【随筆】母の仕事の話
僕の母は在日韓国人だ。
その母は生まれてくる子供に日本国籍を与えたかったらしい。
その理由の一つとして、日本での在日韓国・朝鮮人に対する就職差別があったようだ。
母は、自分が在日韓国人の男性と結婚したら、子供が在日韓国・朝鮮人としてこの世に生まれてくるので、自分と同じように差別されることになるのではないかと心配していたようだ。
それで、母は、日本人男性である父と、結婚したのかもしれない。
だから、僕は、在日の母から生まれながら、在日としてこの世に生まれなかったのかもしれない。
僕が生まれたのは、日韓の国交が回復した6年後で、当時、韓国はまだ朴正煕による軍事独裁政権下だった。
あの「漢江の奇跡」の最中である。
戦後の日本における在日韓国・朝鮮人に対する就職差別について、僕はその実態をよく知らない。
母と同世代の在日韓国・朝鮮人二世の著名人の自伝や各種の証言を読んでみると、その状況は戦前から継続してかなりひどいものである。
それに対して、在日の苦労話は二世の一世に対する身内びいきな誇張から始まった、彼らの被害妄想に過ぎない、事実として在日側にも就職を阻害される要因があった、といったような趣旨の反論もあるようだ。
それらに対して、僕自身、的確に判断を下せるほど十分な知識は持ち合わせていない。
But let your communication be, Yea, Yea; Nay, Nay: for whatsoever is more than these cometh of evil.
St.Matthew 5 37 (King James Version.)
ただ、少なくとも、僕の母の親族には、僕が知る限り、会社員はひとりもいない。
他の人たちの証言と同じように、廃品回収業だったり、土木作業員だったり、自動車整備工だったり、タクシー運転手だったりする。
僕の母は、日本人の父、息子2人と風呂のないひどく古いアパートで暮らしていた。
母はずっとパートをして過ごしていたが、できれば会社で正社員として働きたかったようである。
考えてみれば、僕の母はバイリンガルだ。
今なら、それだけで就職が有利になりそうなものであるが、当時の日本社会においてはそうならなかった。
昔は民族差別だけでなく、女性差別も今よりひどかったという。
だから、女性の母がパートをして過ごしていたこと自体は、一概に民族差別が原因とはいえないのかもしれない。
しかし、結局のところ、母が正社員になることは生涯なかった。
上のようなことを考えていたら、僕が小さい頃の、母がパートをして働いていた頃のことをいろいろと思い出した。
僕は自分が物心ついてからの母のパートをほぼ覚えている。
在日の就職差別について、僕は客観的なことは何も言えないけれども、個人的に見聞したことを述べることは出来る。
今回はそれについて書いてみたい。
僕は、小さい頃、いつも母と一緒にいた。
母は日本人の父と結婚し、その後、ずっと共働きでパートをしていた。
僕は、幼い頃、いつもその母の自転車の荷台に載せられ、小猿のように母にしがみついていた。
僕が覚えている一番最初の母のパートは、スーパーやまぐちのレジ打ちだった。
その頃、僕はまだ2歳ぐらいで、幼稚園には上がっていなかった。
母は、毎朝、僕を自転車の後ろの荷台に乗せてスーパーまで通っていた。
そして、2階の託児所に僕を預けて働いていた。
夕方になると、母は僕を迎えに来てくれた。
迎えに来てくれるとき、母はいつもお店の商品のチョコやガムを買ってきて、僕にくれた。
帰り際、僕は自転車の上で、チョコを食べながら、母の背中を見ていた。
その後、母はレジ打ちを辞め、本屋の店員になった。
この頃、僕は母が持って帰ってきてくれる幼児向け雑誌の付録を楽しみにしていた。
母は、毎月、本屋で返品になる、てれびくんだの、テレビマガジンだの、テレビランドだのの、幼児向けの雑誌の付録を抜いて持って帰ってきてくれた。
当時、部屋の隅にダンボール箱があって、母はそこに付録をたくさん入れてくれた。
僕はそれを組み立てて遊んでいた。
それから、母はヤクルトおばさんになった。
僕が幼稚園の頃の話である。
サドルが紅色のヤクルト専用の自転車を買い、それにヤクルトとジョアを積んで売り歩いていた。
当時、母はまだ30代の初めである。
考えてみれば、今の僕より若い。
その歳で、炎天下でヤクルトおばさんをしていたのかと思うと、なんだか気の毒である。
この頃、うちの冷蔵庫には、ジョアがたくさん入っていた。
母が廃棄処分になる販売期限の過ぎたものをもらっていたのか、自分の販売分として自費で買っていたのだろう。
僕はそれを毎日飲んでいた。
当時、オレンジ味の名称は「マンダリン」だった。
今はこれが「オレンジ」に改められているようである。
何故か、ヤクルトはあまり飲んだ記憶がない。
あるとき、いつものように僕は母の自転車の荷台に乗っていた。
で、交差点を過ぎる直前に僕は荷台の後ろから落ちて、後ろ頭をしたたかに打ち付けた。
幸い、近くに病院があったので、そこで、治療を受けた。
それから数日の間、僕は幼稚園を休んだ。
そして、その間、母がいないときは、ヤクルトの託児所に預けられた。
その託児所は幼児ばかりで、幼稚園児は僕だけだった。
僕は自分が子ども扱いされているようで、不愉快だった。
とくに不愉快だったのは、トイレが部屋の中にあったことだ。
囲いのない便器が部屋の隅にあって、剥き出しだった。
僕はそこで幼児たちの前で用を足さなければならかった。
それがとても恥ずかしかった。
’72年、日本と中国の国交が回復(正常化)した。
その際、中国がパンダの康康(カンカン)と蘭蘭(ランラン)を贈った。
それで、当時、日本ではパンダブームが起こった。
その当時、ヤクルトでは販売促進用に、パンダのアクセサリを配っていた。
パンダの絵が描かれたビニール製の飾りに黄色い紐がつけられてた。
今でいえば、ストラップみたいなものだ。
母は昼間の仕事とは別に、そのビニールに紐を通す内職をしていた。
1つ紐を通すと5円もらえた。
母は1個5円の紐をせっせと結んでいた。
あるときに、母が目を離した隙に、僕は母のかわりに結んでみた。
ところが、なかなか紐が穴に通らないのである。
そのうち、紐の先を舐めて細くすれば、通しやすいことに気が付いた。
それで、僕がせっせと紐を結んでいた。
母を喜ばせようと思った。
ところが、しばらくして帰ってきた母はぽかんとしていた。
僕はてっきり母が喜んでくれると思ったのだが、そんな表情ではなかった。
「あー、紐の先を舐めて通したらいけんのんよ。お客さんが嫌がるけえね。」
「ああ、ほうなん。」
僕は納得した。
結んでしまった分をどうしようかと思っていると、母が言った。
「また、やり直さんといけんね。」
母は僕の顔を見て、にっこり笑った。
その後、母はヤクルトを辞め、その自転車はそのまま自宅の自転車になった。
その後、その自転車はサイズダウンされ、僕の自転車になった。
僕は小学校の頃、この自転車に乗っていた。
それから、僕が小学校の2年のころ、母は昆布工場で働き始めた。
工場でただひたすら昆布を洗うのである。
同じ頃、僕はおたふく風邪にかかった。
それがあまりにひどく、僕は自宅でずっと寝込んでいた。
父と母は実家から身をおいて暮らしていたので、頼るべき親族がいなかったのだと思う。
父と母は交代で看病をしていたが、ほとんど、僕はひとりで寝ていた。
あとはときどき知り合いの人がかわりに訪ねてくることがあった。
薬を飲んで、寝て、起きてきて、額のタオルを水でぬらして、また寝る。
それを3週間以上毎日のように繰り返していたように記憶する。
すると、ときどき、夕方の不規則な時間に母が帰ってきて、ヨーグルトか何かを置いて、また仕事に戻っていった。
3週間以上して、おたふく風邪が治った。
お祝いに、親戚のお姉さんが電話をかけてきた。
母から受け取った電話を耳に当てていると何も聞こえなかった。
それで僕は母に言った。
「電話が壊れとる。」
母は受け取って、確かめた。
「壊れとらんよ。」
壊れていたのは僕の耳だった。
おたふく風邪の正式名称は流行性耳下腺炎という。
この病気の後遺症で、ときどき耳が聞こえなくなる患者がいるらしい。
僕もその例だったようだ。
以来、僕は片耳が聞こえない。
しかし、幸い、聞こえなくなったのが片耳だけだったので、僕はなんとも思わなかった。
まあ、いいやという感じだった。
ところが、母はそうではなかった。
パートを辞め、半狂乱になって、僕を広島中の耳鼻科に連れ回した。
ある耳鼻科の帰りに、母がソフトクリームを買ってくれた。
当時としては珍しい自家製のもので、陽炎の立つ夏の暑い日にやたらと美味しかったのを覚えている。
しかし、この後遺症についてはどうにもならなかった。
その後、母はしばらく落ち込んでいた。
ひどい罪悪感に苦しんでいるようだった。
僕はずっと母に謝られていた。
それで、僕はいつも母の頭を撫でていた。
ケンチャナヨというところだろうか。
その後、母はビタミンCの販売員になった。
僕は当時まだ珍しかったビタミンCとカルシウムの錠剤をラムネのようにポリポリと食べていた。
それから、母は某大手アパレルの倉庫番になった。
僕が小学5,6年生の頃だったと思う。
ある冬の日、僕は母に呼ばれて、その倉庫に行った。
その日は社内販売の日で、子供服が安く買えるらしかった。
倉庫に行くと、母が服のかかったポール・ハンガーを押していた。
「かあちゃん。(`ω′)! 」
そう言って近づくと、母は迎えてくれた。
「もうしばらく仕事があるけん、その辺におりんさい。何か服を買うてあげるけん、見とりんさい。」
だが、僕は昔から服装に興味がなかったので、特に欲しいものはなかった。
それで、つるされた服の中に隠れたりして遊んでいたら、母がやってきた。
「何か欲しいのあったかね。」
僕は首をひねった。
しかし、いらないと言うのも悪いので、銀色のジャンバーを買ってもらった。
着てみると、それはとても暖かく、僕は毎日それを着ていた。
それから、母はそのアパレルを辞め、某生命保険会社の外交員になった。
その年、その保険会社では、ニューヨークにジョン・レノンの銅像を建てる募金をしていた。
また、その販促グッズでビートルズのTシャツを配ったりしていた。
僕がビートルズ、ジョン・レノンを知ったのはこれがきっかけだったと思う。
その後、母はずっとこの仕事をしていた。
あるとき、母はこの仕事で新宿に出張した。
すると、その新宿支店で、以前、広島支店で働いていた慶大卒の若い男性社員の人とばったり会ったのだそうだ。
母は「テレビドラマみたいだったんよ」と言って、感激していた。
OLになるのが母の夢だったらしい。
数年後、日本がバブル経済に突入し、母も非常に稼いだようだ。
それにより僕も大学を卒業することが出来た。
僕が大学を卒業できたのは、両親とバブルのおかげだ。
しかし、母はこの仕事でバイクに乗ることが多くなり、交通事故をしたりした。
その後、母は定年を迎え、今は年金で暮らしている。
といっても、国民年金ではないのか、かなり少額のようである。
しかし、父の年金と合わせて、とりあえず、最低限の生活の心配はなくなったようだ。
あとはのんびり長生きしてくれるとよいのだけれども。
【随筆】夢が一つ叶いました。
以下の内容は1年半ぐらい前に書いたものです。
今回の再掲載にあたり、内容を加筆訂正してあります。
あらかじめご了承ください。
人間は、誰しも、夢があるものだと思いますが、僕にもあります。
僕の場合、それはそれはたくさんあるのです。
根が欲張りですからね。
祖国統一から、一度は食べてみたいものまで、その大きさも、ピンからキリまであります。
僕は、おそらくは人並みの10倍ぐらいは夢を持っているのではないかと自負しています。
とりあえず、番号札を配って整理しなければならないほど、僕には夢がたくさんあるのです。
やりたいこと、やってみたいこと、たくさんあるのです。
しかし、いずれにしても、多くの夢がいまだに叶っていません。
「地上とは思い出ならずや」とはイナガキタルホ先生の言葉ですね。
これはこれで分かるのですが、ブルーハーツの「人生は夢じゃない」という言葉も分かるのです。
話がそれました。
先週、そんなたくさんある夢のうちの1つが、ようやく叶いました。
といっても、まだ60%ぐらいですけど。
僕がずっと叶えたかった夢というのは、何かと言うと、「工業製品において発明をし、特許を取得する」というものです。
それを小さい頃から、僕はやってみたかった。
僕は、今、外資系のコンピュータ会社の研究所で働いています。
で、この仕事において、昨年、僕が他の人と共同研究して発明した内容が、このたび、特許申請されることになりました。
企業秘密なので、その内容は言えませんが、僕が仕事で発明したことを特許申請することになったということです。
もちろん、まだ申請の段階であり、実際に特許権がおりるかどうかは、審査請求の結果次第ですが。
この結果が出るには、自社の知的財産部による手続きなども含めて、2年ぐらいはかかるようです。
特許申請って、エンジニア系の研究員として、一度はやってみたいことだろうと思いますが、個人的にはこの年になってようやく実現できました。
よかった。
これで、自分の人生の理系コースのキャリアプランとしては、とりあえず小目的を到達したというところでしょうか。
まだまだ先は長いですが。
というわけで、特許についての、僕の思い出話をひとつしましょう。
僕は小さい頃からモノを作るのが好きでした。
一番好きなのは工作で、僕にとって、それは芸術と科学の間ぐらいのものでした。
そのため、僕は、将来、芸術の道を行こうか、科学の道を行こうか、といつも悩んでいました。
それは、とてもうれしい悩みでしたが、どちらかといえば、科学の道に行こうと思っていました。
そして、もし科学の道を行くのであれば、エジソンのような発明家になりたいものだと思っていました。
あるいは、ドラえもんの道具みたいなものを発明したいと思っていました。
僕の父が設計士だったので、科学の道の方が、僕にはより現実的な道に思えました。
小学生のあるときに、僕はその父とお風呂に入ってました。
で、湯船で遊んでいたら、父が唐突にこんな話をしてくれました。
父「わしゃ、若い頃、特許をとろうとしたことがあったんじゃ。」
僕「特許?」
父「発明をして、特許権をとると、その発明が自分のものになるんじゃ。そうしたら、使用料やらが入ってくるんよの。」
僕(目を輝かして)「面白い!とうちゃん、どんな発明したん?」
父「タンカーから海面に漏れた油を回収する装置よ。」
僕(尊敬のまなざしで)「特許、取れたん?」
父「いや、取れんかったわ。その発明を実施するのには、経費がかかって実用化が難しいんじゃと。」
僕「ほうなん。残念じゃね。」
父「まあ、そんなもんじゃ。」
それから、ダビデ像のような父は、湯船のお湯をすくって、顔を拭ったのでした。
僕の父の父、つまり僕の祖父は、戦前、呉の日本海軍の軍廟で働いてました。
軍事機密なので、詳細なことは分からないのですが、戦艦大和の建造や長門のメンテナンスなどの仕事をしていたようです。
で、その息子である父やおじたちも、みな、戦後、造船や重工業関係の仕事をしてました。
それで、父は、上のようなことを考えたようです。
そして、その発明で、海難事故を解決した上で、その特許使用料で沈没寸前だった一家の浮上も狙ったようです。
まあ、エンジニアが一発当てようと思ったら、特許ぐらいしかありませんからね。
今考えると、素朴な話ですけど、僕はこういう父が好きなのです。
で、僕は、このとき、世の中には特許制度というものがあること、つまり、発明と特許は別物だということをはじめて知ったのです。
発明は誰でも出来るけど、それが必ずしも特許になるとは限らない。
著作権と違って、そこがなかなか難しいのです。
自分がせっかく自力で何か面白いことを考えてたとしても、それと同じことをすでに誰かが考えていたら(より正確に言えば、"公知の事実"になっていれば)、特許にはならないのです。
それはともかくとして、父から特許の話を聞いた僕は以下のように思いました。
「いつか、わしも発明して、特許をとったるど。(`ω′)! 」
それから、10年以上の時が流れて、大学のときに初めて特許申請というものをしてみました。
勝算はなかったのですが、とりあえず、特許申請の仕方を知りたかった。
まず、工業所有権法の本を買ってきて、勉強をしました。
それから、ワープロ専用機(当時、16万円ぐらい)を買ってきました。
これは、当時の自分にとって、それまでで一番高い買い物でした。
そのワープロの使い方を覚えて(というのは、当時はキーボードの打ち方も知らなかったので)、特許書類を書きました。
こんなものだろうかというものが出来ると、僕は新宿の大きな郵便局に行って、1万数千円の特許印紙を買ってきました。
そして、それを特許書類に貼って、虎ノ門の特許庁に出願に行きました。
今考えると、郵送でもよかったのですが、1日でも早く出したかったのでした。
なお、その発明の内容というのは、今で言うところのカーナビみたいなものでした。
といっても、工学部ではないので、工学的な裏づけなどない、アイデアだけのものでしたが。
で、特許申請はしたのですが、その後の審査請求をするのに莫大なお金(十数万円以上)がかかるため(*)、結局、このときは申請以外のことはしませんでした。
その後、もう一度、似たような内容のものを特許申請しました。
しかし、こちらも申請をしただけでした。
(*特許申請と審査請求は別なんですよね。
よく商品に「特許申請中」とかって書いてますけど、あれって必ずしも特許が認定されているわけではないんですよね。
少なくとも公知の事実であって、彼らが特許申請したあとに出された同内容のものは特許にならないってだけのものでしかないんですよね。)
で、当時、僕はこのことについて、大学の数学教授に相談したのです。
「こんな発明をしたのです。特許申請したのです」と。
そうしたら、僕は教授に一笑に付されました。
その大学教授いわく、「そんなことをしてどうするのだ。お金がもったいない」と。
僕は、内心で、「そうじゃない」と思いました。
僕にとって、このときの発明が特許になるかどうかは、実のところ、どうでもよかったのです。
そういう経験を今しておくこと。
それが、そのときの僕にとって、一番大事なことでした。
その後、大学4年になって、就職活動をしました。
その面接の席で、僕は自分が大学時代に特許申請したことを話しました。
「これからは知的所有権が大事になるんだ」みたいな大げさな話をしました。
で、この面接の後に、あるソフト会社に入りました。
そして、それが、今の総合コンピュータ会社への入社に繋がりました。
その後、現在の会社で、発明評価の仕事をしたりもしました。
このときの活動は、企業における特許制度についての、よい勉強になりました。
先述の大学教授は、10年以上前、僕のカーナビに関する特許申請を笑っておられましたが、気がつくと、僕は今の会社の研究員として、今年からカーナビの研究をしていたりするのです。
人生って面白いものですね。
で、本題の特許についての話に戻りますが。
去年、ずっと取り組んでいたプロジェクトで研究したものが、このたび、特許申請されることになりました。
かなり紆余曲折があったのですが、とりあえず、特許申請することが社内において確定しました。
奇しくも、社会人になって、ちょうど10年目(の前日)のことでした。
人生はのんびり。
それなりに時間がかかるものですね。
あとは、弁理士の人にお任せして、その次のことを考えようと思っているのです。
まだまだ、僕は人生において、やりたいことがたくさんありますからね。
先日、母から電話があったので、上の話をしました。
母もですが、父も喜んでいました。
父から特許の話を聞いて、四半世紀近く。
まさかこういう形になるとは、父も想像していなかったでしょう。
なんとも気の長い話です。
何ごとも一朝一夕にはいかないということでしょうか。
人生には夢がたくさん。
目標がたくさん。
生きがいがたくさん。
全部が叶うわけではないけれども、これからも、一つ一つ実現できたらいいなと思います。
僕の人生には、まだもうしばらくの時間がありますから。
今回の掲載に当たっての追加:
本文中にあるカーナビの仕事は、その後離れました。
今、僕は医療機器に関する仕事をしています。
特許については、この文章を書いた半年後に、実際に出願されました。
まだ、審査中ですが、あと半年ぐらいで結果が出るのではないでしょうか。
この結果を聞くのが、今の僕の人生の楽しみの一つでもあります。
【随筆】結婚指輪を買いました
「【随筆】夢が一つ叶いました。」の続き。
結婚指輪を買いました。
今働いている外資系のコンピュータ会社の研究所の仕事で僕が発明して、今年の3月末に特許申請することが決まったのですが、それが先週ようやく出願されたようです。
2週間前に知的所有権を扱う部署から求められて英語の書類に英語でサインしたのですが、そのときの話では翌週特許出願するという話でした。
で、先週1週間が過ぎて、ようやく特許出願されたのかな、どうかなと思っていたら、今週はじめにもらった今月の給料で早くも報奨金が振り込まれてました。
うーむ、こんなに早く振り込まれるとは。
てっきり、まだ3,4ヶ月はかかると思ってたんですけどね。
ところで、以前から、この報奨金が入ったら、両親に指輪を買おうと思っていました。
前にも日記で書いたことがあるのですが、僕の両親、日本人の父と在日韓国人の母は、40年以上前の、'65年の日韓国交回復の年に結婚しました。
しかし、諸事情から結婚式とか一切出来ませんでした。
記念写真も結婚指輪もありません。
終戦から’65年までの20年間に日本と韓国の間に国交がなかったことを考えると、やっぱり難しいことが多かったんでしょうね。
それで、ずっと以前から、僕は、自分が何か賞金みたいなものでも得る機会があれば、それで両親に結婚指輪を買おうと思っていたのです。
それもまた長らくの夢でした。
で、前にも書いたように、自分は、小さい頃から発明をするのが夢だったので、出来れば、さらに、それで得た報酬で結婚指輪を買えると一番いいなあと思っていたのです。
問題は、自分がそれが出来るかどうかと、それまで両親が生きていてくれるかどうかでした。
特に母の方が10年前から高血圧でしょっちゅう倒れるし、多くの親戚がそれで亡くなっているので、その点が気がかりでした。
しかし、なんとか間に合うことが出来たようです。
報奨金が振り込まれることが決まった先週末、母に電話をかけて、「指輪を買うから指のサイズを教えてくれ」と言いました。
事前に言うとサプライズにならないですけど、指輪の場合、サイズが分からないといけないので、仕方がありません。
ところが、母にサイズを聞いたところ、予想に反して、あっさりと断られました。
「お母さんは、最近、体が本格的に悪い。1、2年も指輪が出来ないかもしれない。お金がもったいないから、お母さん、指輪いらない。」
そういわれても、こちらは10年も20年も前から構想していたことのだから、そう簡単に「じゃあほかのものにしよう」というわけにはいきません。
それで、僕は食い下がりました。指輪のサイズを聞いた。
「僕は、今日までお父さんにも、お母さんにも、何の恩返しもしてないから、せめて指輪ぐらい買わせてくれ。」
それでも、強く辞退されてしまいました。
かわりに電話の向こうで、父が「東京に行きたい、顔が見たい」といっているらしい。
それで、母が「指輪のかわりにその旅費を出してくれ。一緒にご飯を食べよう」という。
しかし、報奨金はけっこうな金額であって、その旅費を払っても、まだお釣りが来るのです。
「じゃあ旅費は出すから、その上で指輪も買おう。」
と言ったら、母が「どうしてもほかのものがいい、お父さんと相談して決めるから」と。
ところが、2日後の先週の日曜日に母から電話がかかってきた。
「来週までに指輪のサイズを測ってくる。
でも、決して高いのは買わないでくれ。
それだけは約束しておくれ。」
父が説得したのか、母はいつの間にか指輪を買ってもいいということになっていた。
で、今週、仕事が忙しくなければ、平日に1日有給をとって、下見をしたかったのだけど、忙しくてそれが叶いませんでした。
で、昨日の土曜日にようやく銀座で指輪を見ました。
できれば、ブランドの金の指輪がいいなあ、でも、きっと高いだろうなあと。
ところが、ブルガリとか、ティファニーとか、カルテイエとか、見てみると、全体的には高い(数十万円)のだけど、一部だけ極端に安いもの(5万円前後)があるんですね。
「花まるうどん」における「素うどん(小)」105円みたいなものでしょうかね。
せっかくなので、こういった感じのものを買うことにしました。
なお、このとき、ついでに、かのハリー・ウィンストンにも行ってみました。
いきなり百数十万円のダイヤだらけの指輪をたくさん見せられました。
「ここはどこ、僕は誰?」と、'80年代的な錯覚を催しました。
なお、HWでは初回から担当さんが付くようです。
僕の担当さんはエグゼクティブのオバサマでした。
担当のオバサマのやたらと落ち着いたスマイル¥0だけいただいて帰りました。
その後、エルメスなども見て回りました。
さて。家に帰ると母から電話。
「指輪のサイズは中指がXで、薬指がZよ。」
「ああそう。けっこう指太いね。」
「畑仕事をしよるけえね。それでね、指輪は中指で買(こ)うてね。薬指の買うたらいけんよ。一応、薬指も測ったけどね。」
(↑それでは意味がないでしょう。)
「なんで?」
「薬指はお父さんに買うてもらうけえ、ええ。結婚したときからそう決めとるんよ。まだ買うてくれとらんけど。」
(↑いつ買うてくれるんですか。)
「ほうか。まあ、ええわ。で、お父さんのサイズは?」
「えっ、お父さんの??」
(↑自分だけ買ってもらうつもりだったらしい。)
「せっかくじゃけん、お父さんとペアで買うたるよの。」
電話の向こうで、両親がしばし協議。
僕の父はこういうの興味ないんですよね。
結局、父は要らないとのこと。
なんだかなあ。
結婚指輪のつもりで買うつもりだったのに、予想外の理由で母から断られた上に、父からも断られ、仕方がなく断念しました。
父にはベルトを買うことにしました。
幕末の志士、吉田松陰の、処刑前の辞世の句は、たしか以下の通りであったと記憶します。
「親思う 心に勝る 親心
今日の訪れ 何と聞くらむ」
ようやく僕は自分が両親の薬指の指輪を買う立場でないことに気づきました。愚息です。
で、今日、日曜日。
僕は母の指輪と父のベルトを買いに行きました。
新美南吉の「手袋買いに」の仔ギツネのようですね。
ブランドですが、僕が、母の指輪はなんとなくティファニーがいいかなと思ってました。
というのは、母はブランドを全然知らないので。
「ティファニー」なら、オードリー・ヘップバーンの映画「ティファニーで朝食を」で、名前ぐらいは知ってるだろうと僕なりに読んでみたわけです。
(僕の両親は若い頃、よくヌーベルバーグとかの洋画を観てました。)
その途中、ちょっと田崎真珠とミキモトへ。
真珠も悪くないなあと。
値段も同じぐらいのがある。こちらは真珠付き。
でも、やっぱり昨日の下見どおりの選択から買うことに。
それで、ティファニーへ行きました。
ティファニーって銀とプラチナばかりで金の指輪が極端に少ないですよね。
さて。僕は母から「薬指の指輪」を断られたわけですが、こちらにも秘策があります。
それは、「ブライダルフロアの指輪」を買うという秘策です。
「ブライダルフロアで買う指輪」なら、「結婚指輪」でしょ。
我ながら、なかなかの秘策です。
というわけで、僕は生まれて初めて結婚指輪というものを買いに行きました。
つまり、ティファニー本店2Fのブライダルフロアへ。
そして、18Kの指輪コーナーへ。
見ると、10万円以下の商品が数点がありました。
細身で4万円台、太身で5万円台、ゴマ粒ほどのダイアが付いて6万円。
いろいろ見せてもらったのですが、僕は神経質になると指先をかじるクセがありまして、最近ずっと緊張していましたから、いつにも増してボロボロでした。
店員さんの前で自分の指先を見せるのが恥ずかしかった。
で、指輪ですが、母からあまり高いのを買うなといわれていたのですが、こういう機会もあまりないので、ダイア付きにしました。
母の金銭感覚で言うと、6万でもかなり高いのですが。
このとき、僕は思い出したことがありました。
小さい頃、近所の神社の縁日があって、母から100円の銀玉鉄砲を買うお金として、500円札を預かったのですが、結局、誘惑に負けて、500円のガンマンセットを買ってしまったのでした。
そうしたら、母はちょっとだけ叱った。
何かそんなことを思い出しました。
ちなみに、どうして、そんなに金にこだわるのかというと、以前読んだ本「海峡を渡るバイオリン」で、語りの陳昌鉉さんが「韓国では息子が母の60歳の誕生日に金の指輪を贈ることになっているから、それを贈った」というようなことをおっしゃっていたのです。
で、この陳さんの故郷は慶尚北道金泉郡でして、僕の祖父と同郷なのです。また、同じ中国姓なのです。
でありますから、僕も60歳を過ぎた母に金の指輪を買うつもりでいたのです。
プラチナでは駄目なんだな。
昔ながらの金でないと意味がありません。
(ちなみに、陳さんのお母さんの指輪のその後は本を読むと分かります。悪い人がいたもんだ。もったいないね。)
さて、その場で郵送を頼んだところ、4,5日かかるとのことでした。
そのまま郵送されそうになったので、あわててメッセージカードを書かせてもらいました。
つめ先が真っ赤になっているのが恥ずかしくて、店員さんに隠すように書いてたら、ちょっと変な字になってしまった。
「お母さん
指輪を大切にしてください
祐二」
それから、父のベルト。
こちらはカルテイエのベルトがいいかなと思ってました。
どうしてかというと、自分が前から欲しかったので。
これ以外にも、エルメスかヴィトンでもよかったんだけど、これらは長さの調節が出来ないので、贈答には向かないんですよね。
ところで、このカルテイエのベルト。予想よりちょっと高かった。で、バックルが少しゴージャス過ぎるかなと。
あまりゴージャス過ぎると、父が使いたがらないので、結局却下。
(↑以前、ヴィトンの長財布、キーケースを贈って、使いたがらなかった過去あり。)
結局、ダンヒルのベルトにすることにしました。
ところで、ちょっとした迷いから、フェラガモに寄り道。
運悪く、担当さんに遭遇。
フェラガモのベルトもいいんだけど、ちょっとシンプルすぎるのでNG。
でも、担当さんの笑顔に負けて、キーリングを購入。
事情を話したら、丁寧にリボンを巻いてくれました。
どうしよう。
まあ、いいや。そのうち、帰省したときにでもプレゼントしよう。
前のヴィトンのキーケースは車の鍵をつけると車の運転をする際に邪魔だとか言っていたので。
さて、その後、ダンヒルへ。
こちらのベルトは、値段、ゴージャスさとも、カルテイエとフェラガモの間ぐらい。
結局、このダンヒルの、バックルが回転式になっているものを購入。裏表が簡単に切り替えられるのです。
配送をお願いしました。こちらはクロネコなので、2日後には届くようです。
というわけで、ひと仕事終了。
家に帰って、電話で母に配送の連絡をしました。
今週、両親は島根の温泉に行っていたらしい。老後を楽しんでいますね。
母には、指輪が届くまでの、あと、4、5日は必ず生きていてもらいたいと思いました。
それから、せっかくなので、もうしばらく長生きをしてもらいたいと思いました。
さて、その後、2日ぐらいで、指輪が到着しました。
あらかじめ聞いていたよりも、ずっと早かった。
母はとても喜んでいました。
この歳になって、僕はこう思います。
「素敵なことは、照れずにやるべきです。」
この文章の追伸:
この間のGWに、両親が東京にやってきたとき、母はこの指輪をしていました。
日焼けして節くれだった指に、細い金の指輪がしてありました。
ゴマ粒ほどの小さなダイアが光っていました。
【小説】わんたん。
彼女は大田区の古いアパートに住んでいた。
彼女のアパートに初めて行ったのは、ある土曜日のお昼だった。
隣の部屋からジミヘン崩れのうるさいノイズ・ギターが聞こえてきた。
「うるさくない?」
「ううん。」
彼女は気にしていない様子だった。
部屋に上げてもらって、胡坐をかいて座っていると、窓越しに何かがうごめいていた。
彼女がガラス窓をあけると、そこには白と茶色のビーグル犬がいた。
彼女がその犬の頭をなでてやると、犬はうれしそうに尻尾を振っていた。
彼女は僕の方を向いて言った。
「わんたん。」
「わんたん?」
彼女は頷いた。
「わんたん。」
彼女はもう一度頷いた。
その犬は彼女のアパートの裏にある一軒家の飼い犬だった。
次の日の朝、布団から起きると、アパートと一軒家の少ない隙間から降りそそぐわずかな朝日を浴びた磨りガラス越しに、犬の茶色い鼻先が魚影のようにぼんやりと浮かんだまま行ったり来たりしてた。
「わんたんが来てるよ。」
そう言って僕が窓を開けようとすると、彼女は制止した。
「窓を開けちゃ駄目。」
振り向いた彼女の肌は雪のように白かった。
彼女はTシャツを被ってから、窓を開けた。
犬はまたうれしそうに尻尾を振っていた。
彼女の着たTシャツの背中には変な位置にてんとう虫のプリントがついていた。
「そのてんとう虫、何?」
「このTシャツ、大学の授業で作ったの。わざと変な位置に付けてみた。」
彼女は美大卒だった。
彼女が犬の頭を撫でているのを見て、僕は言った。
「わんたんTシャツを作ろうよ。」
「わんたんTシャツ?」
「そうだよ。わんたんのマークが入ったTシャツなんだ。それをたくさん作って、売るんだよ。俺たちのブランドを立ち上げるんだ。」
その頃、行き詰っていた僕は、四六時中、適当な夢を思いつくままに彼女に語っていた。
「それも面白いね。」
彼女はいつものようにまるで聞いてなかった。
次の週末、僕はTシャツくんを買って彼女の家に持って行った。
「これでわんたんTシャツを作ろうよ。」
彼女はあきれて言った。
「原画を描かないとね。」
それからしばらくの間、彼女は犬の絵を描いたり消したりしていた。
デザイン画の中で、わんたんは横を向いたり、尻尾を振ったりしていた。
同じ頃、僕は仕入れ担当を自称し、適当なTシャツを探していた。
あるとき、吉祥寺の100円ショップで、100円のTシャツを見つけた。
僕は彼女に言った。
「これでたくさん作ろうよ。」
彼女は首をかしげた。
「こんな安っぽいTシャツ、誰も買わないよ。」
僕たちは店先で口論になった。
当時の僕には、安いTシャツと高いTシャツの区別が付かなかった。
その後、結局、彼女が適当に描いたリンゴのTシャツが2枚出来ただけで、わんたんTシャツが作られることはなかった。
夢を描いては、実現しない。
そんなことを繰り返して、僕たちは20代の時間を無駄に過ごしていた。
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