむなしい。

ボールを投げても帰ってこないか、帰ってくるたびにボールが小さくなってしまうのです。

ある人にボールを投げて、帰ってくるボールの大きさは、両者の魅力の違いに反比例します。

こちらの魅力 : あちらの魅力 = 帰ってくるボールの大きさ : 投げたボールの大きさ


上のAさんについても、僕はしばしばこう思います。

Aさんがあの先生のようにむさくるしいおじさんだったらよかったのに。

世の中には、そういう人がたまにいますね。






【寓話】銀杏の話

あるところに原始社会があった。


高地には金持ちが住み、低地には貧乏人が住んでいた。


ある日、外国から旅行者が来た。


そして、帰りに、食料として持ち込んだ銀杏の種を落としていった。


すると、その種は低地の転がり、人知れず芽を吹いてぐんぐん育っていった。


やがて、銀杏の木が大きくなると、実をつけた。


その実は今までに嗅いだこともないほど臭かった。


それで人々は急いでその実を拾い、村の端に捨てた。




さて、その村には一人の貧乏な若者が住んでいた。


彼は腹が減って今にも死にそうになっていた。


そして、ある日、空腹のあまり、その実を食べようとした。


皆がかき集めて捨てた実を拾って、河原で焼いてみた。


そして、一口食べてみたが、食べられないほど不味かった。


彼が思わず噴出すと、そこから殻に包まれた種子が飛び出した。


彼は気になり、その殻を割ってみた。


すると、そこからは翡翠色の美しい種子が現れた。


そして、彼がそれを食べてみると、なんとも言えない美味しさであった。


そこで、彼は急いで地に落ちた実をかき集めて、すべての果肉を洗い流して、種子だけを取り出した。


そして、彼はそれを一人でおいしそうに食べていた。


やがて、それを見ていた貧しい人たちも、それを真似て、その実を食べ始めた。


しかし、それを見ていた高地の金持ちたちはさも厭わしそうに眼を背けた。


そして、自分たちの子供たちに教えた。


「あんな臭いものを食べてはいけませんよ」と。



その後、低地に住む貧しい人たちは、この銀杏を大事にし、やがて、栽培するようになった。


そして、品質改良を進め、臭い果肉を取り除いて、他の村に輸出するまでになった。


低地の貧しい人たちは臭い果肉を我慢して剥いたことにより銀杏の美味しさを知ったが、高地の金持ちの人たちは最後まで銀杏の美味しい味を知ることがなかった。



素人による涙ぐましい話は銀杏(ぎんなん)に似ている。


それを食するためには、外皮を剥かなければならない。


銀杏において、食するのは種子であって、臭い外皮ではない。


そこを、自称「ドライ派」のあなたは勘違いしていないだろうか。


あの臭いやつを食べるわけではないのだよ。



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【寓話】人文学的な悲劇について

たとえ話。


あるところに、この世のものとは思えないほど美しい風景があった。


ある日、三流画家のAさんが、旅行のついでに、その地を通りかかった。


Aさんはその美しい風景に胸を打たれて、その風景を一生懸命正確に絵に描き写した。


Aさんは芸術的なセンスはまったくなかったが、手先が器用で写真のように正確な絵を描くことが出来たのである。



そして、地元に帰ってから、路上にその絵を他の絵と並べて売っていた。

すると、いろいろな人がその絵に目を留めて、眺めた。



あるとき、それまでまったく美術に興味がなかったBさんが通りかかった。


Bさんはその絵を見て感激し、Aさんに言った。


「この絵画は大変美しい。


自分はこれまで芸術というものにまったく興味がなかったが、これこそが大傑作というものに違いない。


いくらでも出すから、ぜひこれを売って欲しい。」


すると、その様子を見ていた美術愛好家のCさんは言った。


「Bさん、お止めなさい。


この絵画は芸術的な傑作でも何でもありませんよ。」


すると、Bさんは反論した。


「だってこんなに美しいじゃないか。


君にはこの絵画の素晴らしさが分からないのかね。」


すると、Cさんは答えた。


「あのね、その絵が美しく見えるのは、単に美しい景色をそのまま描いたからに過ぎませんよ。


美しい景色をそっくりそのまま描き写せば、美しい絵が出来るに決まっているじゃないですか。


でも、その絵の美しさから、原風景の美しさを差し引いたら、そこに何の価値が残るというのでしょう。


私には、そこに何の「芸術的な付加価値」も残らないと思いますよ。


つまり、この絵画自体には芸術作品としての価値は全くないってことです。


嘘だと思うのなら、あなた自身がその絵を買い取って、画商にでも持ち込んで御覧なさい。一文にもならんから。


単にその風景の美しさに感動したのなら、その風景を写した写真でも飾っておればよいのです。」



別のたとえ話。


ある日、あるところで大地震が発生した。


多くの人が亡くなり、多くの人たちが彼らを助ける為に命がけで救助活動を行った。


その様子は連日報道され、たくさんの人たちがそれを見て涙を流した。


さて、その後、一連の報道を見ていた三流の脚本家であるA’さんが、大震災をもとにしたドラマの脚本を書き上げた。


その脚本は映画化され、多くの人が見に行った。


上映期間中のある日、B’さんとC’さんは、ふたりでその映画を見に行った。


上映中、ふたりは涙を流しながら、その映画を見ていた。


その帰り、B’さんはC’さんに言った。


「今日の映画は素晴らしかったね。


見たかい、自分の子供をかばって下敷きになって亡くなったお母さんのけなげさを。


見たかい、劫火の中を人命救助のために飛び込んでいった消防隊員の勇気を。


こういうのを、人間を描いた本当の傑作というんだね。」


すると、C’さんは反論した。


「いや、今日の映画はイマイチだったよ。」


「何でだい。君だって、涙を流しながら見ていたじゃないか。」


「それは、この映画を見ていて、先の地震で本当に亡くなった人たちのことが思い出されたからだよ。


この映画の筋書きに感動して涙を流していたわけではないよ。


いいかい、C’さん。


冷静に考えてごらん。


自然の世界において、悲劇ってあるもんだよ。


そして、僕たちは、それらに涙をせずにはおられないものだよ。


そして、それをそのまま脚本にすれば、それなりに感動する話は書けるってもんだよ。


でも、そうして書き上げられた脚本の人文学的な価値は、美しい景色をそっくりに描き写した絵画の芸術的な価値と何ら変わるところはないんじゃないかしら。


僕たちはその作品に対して感動しているんじゃなくて、その作品を通して、自然界における悲劇に感動しているだけなんじゃないだろうか。


そう考えてみると、僕には、今日の映画に人文学的な悲劇としての価値があったとは思えないんだよね。」


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【寓話】鯨に飲み込まれたオキアミの話

あるところに大きな海があった。


その海には一匹のオキアミがいて、仲間たちと泳ぎ回っていた。


そんなある日、オキアミの後ろから巨大なものが忍び寄ってきて、オキアミをひと飲みにしてしまった。


飲み込んだのは鯨だったのだが、オキアミはそれまで鯨を見たことがなく、飲み込まれたときもその姿を見ることが出来なかった。


オキアミはしばらくして、自分が何者かに飲み込まれてしまったことに気が付いた。


そこで、オキアミはそれから抜け出すために考え込んだ。


自分は何者かに飲み込まれたらしい。


ここから抜け出すためにはそいつが何者なのか確かめなければならない。


正体が判れば、そいつの弱点を突いて逃げ出すことが出来るに違いない。


そこで、オキアミは鯨の腹の中を一生懸命に泳ぎまわったが、いつまでたっても自分を飲み込んだ者の姿を見ることが出来なかった。



ある者の腹の中にいる者は、いつまでたってもその者の姿を拝むことが出来ない。


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【寓話】蓼食う虫も食わぬもの

昔々、中近東のある地方に旧家があった。


その家には、太古の昔から、世の神秘を記した宗教書が伝わっていた。


その家の主である男はしばしばその神聖なる書を取り出しては熱心に研究していた。


その男は、その本の文章を読むことが出来たが、その内容は極端に難しく、何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。


しかし、その男はいずれその真意を理解しようと、日夜解読の研究を続けていた。



そんなある日のこと、その神聖なる書が虫に食われることを心配したその男は、それを紙に包んで保管することにした。


しかし、その数日後、その男がいつものようにその書を読もうとして取り出してみると、包み紙が虫に食われていた。


男が慌ててその中身の書を確認すると、幸いにも書の方は全く虫に食われていなかった。


そこで、男はその神聖な書を読み終わると、今度は羊の皮で包んで置いておいた。


しかし、今度はその羊の皮が食い破られてしまった。


おどろいた男が中身の書を手に取ると、またもや中身だけが虫に食われていなかった。


その男は不思議なこともあるものだと思い、今度はその書をより分厚い牛の皮で包んで置いておいた。


すると、三度、包みは食い破られていたが、やはり中の神聖な書は無事であった。



さすがにおどろいたその男はその神聖な書を持って、近所に住むひとりのダルビッシュの元を尋ねた。


そして、そのダルビッシュに事の顛末を話して聞かせて、言った。


「世の中には不思議なこともあるものですな。


異教徒のあなたは認めないかもしれませんが、うちに代々伝わるこの書こそが真の神聖な書に違いありません。」


すると、そのダルビッシュは言った。


「では、わしがお前にその虫たちの会話を聞く能力を与えてやるから、そいつらの会話を聞いて、その原因を確かめるがよい。」



そこで、その男は、その書を持って帰ると、それを上質の紙に包んでふたたびいつもの場所に置いておいた。


すると、その夜、また虫たちが出てきて、その包み紙を食べてしまった。


しかし、例によって、その虫たちは中の書には口を付けなかった。


男がその様子を陰からこっそりと見ていると、虫たちが会話を始めた。


「今日の包み紙も旨かったな。」


「ああ、いつもよりも上質の紙で包まれていたぜ。」


「しかし、肝心の中身の本はさすがに食う気がしないな。」


「そうだな。何しろ、アレは賞味期限が切れているからな。」


男はその会話を聞くと、異教徒の腰帯を断ち切って、ダルビッシュの元に弟子入りした。


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【寓話】六つの国々

あるところに6つの国がありました。


それぞれの国では、それぞれ一種類の異なる花しか咲きませんでした。


ある日、それらの国々の人たちが集まって会議が開かれました。


で、会議の途中で花の話題になりました。


すると、それぞれの国の代表の人たちは花の定義について話し始め、やがてもめました。


ある人は、花とは白いものだと言い、


別の人は、花とは赤くひらひらとした花びらがついているものだと言い、


別のある人は、花とは泥の中から咲くものだと言い、


別のある人は、花とは高原で咲くものだと言い、


別のある人は、花とは一日で枯れてしまうものだと言い、


別のある人は、花は手のひらほどもある大きなものだと言いました。


それぞれが言うことが異なるので、いずれが花であるかについて、決着をつけることになりました。


後日、彼らが再度集まって、自分たちの花を持ち寄ると、それらはそれぞれ大きく異なっていました。


そこで、彼らはお互いに言い争いをしました。


これこそが花だよ、あなたたちのは花に似ているけど、全然別物だよとお互いに言いました。


すると、たまたま全国を放浪している旅行者が通りかかり、言いました。


「それらはすべて花ですよ。正確に言えば花の一種なんですが。


花というのは抽象名詞です。


ですから、この世に花というもの自体は存在しません。


この世には花の一種がいろいろとあり、それらを並べ、比べることによって、花という抽象的な存在を知ることが出来るだけです。」



あるところに6つの国がありました。


それぞれの国では、それぞれ一種類の異なる宗教が存在していました。


ある日、それらの国々の人たちが集まって会議が開かれました。


で、会議の途中で宗教の話題になりました。


すると、それぞれの国の代表の人たちは宗教の定義について話し始め、やがてもめました。


ある人は、宗教とは白いものだと言い、


別の人は、宗教とは赤くひらひらとしたものだと言い、


別のある人は、宗教とは泥の中から咲くものだと言い、


別のある人は、宗教とは高原で咲くものだと言い、


別のある人は、宗教とは一日で枯れてしまうものだと言い、


別のある人は、宗教は手のひらほどもある大きなものだと言いました。


それぞれが言うことが異なるので、いずれが宗教であるかについて、決着をつけることになりました。


後日、彼らが再度集まって、自分たちの宗教についての話を持ち寄ると、それらはそれぞれ大きく異なっていました。


そこで、彼らはお互いに言い争いをしました。


これこそが宗教だよ、あなたたちのは宗教に似ているけど、全然別物だよとお互いに言いました。


すると、たまたま全国を放浪している旅行者が通りかかり、言いました。


「それらはすべて宗教ですよ。正確に言えば宗教の一種なんですが。


宗教というのは抽象名詞です。


ですから、この世に宗教というもの自体は存在しません。


この世には宗教の一種がいろいろとあり、それらを並べ、比べることによって、宗教という抽象的な存在を知ることが出来るだけです。」



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